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第4話

Author: 桜吹雪
7年ぶりに会う愛莉は、昔と何ひとつ変わっていなかった。

黒く長いストレートの髪をさらりと下ろし、白いワンピースを身にまとっている。細い腰は、両手で包めそうなほどだった。

手のひらに収まるような小さな顔は、紙のように白い。大きな瞳にはうっすらと涙が滲み、今にも泣き出しそうな、儚げな表情を浮かべている。

昔も、今も変わらない。愛莉はいつだって、人の保護欲を掻き立てるような女の子だった。

その隣で、和哉が彼女の身体を支えている。まるで壊れ物でも扱うように、そっと、慎重に。

いつも冷たく、何を考えているのか分からないほど黒々とした瞳には、今まで私に向けられたことのないほどの優しさが浮かんでいた。

彼はただ、ひたむきに愛莉を見つめている。ほんの一瞬でも目を離したら、またどこかへ消えてしまうのではないか――そんなふうに思っているようだった。

整った唇の端には、かすかな笑みが浮かんでいる。その顔にあるのは、安堵と幸福。

まるで、失ったものをようやく取り戻したかのような顔だった。

そして、二度と手に入らないと思っていた宝物を、今度こそ失わないように、大切に、大切に抱えている。

和哉を3年追いかけて、7年も一緒に暮らした私を見る時、和哉の目に、こんな光が宿ったことは一度もなかった。

――そういうことだったんだ。

本当に誰かを愛しているなら、何も言わなくても、想いは目に出る。

「愛ちゃん、足元に気をつけてね」

和哉が低い声でそう言った。

聞いたこともないほど、優しい声だった。

その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。

……そうだ。

「愛ちゃん」という愛称は、もともと愛莉のものだった。

あんなふうに愛らしく、儚げな女の子だからこそ、この愛称がついたのだ。

私は昔から気が強くて、友人たちもほとんどが私を名前で呼んだ。家族からもそうだった。

「愛ちゃん」と呼ぶ人なんて、誰もいなかった。

……ただ和哉を除いては。

いや、違う。

和哉が呼んでいたのは、私ではなかった。7年もの間、彼がずっと忘れられなかった人――愛莉を、呼んでいたんだ。

そのとき、和哉が壁際に立つ私に気づいた。整った顔に、はっきりと驚きが浮かぶ。

「……どうしてここに?」

やっぱり。

彼の大切な人が戻ってきた今、身代わりだった私には、もう用がないのだ。

私に話しかける声までも、まるで赤の他人に向けるように冷たかった。

胸の奥を、鋭い痛みが貫く。足元がふらつき、立っていることさえ難しくなりそうだった。

――10年間も和哉を愛したのは、いったい意味があったのだろうか。

目の奥が熱くなる。涙がこぼれそうになった。けれど、泣くわけにはいかない。

負けたくなかった。こんなところで、私の傷ついた顔を和哉に見られるなんて、絶対に嫌だった。

私は顔を上げ、目を大きく見開いた。込み上げてくる涙を、必死に押し戻す。

そして、何でもないことのように笑った。

「朝、食事を抜いちゃって。低血糖を起こしたみたい。沙耶香が心配して、病院まで連れてきてくれた」

「……そう」

和哉は、それしか言わなかった。

私に対してはいつもそう。必要最低限の言葉しか口にしない。

体調を気遣う言葉ひとつさえ、かけてくれない。

それが、急に悔しくなった。私は笑顔を崩さないまま、尋ねた。

「和哉は?どうして病院に?」

和哉の視線が愛莉へ向く。

さっきまでの冷たさが嘘のように消え、瞳いっぱいに柔らかな光が宿った。

「愛ちゃんの付き添い。体調がよくないから、定期的に診てもらってるんだ」

愛莉が、ふっと身体を揺らした。そして、まるで狙ったように和哉の胸元へ倒れ込む。

「愛ちゃん、大丈夫?どこか具合が悪いのか?」

和哉の顔色が変わった。

「うん……ちょっと、眩暈がして……」愛莉は弱々しく答える。

その声を聞いた途端、和哉は彼女の手を握った。その声音には、隠しきれないほどの心配が滲んでいた。

「もう少し頑張ろう、すぐ順番が来るから。先生にも話を通してある。市内でも一番評判のいい先生に診てもらえるように、予約を取ったから」

私の心が、底の見えない暗い海に、ゆっくりと沈んでいくようだった。

――和哉。

あなたが今持っている人脈も、仕事のつながりも、全部私が与えたということを、もう忘れたの?

その人脈を使って、今度は愛莉のために奔走するの?

あなたに渡された離婚届に、私はまだ署名をしていない。

戸籍上では、私たちは今も夫婦なのに。

それなのに――

私の目の前で、平然と別の女を抱き寄せるの?

私の前では、いつだって孤高で、冷たく、誰にも媚びなかった和哉。

その男が今は、愛莉のためならと、必死に言葉を尽くしている。

まるで女神に仕える、敬虔な信徒のように。

胸の奥で、何かが崩れ落ちた。耳を塞ぎたくなるほどの轟音が、頭の中を揺さぶる。

また頭がずきずきと痛み始めた。

私はまともに立つことさえできず、壁に身体を預ける。込み上げてくる痛みに耐えながら、必死に倒れないよう踏ん張った。

そんな私の異変に、愛莉が気づいたらしい。

「和哉、愛さんの様子を見てあげて。少し具合が悪そうだから」

けれど、和哉は笑みを浮かべたまま、何でもないことのように答えた。「大丈夫だよ。低血糖なんて、いつものことだから。彼女は仕事してると、よくそうなるんだ。糖分を摂ればすぐ治るさ」

――おかしい。

思わず笑いそうになった。

和哉、あなたも知っていたんだね。私が昔から低血糖を起こしていたことを。

じゃあ、どうして私が倒れるほど働いていたのか――その理由を知ってる?

食事を抜いて、睡眠を削って。自分の身体を後回しにして働き続けたからこそ、今のギャラリーを築けた。

あなたが家で絵を描き続けられるように、私が外を走り回って、仕事を取ってきた。

それなのに――あなたは、「いつものこと」の一言で片づけた。

「和哉、そんなこと言ったら、愛さんが気を悪くするよ」

愛莉が、また心配そうな声を出した。

和哉はようやく私を見る。けれど、その顔には罪悪感がなかった。

「大丈夫。もう彼女にはちゃんと話してあるから。僕のことをわかってくれているし、怒ったりはしないさ」

胸の奥が、また鋭く痛んだ。

――和哉。あなたは、ただ愛莉のそばに戻るためだけに、私に離婚を切り出しても、私がすんなり受け入ると思っているようだけど……

どうやら、私はあなたを、甘やかしすぎたのかもしれない。

私が何も言わずにいると、和哉はまるで言い訳でもするように、付け足した。

「……愛ちゃんは身体が弱いんだ、もう行っていいか?」

身体が弱い。

――じゃあ、私は?私の身体は、丈夫だったというの?

和哉が家で絵に集中できるように、私はずっと外を駆け回っていた。仕事から帰れば、疲れ切った身体を引きずって食事を作り、片づけをする。

会社の仕事が立て込めば、夜通しパソコンに向かった。

そうやって何年も無理を重ねてきたせいで、身体には少しずつ不調が積み重なっていた。

和哉の仕事につながる話を得るために、名のある人たちとの席にも何度も顔を出した。

胃が出血するほど酒を飲んだことだってある。

そして、今の私は、和哉の子を身ごもっている。

それでも、和哉は私のことを少しも気にかけてくれなかった。

怒りで、身体が震えた。ぶかぶかの病衣では隠しきれないほどに。

けれど、和哉は気づかなかった。彼の目に映っているのは、少年の頃からずっと心の奥にしまい続けていた、愛莉だけだった。

愛莉が小さく咳き込む。それだけで、和哉はすぐに彼女へ顔を向けた。

「ここで待ってて。温かい飲み物、何かもらってくるから」

そう言うと、和哉は足早にその場を離れていった。

彼の姿が2階の廊下の角に消えると、愛莉は、さっきまで浮かべていた儚げな表情をすっと消した。代わりに、勝ち誇ったような笑みが唇に浮かぶ。

憐れむような目で私を見つめながら、声には隠しきれない蔑みが滲んでいた。

「あなたたち、まだ離婚してないでしょうけど、和哉は私のものよ。あなたなんかに、彼を奪えると思わないで」

私は冷たく彼女を見返した。

身体にはまだ力が入らず、声も弱々しい。それでも、言い返さずにはいられなかった。

「愛莉、勘違いしないで。7年前、和哉を裏切って、別の男と海外へ行ったのはあなたでしょう。私はそのあと和哉と結婚して、7年間夫婦として暮らしてきた。今だって、戸籍上ではまだ夫婦だよ。それなのに、私があなたから和哉を奪うって……どういう理屈なの?」

愛莉は、ふっと唇の端を上げた。その笑顔は、ぞっとするほど美しかった。

「ふふ、理屈なんてどうでもいいよ。私に裏切られたとしても、和哉はずっと私を好きでいてくれた。あなたは10年も彼を追いかけて、何でも言うことを聞いて、彼のために尽くしてきたのに、愛してもらえなかった。そんな自分が、惨めだとは思わないの?」

和哉の心に、私の居場所がなかったことくらい知っている。

それでも――

その言葉を、愛莉の口から聞かされるのだけは耐えられなかった。

「もう和哉と離婚するって決めた。それで十分でしょう?」

愛莉は耳元に落ちた髪を細い指で払い、くすりと笑った。その瞳が、いっそう鮮やかに輝く。

改めて見ると、彼女は本当に綺麗な人だ。

儚げに伏せた睫毛も、かすかに震える唇も、男の庇護欲を掻き立てる術を知り尽くしているようだった。

けれど、よく見れば――

その顔には、精巧な「病人」のメイクが施されていた。肌も唇も、不自然なほど血色が薄い。化粧品で意図的に青白く見せているのだ。

少しでも弱々しく、守ってあげなければならない女に見えるように。

愛莉は私のすぐそばまで歩み寄った。そして、声を潜める。

「私、すごく元気だし、病気にもかかってない。でも和哉には、もう長くないって嘘をついたの。私が余命いくばくもないと聞いたら、彼はすぐあなたを捨てて、私のところへ戻ってきたの」

「……どうして、そんなことをするの?和哉があなたのことがずっと好きだったって、よく分かってるでしょう?あなたが呼べば、和哉はきっとどこにいたって戻ってくる。どうしてわざわざ嘘までつく必要があったの?」

自分でも驚くほど、声には悲しみが滲んでいた。

私は、和哉を心から愛していた。10年間、ずっと。

最後の最後で私を選ばなかったとしても、彼が生涯で一番愛した人に騙されるのだけは、どうしても見過ごせなかった。

愛莉のやり方は、もっと理解できなかった。

彼女が「来て」と言えば、和哉は迷うことなくついていく。

それほどまでに愛されているのなら、どうしてわざわざ手の込んだ嘘までつく必要があるのだろう。

「ふふ」愛莉が笑った。

その瞳は星のようにきらめき、笑顔は朝露をまとったクチナシの花のように、清らかで可憐だった。

彼女は一言ずつ、噛みしめるように言う。

「あなたに仕返しをするためよ。7年も和哉を独り占めして、そのうえ子どもまで使って彼を縛ろうとするなんて。そんなあなたを、私が簡単に許すと思う?

お腹の子が生まれたときには、もう父親がそばにいない。そんな子にするか――それとも、その子を諦めて、自分の手で殺すか。どちらを選んでも、あなたは苦しむことになるでしょ?」

「愛莉……私のことを調べたの?嘘をついてまで、和哉に離婚して欲しいって?私は、あなたに恨まれるようなことを何もしてなかったのに、どうしてこんなことができるの……?」

愛莉は笑った。その笑顔は、さっきよりも明るかった。

「どうしても何も、和哉は私のものだから。たとえ私が彼をいらないと思ったとしても、彼の心は私だけのためにあるの。誰にも渡さないわ。

愛さん、あなたには、ちゃんと代償を払ってもらうからね」

「愛莉……本当に、どうかしてる」

私は歯を食いしばった。

こんなにも美しく、弱々しく見える顔の奥に、狡猾で残酷な心が隠れているなんて、信じられなかった。

醜いほどに歪んでいる彼女の顔を見て、私は思わず右手を振り上げた。

頬を叩いてやりたい。

けれど――

その手は、どうしても振り下ろせなかった。

幼い頃から、厳しく教えられてきた。

感情に任せて人を傷つけてはいけない、と。何があっても、自分を律しなさい、と。

もちろん、今だけは思った。

ドラマに出てくる浮気された妻みたいに、愛莉の髪を掴んで、人目のあるところまで引きずっていって、思いきり殴ってやりたい。

けど、身体に染みついた理性が、私を止めた。怒りに任せて喚き散らすような真似だけは、どうしてもできなかった。

――そのとき。

和哉の姿が、再び角の向こうに現れる。

その瞬間、愛莉が突然、自分の頬を思いきり叩いた。そして、そのまま力が抜けたように床へ倒れ込む。

赤く腫れた頬を押さえながら顔を上げると、涙が溢れた。その瞳には、まるで怯えた子鹿のような無垢な光を宿している。

震える声が、廊下に響いた。

「愛さん、どうして……?そんなに……私のことが嫌いなの?」

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