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第850話

Author: 風羽
部屋の灯りは柔らかく、慕美の横顔を淡く縁取っていた。

五年という時間が流れても、その肌は白く、どこか幼さを残しながらも、目元には大人の女性らしい艶が宿っている。

「好きなんかじゃない」

そう言った声は小さかったが、澪安にはわかっていた。

允久、あの男こそ、自分にとってもっとも厄介な存在だと。

彼女が自然に笑い、抵抗なく距離を許せる相手。

どんな男でも、そんな関係を前にすれば、胸の奥がざらつく。

澪安は言葉の代わりに唇で塞いだ。

先ほどまでの優しさとは違い、口づけは深く、強く、所有の色を帯びていた。

重ねては離れ、奪っては与える。互いに息を乱しながら、何度も、何度も。

その熱が最高潮に触れた瞬間、玄関の方から控えめなノックが響き、澪安が息を整えながら囁いた。

「デリバリーか」

慕美は顔を逸らし、濡れた睫毛を伏せる。頬は薄紅に染まり、肩に流れた黒髪がやけに艶めいて見えた。

小さく頷いた彼女を見て、澪安は身を返し、外から届いた袋を受け取ると、わざと灯りを落としたまま戻ってきた。

「澪安」

不安と期待が交じった声で名前を呼ぶと、彼はまた近づき、後頭部を支えるようにして口づけた。

「ここで?それとも――寝室?」

そう問われ、慕美は彼の首に腕を回し、震える声で答えた。

「……寝室」

次の瞬間、身体がふわりと浮き、そのまま抱き上げられる。

進むたび唇が触れ、落とされたベッドの柔らかさと、肌に触れる体温が境界を溶かしていく。

そして夜は深く、長く続いた。

「もう慣れていない」と口では言ったくせに、いざ触れれば長く空いていた時間を埋めようとするかのように、夢中で彼女を求め、離れようとしなかった。

夜は深まり、温かな部屋にはまだ灯りがともっていた。

ようやく彼女を手放した頃には、澪安も息を潜めていた。

慕美を抱き上げて軽くシャワーを済ませたあと、濡れた髪をタオルで拭き、丁寧に乾かし、スキンケアまで済ませてやる。

だが、その手つきがだんだん怪しくなっていくのを感じて、慕美は目を閉じ、くすぐったそうに呟く。

「澪安。どれだけ溜めてたの」

彼は喉の奥で笑い、短く答えた。

「一度もしてない」

慕美は聞き返さなかった。

その指をそっと外し、肩に顎を乗せたまま言う。

「ねえ。少し話そう」

本来なら、男にとって言葉より行為の方が優先さ
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