Masuk夜の雨は、細く長く降り続いていた。慕美は助手席に座ったまま、濡れたボンネットに反射する街灯をただ眺めていた。立都市全体が雨に沈み、街の灯りは滲んで、いつもの華やかさも静かに影を潜めていた。夜九時前、車は静かに彼女の住むマンションの前に停まった。そこには、無駄のないラインを纏ったグレーのゴースト。運転席には、長身で落ち着いた雰囲気の男が座っていた。手はハンドルに添えたまま、静かに慕美の車を待っていた。遠くから照らすライトが目に刺さる。視界が慣れると、その男と澪安の視線が、夜の雨の中で交差した。どちらも成熟した男だった。どちらも成功者で、端正で、落ち着いた大人の余裕を纏っている。そして、どちらも慕美の元カレ。雨は止む気配もなく、静かに、人の心まで濡らしていく。慕美もすぐに允久を見つけた。彼とは昔から変に気まずくならない距離感でいられた。深夜に会うことがあっても、自然に話ができる相手。思慕にも優しかった。――あの「キス」までは。そして今、隣には澪安。慕美は一瞬何が起きているのかわからず、視線だけが允久に吸い寄せられた。胸の奥がざわつき、まるで誰かに浮気現場でも押さえられたかのような気まずさが込み上げる――ただ、その「誰」に対して後ろめたいのか、自分でも答えが出ない。沈黙が落ちた頃、澪安が横目で彼女を見て、小さく言った。「降りるな。傘取ってくる」慕美はまだ頭が追いつかないまま小さく頷いた。その瞬間、車のドアが開き、澪安が雨に濡れながらトランクへ回り、傘を取り出すと静かに差したまま助手席側へ戻ってくる。そしてドアを開け、短く言う。「傘持って下りろ。思慕は俺が抱く」慕美が降りると、自然に視線は允久の車へと向かってしまう。その瞬間――「傘、持て」低い声。嫉妬が隠しきれない声音。――形式だけの元夫だろ?それであの顔か?澪安はすでに思慕を軽々抱き上げていた。四、五歳児を雨から守りながら抱くのは難しいはずなのに、それを当然のようにこなす姿に、慕美の胸に小さな波紋が広がる。視線が合うと、またひとつ、冷たい目線。二人は急ぎ足でエントランスへ向かった。そのとき、允久も車を降りた。そのあと、大きなスーツケースが二つ運ばれ、その後ろから一人の女の子が
思慕は心の中で呟いた。――いやいや、雰囲気作って歩いてる場合?秋って子どもが一番風邪引く季節なんだよ?僕の免疫力、考えてくれる?三人は小走りで駐車場まで向かい、ほどなくして慕美の車に着いた。慕美が後部座席のドアを開けると、澪安は思慕を抱えたまま当然のようにしゃがみ、丁寧に座らせ、シートベルトまで締めた。そのままドアを閉めると、今度は迷いなく運転席へ回り込み、鍵を挿す。慕美は呆然と立ち尽くし、濡れた髪を払って彼を見る。「何してるの?」澪安の黒い瞳は夜に溶けるように深く、じっと彼女を見つめていた。黒いコートは彼女の肩には大きすぎて、生地がふわりと揺れるたび、そこに残る彼の体温と香りがまとわりつく。それがまるで「彼女に印をつけた」ようで、澪安の胸には言葉にできない感情が沈んでいった。澪安は短く低く言う。「乗れ。雨で路面が滑る」追い払うのは無理だと悟り、慕美は舌打ちしそうな気持ちで助手席へ回り込む。後ろの思慕はぱちぱちと瞬きをしながら二人を見つめていたが、大人同士の水面下の気配などわかるはずもなく、「パパは優しい」とただそれだけを信じている。エンジンがかかったとき、慕美は釘を刺した。「言っとくけど、今夜泊まらせる気ないから」澪安は答えず、ただゆっくり笑った。年齢を重ねた男の余裕――反則級。慕美は視線を逸らし、窓の外の雨を数え始める。滴る雨粒と街灯の光が滲み、夜は落ち着きすぎている。気づけばまだ澪安のコートを着ている自分に気づき、脱ごうとした瞬間――「着てろ。冷える」低い声が耳に落ちる。彼のシャツは薄く、襟元は湿っていた。慕美は心の中で毒づく。――風邪でもひけばいい。澪安は横目で笑う。「久しぶりに会ったら、口が凶器になってるな」慕美は無視した。頭の中では宗川という男の問題が浮かんでは消えていた。――あの人をどう切り離すか。――どうすれば、もう誰にも握られずに済むか。車内はしばらく静かだった。信号で止まったとき、澪安がふと彼女を見る。「仕事で困ってる?困ったら言え。俺は思慕の父親だ。守る責任くらいある」慕美は笑った。けれど温度はなかった。「思慕は守りたいなら守ればいい。でも私には必要ない」澪安はやや強めの声音で返す。「線引きか。
慕美がしようとしていることは、胸を張って言えるような仕事ではない。細々としていて、表には出せない類のこと。だから、澪安には言いたくなかった。舞はすぐに察し、息子を横目で睨む。「女の人のことに、いちいち首突っ込まないの」澪安は苦く笑い、慕美を見る。母と慕美はだいぶ打ち解けており、彼女はほとんど緊張していない。もし緊張しているとすれば――理由は自分だ。そう思うと、可笑しくて、そして少しだけ惨めだった。今は、自分が彼女の警戒心そのものになっている。そのとき、慕美が口を開く。「思慕を連れて帰る」澪安は腕時計をちらりと見た。「まだ七時だ。描き終わるの待てば?終わったら送る」まるで何事もなかったような態度。まるで、あの日、彼女を丸ごと抱いた男ではないかのように。その図太さに、慕美は一瞬顔が熱くなる。――でも、そうだ。昔、散々同じベッドで眠ってきた相手だ。いまさら視線ひとつで動揺する必要はない。そして何より、思慕は帰る気などさらさらなかった。彼は祖母も周防本邸も大好きで、最近は結代とも妙に仲良くなっている。澪安は思慕を抱き上げた。高級なスーツに油絵の絵具がつくことなど気にも留めず、ただ息子を抱きしめ、頬に口づける。時間をかけて築いた距離。思慕は自然と彼に甘えるようになり、柔らかい声で呼んだ。「パパ」澪安の胸がきゅっと縮み、思わず頭を撫でる。「集中して描け」横から結代が言う。「思慕はいつも気が散るの」澪安は吹き出しそうになる。「どこでそんな言葉覚えた?」結代は得意げに胸を張った。「ママが言ってた。夜になると、パパがそうなるって」――大人たち、全員固まる。家事をしていた使用人が思わず口元を押さえて笑い、「結代ちゃん、本当に頭がいいわね」と感心したように小さくつぶやいた。舞は娘夫婦の仲には満足しているが、澪安のことになると複雑だ。息子は良い父親だが、夫としては停滞している。できることなら慕美ともう一度やり直してほしい――そう思う気持ちはある。けれど、今の二人を見ていると、望んでいるのは澪安の方で、慕美はもう気持ちを置いてきてしまったようにも見える。だから舞は焦らなかった。望むのは息子が幸せになることだけで、形にこだわるつもりはな
すべてが妙に繊細になっていく。さっきまで意識的に避けていた曖昧さが、身体が触れ合うたびに、静かに――そして限りなく膨らんでいく。澪安の喉仏が上下し、声は掠れて、まるで胸の奥に火種でも抱え込んでいるようだった。「慕美、動くな。じゃないと、俺、自分を抑えられる自信がない」……慕美は彼に触れているぶん、その変化に気づいていた。昔、何度も近くにいた距離。だからこそわかる温度。最初は黙って受け止めていた。だが、次の瞬間、堪えきれず勢いよく蹴り飛ばす。「澪安、女が欲しいなら店にでも行けば?それか男性科でも受診したら?もう私に絡まないで。私たち、終わったんだから」容赦のない一撃に、澪安は一瞬呼吸を止めた。すぐにその足首を掴み、痛みに耐えながら低く笑う。「あいにく、俺はお前じゃないとダメなんだけど。俺にも彼女はいないし、お前にも男はいない。だったら、お互いちょっとくらい――慰め合ってもいいだろ?」慕美は冷たく鼻で笑った。「都合よすぎ」そのとき、彼女のスマホが震え、詩からの仕事連絡が入った。慕美は短く返事し、通話を切ると、澪安に向き直る。「今日は忙しいの。思慕は夜、私が迎えに行くから。それまであなたが保育園に迎えに行って。あと、服――前よりサイズ上げて用意して」もう時間がなかった。何年も経った今、怒り続ける理由はどこにもない。……シャワーを終えて戻ると、彼女が頼んだスーツの横には、高級なスキンケア一式まで並んでいた。慕美は遠慮なく封を切り、クリームを塗りながら言う。「経費扱いにして。詩に請求書送って。詩が振り込むから」澪安はすでに着替えていた。黒のシャツ、漆黒のネクタイ、ジャケット――完璧な装い。漫画の中の男みたいに整った横顔。思わず、慕美は数秒見てしまった。澪安は窓辺に寄り、少しだけ窓を開けタバコを吸っていた。少しだけ開けた窓の隙間から、白い煙を静かに外へ運んでいく。彼はじっと慕美を見ていた。昔は朝になると起きるのを嫌がり、彼の腕に甘えて離れようともしなかったのに、今では視線すら交わすことが特別なことのようで、その落差だけが静かに胸に落ちていく。慕美が玄関へ向かったとき、澪安が急に手首を掴む。その声音には、半分の問いと、半分の弱さがあった。「どうし
慕美は飲みすぎていた。だが酔いは抜けず、吐き気だけが喉元に張り付いて離れない。洗面台に手をつき、胸を押さえながら苦しげに息を吐く。詩が買ってきたワインが何だったのか――後から効いてくる質の悪い酒だった。鏡の景色が滲む。足元は頼りなく、身体は鉛のように重い。慕美は蛇口をひねり、冷水をすくって頬に当てた。すこしでも酔いを払おうとするように。そのとき、外から足音が近づいた。詩だと思った。だが入ってきたのは澪安だった。白い照明の下、影が幾重にも落ちる。慕美はぼんやりと鏡の中の彼を見つめ、赤く濡れた唇を開いた。「澪安?どうして……ここに?」澪安はゆっくり歩み寄り、彼女の背後に立つ。二人の姿が鏡に並ぶ。低く、抑えた声が落ちた。「慕美。俺から逃げて、辿り着いたのがこんな生活か?男に酒を注いで、泥のように酔って。それが、お前の望んだ未来なのか?」慕美は酔っていた。だが言葉を返せないほどではなかった。彼女は身体を洗面台に預けるように寄りかかり、ゆっくり顔を上げた。その瞳は濁っておらず――まっすぐだった。「誰のせいだと思ってるの?澪安。あの頃言ったよね。『お前は俺の役に立たない。側にいて、黙っていればいい』って。そういう私を……あなたは望んだの?もし結婚していたら?あなたは外で遊び続けて、私を尊重なんかしなかった。あの頃の私は……家具の一つでしかなかったでしょう?今の私は、酒を飲んででも仕事を取って、思慕を育ててる。自分の手で稼いで、選んで、生きている。でも……あなたの家にいれば?『周防家の金で生きてる女』よ。あなたが好意を向ければ天国で、周りに冷たい視線があれば……あなたはきっと私を嫌いになる。私はあなたに恨みなんてない。階級が違うんだから――仕方ない。でももう、都合のいい優しさだけ向けないで。終わった関係に、恋人の顔をしないで。不快なの」最後の言葉とともに、目尻が少し潤んだ。忘れるには、あまりに深かった。置いていくには、あまりに痛かった。あのとき、彼女は全てを断ち切るように去った。あれほど激しく離れたのだ。忘れるまでに、どれほどの強さが必要だっただろう。心が静まるまで、どれだけ時間がかかっただろう。それでも、慕美は自分に言い聞かせた。やり切らなけれ
夜が更け、澪安は車を走らせていた。だが帰路の先は周防本邸ではなかった。目的地もなく、立都市の道を彷徨うように走り続け、ふと昔二人で暮らした家へ、母親が住んでいた古いマンションへ、そして最後に辿り着いたのは――栄光グループ本社だった。夜風が、黒光りする車体の側面を撫でてゆく。長い足が車から降りる。主人とロールスロイスは同じ空気を纏っていた。冷たく、近寄りがたいほど美しい。澪安はビルに掛かる巨大スクリーンをじっと見つめた。今映っているのは人気女優の広告映像。派手で、艶やかで、完璧で――なのに、彼の脳裏に浮かぶのはまったく違う光景だった。――慕美が空港でライブ配信をしていた日。カメラの前で笑いながら、彼女は言った。「栄光グループの周防澪安とは、ただの幼なじみ。そんな人が、私なんかと恋愛するわけないじゃん」そのとき、彼女の瞳には涙が溜まっていた。あの時――慕美は妊娠を知ったのだ。彼女は、どんな気持ちで彼の側から離れたのか。夜風が前髪を揺らし、彫刻のような顔立ちが露わになる。完璧で、遠くて、触れられない存在。高級車が止まるたび、夜の女たちがちらりと彼を盗み見る。けれど、その空気に触れた瞬間――全員が足を止めた。……薄明かりが空を染め始めた頃、澪安は車を周防本邸へ戻した。停車するや否や、スマホが鳴る。通話を取ると、慕美の落ち着いた声が響いた。「数日、出張になるの。思慕を預かってもらえない?」澪安は片手でハンドルを握りながら、低く返す。「出張?それともデート?はっきりしろ、慕美」「出張」珍しく、言い返さない。今回の案件は隣の都市でトラブルが起き、彼女が動くしかなかった。これまでは詩に任せていたが、今は思慕が正式に周防家に属した。――使えるものは使う。彼女はそのあたり、実に割り切っていた。数秒の沈黙が続く。電話口の向こうで、彼女が息を整え、少しだけためらってから言った。「もしかして迷惑?澪安……まさか恋人でもできた?」その言葉に、澪安は吹き出すように笑い、低く嗤った。皮肉にもほどがあった。彼女が帰国してから、何度問いかけたと思っている。――まだ俺を愛しているか?――戻ってこい。――思慕のためでいい、俺たちは……なのに







