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第7話

Author: 八十八
母親は悔しげに歯ぎしりしている。

長い年月、母親は母子離れ離れのつらさに耐えてきた。息子である俺が幸せに暮らしていると信じていたからだ。

だが今、母親は突然知ってしまった。この数年、俺がこんなにもつらい日々を過ごしていたのだと。

電話の向こうの梨衣は、一瞬で黙り込んだ。

まさかこちらから聞こえてきた声が、俺の母親のものだとは思いもしなかったのだろう。

それから彼女はハッとして、全身が震えるような、あることを思い出した。

良介は本当に行ってしまったのだ。

数千キロメートルも離れた、両親のもとへ。

彼女の声には、はっきりとした動揺と信じられないという色が滲んでいる。「おばさん、なんで良介のスマホを持っているんですか。本人はどこにいるんです?」

口をついて出たその問いのあとで、彼女はようやく母親に説明しようとした。

「誤解です。良介が焼きもちを焼いて、私の友達に当たってしまって……私はただ謝ってもらいたかっただけなんです。さっきは私が感情的になりました。すみません、スマホを彼に渡していただけますか」

母親は冷たく言った。「うちの息子は誰かに当たったりしないわ。そんな汚い考えで、この子を測らないで。

それにあなたのこともね、息子が長いこと好きだったから今はあえて責めないけど……もうこの子にかまわないで。そうじゃなきゃ、しっかり躾けてやるわよ」

そう言い捨て、母親は電話を切った。

時折、手で涙をぬぐったりしながら。

俺は歩み寄って母親を抱き寄せた。「もういいよ。男なら、少しくらい経験が必要なんだ。

全部もう終わったことだよ」

母親からスマホを返してもらって初めて、未読のメッセージが大量に届いているのに気づいた。

友達や同僚からのものだ。

みんなが尋ねている。何があったのか、どうして梨衣が狂ったようにみんなへ連絡しているのか。

本当に結婚するのか、誰と結婚するのかと。

【知らなかったよ。向こうで泣いたり怒鳴ったり、まるで気が触れたみたいでさ】

【それに、こうなったのは全部あなたのせいで、せっかくの生活を台無しにして、悪いことをしても謝らず、挙げ句の果てに親に告げ口したって言いふらしてる】

以前の俺なら、こんな話を聞いたら胸が張り裂けるほどつらく、悔しくてたまらなかっただろう。

彼女に向かい、いったいどちらが悪いのか問いただしていた
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