All Chapters of 私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

オークションで、和哉の『最愛』シリーズの最終作――『再会』に、なんと2億4千万という破格の値がついた。淡い紫を基調にした油彩画だった。満天の星空の下、白いドレスをまとった少女が静かに佇んでいる。その背後には、夢のようなバイオレットの花畑が広がっている。少女の瞳は星のように澄み、どこまでも純粋で、見る者の胸を掴むような儚さを湛えていた。和哉は繊細な筆致とロマンチックな色彩で、夢のような美しい光景を描き出している。絵の中の少女は、生命力に満ち、息を呑むほど美しく、誰もが心の奥に思い描く「忘れられないあの人」そのもの。絵を見た人たちは、口々に言った。――この絵のモデルは、きっと愛さんだと。そして、和哉は絵の隅に、愛情のこもった言葉を残していた。――「最愛の愛ちゃんへ」。落札を告げるハンマーが鳴り響く。『最愛シリーズ・再会』を競り落としたのは、外国人のコレクターだった。インタビューに応じた彼は、カメラに向かって、祝福の言葉を口にした。「立花さんと奥さんの愛にとても感動しました。私は『最愛』シリーズが大好きです。2人がいつまでも仲良く、ずっと幸せでありますように!」会場は、大きな拍手に包まれた。画面に映る、どこか憂いを帯びた和哉は、真っ白なシャツに身を包み、ほんの少し口元を緩めている。向けられる祝福も、称賛も、素直に受け止めていた。オークションのライブ配信には、私たちの愛を称えるコメントが次々と流れていく。【和哉さんが注目されるようになったのって、愛さんに支えてもらえたからなんだって!愛さん、まさに「夫を成功させた妻」って感じ!】【大学卒業後、和哉さんは就職せずにずっと創作に専念してたんだよね。愛さんが働いて生活を支えてたからこそ、今の和哉さんがあるんだと思う!】【下手な恋愛小説より感動するんだけど!こんな夫婦、現実にいるんだ】【和哉さん、人気俳優と並んでも顔が全然負けてない。愛さんも綺麗だし、仕事ができるし、この2人は推すしかない!】スマホには、途切れることなくメッセージが届いていた。【愛さん、おめでとう!長年の苦労が報われたね!】【愛さんのこと、嫉妬しちゃうくらい羨ましいよ!】【愛、今日は結婚記念日でしょ?和哉さんが絵を出したのって、愛へのサプライズなんじゃないの?ロマンチック
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第2話

メッセージとテーブルにある書類を目にした私は、すべてを悟った。――結局、全部、私の独りよがりだったのだ。和哉が愛していたのは、最初から私ではない。幼い頃から心の奥に住み続けていた、幼なじみであり、忘れられない女性――愛莉だった。和哉が口にする「愛ちゃん」も、私の名前から取った呼び方ではなく、愛莉の愛称だったのだ。そういえば和哉は、何度も言っていた。私の目は愛莉に似ていると。そして、私の目元に何度も口づけては、優しい声で「愛ちゃん」と呼んだ。あれは私を愛していたからではない。私の中に愛莉の面影を重ねていたにすぎなかった。私は、ただの身代わりだった。思えば、初めて彼の絵を見たときから、細かな違和感には気づいていた。『最愛』シリーズは、私のために描かれたものだと思っていたが、違った。私は3年も和哉を追いかけ続けて、ようやく彼に受け入れてもらった。それも、私が一方的に想いを注ぎ続けた末のこと。そんなふうにして手に入れた関係を、和哉にとっての「最愛」だと思うほうが、どうかしていた。絵の中の少女も、私に似ていたのは目元だけだった。それ以外は――最初から、愛莉を描いたものだったのだ。紫色も、愛莉が一番好きな色。そして、背景に咲き誇っているバイオレット。花言葉は、「永遠の愛」。和哉は、絵を通して愛莉に想いを伝えていたのだ。私のために描いたのだと思っていた『最愛』の絵は、本当はずっと、愛莉だけに捧げられていたものだ。それなのに私は、恋に目が眩んでいた。絵の隅に「最愛の愛ちゃんへ」と書かれているのを見るたび、そこに込められた想いまで、自分に向けられたものだと信じていた。10年間、ずっと。私は、愛してさえいれば、いつか愛されるのだと思っていた。10年も尽くせば、どんなに冷たい心だって、少しは温まるのかもしれない。そう思っていたが、違っていた。不思議なことに、真実を知った瞬間、私は思っていたほど取り乱さなかった。もしかすると私は、心のどこかでずっと分かっていたのかもしれない。いつか、こうなる日が来ることを。私は離婚協議書を手に取り、ざっと目を通した。和哉は、結婚後に築いた共有財産をすべて放棄するつもりらしい。家も、車も、会社の株も、現金も。何も持っていかず、絵を売って得たお金
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第3話

幼馴染の竹内透(たけうち とおる)だった。少し考えてみれば分かることだ。ノックしたのは、和哉のはずがない。この家で7年も暮らしていたのだ、当然鍵を持っている。それに――ずっと想い続けていた愛莉が帰国したのだ。そんな和哉が、私に未練を残して帰ってくるわけがない。また私は、自分に都合のいい夢を見ていただけだった。私は、ドアの向こうの透を無視した。すると、スマホが鳴り出す。透からの電話だった。そういえば、さっきマナーモードにするのを忘れていた。電話が鳴ったことで、私が中にいると分かったのだろう。ドンドン――ドアを叩く音が、さらに激しくなる。「愛!いい加減開けろ!開けないなら、鍵を壊すぞ!」私は思わず呆れた。――いかにも透がやりそうなことだ。昔から短気で、考えるより先に身体が動く。そして、身体だけは無駄に頑丈で、頭の中は単純。学生の頃から、いわゆる学校の番長みたいな存在だった。短気で無鉄砲。そんな幼なじみなのだ。ドアが丈夫じゃなければ、とっくに蹴破っているかもしれない。仕方なく、私は重い身体を起こして玄関へ向かった。鍵を開けた途端、透が勢いよく中へ飛び込んできた。その大きな手が私の肩を掴み、目には、怒りの炎が燃えている。「和哉がSNSに載せてた写真だけど、あれはどういうことだ?」私は力なく笑った。「……写真って?」「は?」透が目を見開く。「和哉と岩崎愛莉が、恋人の聖地って言われてるあの山頂でキスしてる写真だ。見てないのか?」私は首を横に振った。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。「……見てない。和哉に、とっくにブロックされてると思うから」透は一瞬、言葉を失った。まるで信じられないという顔で、私のスマホをひったくる。和哉のプロフィールを開くと、そこに「投稿がありません」とだけ表示された。透の顔が、一気に険しくなる。怒りに任せて、私のスマホを床へ叩きつけた。画面が一瞬で蜘蛛の巣のようにひび割れる。私は、そんな透をぼんやりと見つめていた。もう、怒る気力すら残っていなかった。透は、呆れ果てたように私を見た。「この1ヶ月、和哉は毎日SNSに惚気話をのせてたんだぞ。俺はてっきり、お前たちが幸せにやってるんだと思ってた。まさか全部、あの女に見せるため
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第4話

7年ぶりに会う愛莉は、昔と何ひとつ変わっていなかった。黒く長いストレートの髪をさらりと下ろし、白いワンピースを身にまとっている。細い腰は、両手で包めそうなほどだった。手のひらに収まるような小さな顔は、紙のように白い。大きな瞳にはうっすらと涙が滲み、今にも泣き出しそうな、儚げな表情を浮かべている。昔も、今も変わらない。愛莉はいつだって、人の保護欲を掻き立てるような女の子だった。その隣で、和哉が彼女の身体を支えている。まるで壊れ物でも扱うように、そっと、慎重に。いつも冷たく、何を考えているのか分からないほど黒々とした瞳には、今まで私に向けられたことのないほどの優しさが浮かんでいた。彼はただ、ひたむきに愛莉を見つめている。ほんの一瞬でも目を離したら、またどこかへ消えてしまうのではないか――そんなふうに思っているようだった。整った唇の端には、かすかな笑みが浮かんでいる。その顔にあるのは、安堵と幸福。まるで、失ったものをようやく取り戻したかのような顔だった。そして、二度と手に入らないと思っていた宝物を、今度こそ失わないように、大切に、大切に抱えている。和哉を3年追いかけて、7年も一緒に暮らした私を見る時、和哉の目に、こんな光が宿ったことは一度もなかった。――そういうことだったんだ。本当に誰かを愛しているなら、何も言わなくても、想いは目に出る。「愛ちゃん、足元に気をつけてね」和哉が低い声でそう言った。聞いたこともないほど、優しい声だった。その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。……そうだ。「愛ちゃん」という愛称は、もともと愛莉のものだった。あんなふうに愛らしく、儚げな女の子だからこそ、この愛称がついたのだ。私は昔から気が強くて、友人たちもほとんどが私を名前で呼んだ。家族からもそうだった。「愛ちゃん」と呼ぶ人なんて、誰もいなかった。……ただ和哉を除いては。いや、違う。和哉が呼んでいたのは、私ではなかった。7年もの間、彼がずっと忘れられなかった人――愛莉を、呼んでいたんだ。そのとき、和哉が壁際に立つ私に気づいた。整った顔に、はっきりと驚きが浮かぶ。「……どうしてここに?」やっぱり。彼の大切な人が戻ってきた今、身代わりだった私には、もう用がないのだ。私に話しかけ
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第5話

私は、呆然と愛莉を見つめた。まさか――ここまで露骨に私を陥れたとは。「愛ちゃん!」愛莉の涙を見た瞬間、和哉は手にしていた紙コップを放り出した。そして、まるで何かに取り憑かれたように駆け寄り、床に倒れた愛莉を抱き起こす。荒い息を吐きながら、必死に彼女を胸に抱き込んだ。「愛ちゃん、大丈夫か?」愛莉の長い黒髪は乱れ、怯えたように和哉の胸に身を縮めている。白い頬には何本もの髪が張りつき、その瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ちた。「愛さんが……全部私が悪いって。私、ちゃんと謝ったのに……許してくれなくて。ごめんなさい。全部、私のせいなの。和哉、愛さんのところに戻ってあげて。私は、和哉が幸せでいてくれれば、それだけでいいから……」その瞬間、和哉の顔から、最後の理性まで消えた。右手が上がり、次の瞬間、思いきり頬を打たれた。私は反射的に顔を背ける。頬がじんじんと痛む。もともと鈍く疼いていた頭も激しく痛み、今にも割れてしまいそうだった。けれど――心の痛みに比べれば、そんな身体の痛みなど、どうでもよかった。私が10年間、すべてを捧げて愛した男。その男が、自分を裏切った女の一言で、私を殴った。あまりにも馬鹿げていて、現実のこととは思えなかった。……いや。馬鹿げていたのは、和哉じゃない。きっと、私のほうだ。和哉は怒りに満ちた目で私を睨みつけていた。その目は、生涯の敵とでも見るように冷たかった。「君が、ここまで話の通じない人間だとは思わなかったよ。愛ちゃんは、がんなんだ。もう長く生きられない。ただ、残された時間を、僕と一緒に過ごしたい。それだけなのに、どうして彼女に手を上げたんだ?」少し離れたところで、病院のスタッフや患者たちがこちらを振り返っている。私は、和哉の考えをどうしても理解できなかった。頬を押さえながら、迷わず言い返す。「和哉……私たち、まだ離婚してないよ。戸籍上は、今も夫婦でしょう?なのに、浮気相手を庇って私に暴力を振るうなんて……私が無実だって信じられないなら、今すぐ防犯カメラを確認してきて」「そんな必要はない」和哉の表情は、さらに冷たくなった。「がんを患っている人間に手を上げた。それが事実だ。今の僕がどれだけ注目されているか、君も知ってるよね。これ以上、愛ちゃんに手を出すなら―
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第6話

お腹の子が無事だと確認してから、私は退院の手続きを済ませた。沙耶香は唇を噛んだまま、しばらく迷っていたようだが、とうとう意を決したように口を開いた。「愛さん……和哉さんのこと、もう追及するつもりがないのは分かりました。でも、お腹の子は……産まないほうがいいんじゃないですか?もう離婚するんですよ?一人で自由に生きたっていいじゃないですか。愛さんはこんなに綺麗で、スタイルもよくて、仕事もできるんだから、いくらでもいい人に出会えますよ」そう言われて、私は小さく笑った。たしかに、この世の中では、美貌も財力も人脈も、自分の武器になる。武器が揃っている人ほど、相手を選ぶ余裕がある。私だって、いい武器をいっぱい持っている。それなのに――私が選んだのは、和哉だけだった。「うん……考えてみるね」私はそう答えて、沙耶香を安心させるように微笑んだ。けれど、この子を手放すことは、できそうにない。和哉との間にできた、最初で最後の子供かもしれないのだ。昔は、よく夢を見ていた。ギャラリーを軌道に乗せて、和哉を一人前の画家にできたら、少しくらい肩の荷を下ろして、数人子供を産もう。私たちの子供が少しずつ大きくなっていく姿を眺めて、やがてそれぞれが結婚して、子供を連れて帰ってくる。そんな未来を、当たり前のように思い描いていた。けれど――もう、そんな未来は訪れない。10年も尽くしてきたのに、私に残ったものは、お腹にある小さな命以外、何もなかった。だから私に、この子を手放せるはずがない。私はマンションには戻らず、郊外の別荘へ向かった。静かな場所を好み、創作に没頭する和哉は、市街地の喧騒を嫌っていた。だから私は、彼が絵に集中できるよう、この別荘を買ったのだ。そのお金は、実家からもらったものではない。自分で投資をして、少しずつ稼いだものだった。和哉と一緒になると決めたとき、家では大騒ぎになった。石川家の当主である祖父は、庶民の家に生まれた和哉との結婚に激怒した。「和哉と結婚するなら、石川家の籍から外す」それが、祖父の出した条件だった。私はそれでも引かなかった。周囲からどれだけ反対されても、和哉と一緒になることを選び、覚悟を決めて婚姻届を出した。結果として、祖父の言葉は本気だった。私は、本当に家から追い出された。
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第7話

和哉の瞳から、いつの間にか怒りが消えていた。代わりに浮かんでいたのは、深い悲しみだった。飾り気のない顔立ち。憂いを帯びた瞳。一点の曇りもない白いシャツ。和哉は、どんなときでも童話から抜け出してきた王子様のようだった。かつて私は、そんな彼の魅力に心を奪われた。私はそっと腕を振りほどいた。「話があるなら、言って。これからは、もう話す機会もないかもしれないから」和哉の目に、うっすらと涙が浮かんだ。その声には、かすかな悔いが滲んでいる。「君を傷つけてしまって、本当にごめん。でも、病院のカルテを確認したし、愛莉の主治医にも会った。先生は……彼女に残された時間は、長くても半年だって。愛莉は、最後の時間を僕と一緒に過ごしたいと言っている。僕は……彼女の願いを叶えてあげたいんだ」胸を引き裂かれるような痛みを押し殺して、私は笑った。「だったら、そうすればいいんじゃない?私、もう離婚届には署名したから。マンションに戻って荷物をまとめるとき、一緒に持っていって」「愛!」和哉が、もう一度私の名前を呼んだ。その目に、一瞬だけ迷いのようなものが浮かぶ。次の瞬間、彼は私の手を掴んだ。ひやりとした指先が肌に触れる。それだけで、かつて2人の間にあった時間を思い出してしまいそうだった。「愛がまだ僕のことが好きなのは分かってる。でも、少しだけ時間をくれ。愛莉を最後まで見届けたら……僕は戻ってくる。君と復縁するから」真剣な顔で言う和哉を見て、私は思わず笑いそうになった。そっと手を引き抜く。「私って、そんなに都合のいい女に見えるの?愛莉のために私と離婚して、愛莉のために私を殴って、愛莉のためなら私がどうなろうと気にも留めなかった。それなのに、今度は復縁して欲しいと?私が迷わずに承諾すると思ってるの?」和哉の瞳の奥で燃えていた熱が、目に見えて消えていく。顔からも血の気が引いた。まさか、自分のそばで10年間、愛莉の身代わりのように生きてきた私が――復縁の申し出を拒む日が来るなんて、思ってもいなかったのだろう。私は小さく笑った。「和哉。私、別にあなたじゃなきゃ駄目ってわけじゃないから」「……そんなはずない。嘘だ。君は僕を愛してるだろ?僕がいなきゃ駄目なはずだ!」「考えすぎだよ」私はそれだけを、静かに返した。和哉が再び手を伸
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第8話

結局、透に宥められ、綾香はなんとか落ち着いてくれた。私たちは幼い頃から一緒に育ってきた仲だ。透の言うことなら、綾香も多少は聞いてくれる。それから綾香は、私のために和哉へ仕返しをしようとしていた友人たちを、一人ずつ説得して回った。みんな、私の性格をよく知っている。私は、自分が傷つくことよりも、誰かを傷つけることのほうが苦しい。だから、もしみんなが私のために和哉へ報復したら、私はきっと、自分を責め続ける。それが分かっているから、誰も勝手なことはしなかった。友人たちは交代で私のそばについてくれた。スマホもパソコンも触らせてもらえなかった。和哉と愛莉がSNSにあげているいかにも仲が良さそうな写真を、私が目にしてしまわないように。けれど――そんなもの、隠し通せるはずがない。10年間、私は和哉の一挙一動を追い続けてきた。スマホを開けば、検索履歴や閲覧傾向から、嫌でも和哉の記事が目に入ってくる。【新進気鋭の画家・立花和哉、芸能界で活躍する岩崎愛莉と復縁!話題の『最愛』シリーズは、すべて彼女のために描かれたものだった!】2人の「感動の恋物語」が、世間の前に次々と晒されていく。愛莉は、かつて和哉を裏切り、金持ちの男と海外へ行った過去さえも、綺麗な物語に塗り替えていた。夢を追いかけるため、まだ若かった彼女は芸能界へ飛び込み、異国の地で一人、必死に夢を追い続けた。そんなふうに。2人は幼なじみで、幼い頃から互いを想い合っていた。どれほど離れていても、どれほど長い時間が流れても、2人の心は、決して離れることがなかった。そして私について尋ねられた和哉は、少しも感情を滲ませることなく、淡々とこう答えた。「石川愛さんは、僕に絵を描く道を示してくれた恩人です。彼女の支えがなければ、今の僕はありません。本当に感謝しています」その一言で、世間にはすべてが伝わった。何者でもなかった和哉を見出し、画家として世に送り出したのが私。和哉は、私への恩に報いるために結婚した。けれど、やがて気づいたのだ。感謝は、恋愛感情ではない。どれだけ恩を受けても、本当に愛している相手は別にいる。和哉が心の底から愛していたのは、ずっと愛莉だった。だから、愛莉が帰国すると――和哉は私と争うことなく別れ、愛莉とよりを戻す道を選んだ。
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第9話

そんな世間の批判が渦巻く中、愛莉は表に出ることなく、ひたすら沈黙を貫いていた。その代わり、和哉が迷いなく彼女の前に立ちはだかり、必死に庇い続けた。「愛ちゃんががんを患っているのは事実です。もう末期の状態なんです。僕はこの命をかけて保証します。愛ちゃんが嘘をつくなんて、絶対にありえません!」和哉が愛莉を庇う動画は、瞬く間にネット中へ拡散された。けれど、今回ばかりは、世間もそう簡単には騙されなかった。和哉が何を言おうと、それだけで信じてもらえる状況ではない。疑惑はさらに大きくなっていった。愛莉はがんを偽り、病気を利用して話題を作った。彼女のような計算高い女、芸能界から消えてほしい。そんな声が次々と上がり始める。ところが、愛莉は自分ががんを患っていると証明できる診断書や診療記録を、一切公表しなかった。ただひたすら沈黙し、何も答えようとしない。その結果、彼女はすっかり世間の標的になっていた。かつて私の前で見せていた、あの強気な態度など見る影もない。ネットで疑惑を向けられると、本人は何一つ言い返せなかった。そんなある日、和哉から電話がかかってきた。「頼む。愛ちゃんが今、過去のことまで掘り返されて大変なことになってる……助けてやってくれないか?」私は淡々と答えた。「本当にがんなら、ちゃんとした病院の診断書を出せば済む話でしょう。正式な診療記録があるなら、噂なんてすぐに消えるよ」「診断書は本物だ!ただ、病気のことは本人のプライバシーに関わるだろ。それに、担当医までネットで叩かれるのを、愛莉は心配してる。だから公表したくないんだ……」私は小さく鼻で笑った。「なるほどね。あなたの中で、愛莉は今でも優しくて、純粋で、誰よりも思いやりのある女の子なんだね。そんな素敵な人なんだから、大切にしてあげてね」まさか私からそんな言葉が返ってくるとは思わなかったのだろう。和哉はしばらく黙り込んだ。数秒して、懇願するように口を開く。「愛……僕が君を頼ったのは、ただそれだけじゃないんだ。今回の騒ぎは、誰かが裏で意図的に煽ってることが分かった。僕一人じゃ、どうにもできない。愛ちゃんはもう長くないんだ。少しくらい力を貸してくれてもいいだろ?あの子が追い詰められて、死ぬようなことになっても平気なのか?」私は思わず笑
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第10話

結婚して1年目。私は家族から縁を切られ、手元に残ったのは、母がこっそり渡してくれたギャラリーと、わずかな人脈だけだった。私は会社を辞め、ギャラリーの経営に専念した。来る日も来る日も、あちこちの顧客を訪ねて回った。その頃の和哉は、酒瓶を抱えたまま、狭いアパートの部屋に引きこもっていた。酔いつぶれて、何日もまともに起き上がらないことさえあった。そんなある日。和哉は突然、何かを吹っ切ったように立ち上がり、再び筆を取った。一方、私は分かっていた。私のギャラリーや人脈だけでは、高級美術品を扱っているだけで市場を開拓するのは難しい。だから私は、別の方法を考えた。画家に絵を描かせるだけではなく、商業施設向けの絵をデザインしてもらう。3ヶ月後。私の目利きと営業力が、ようやく一つの成果につながった。初めて取った大口の仕事だった。全国に120店舗を展開する大手ホテルチェーン。その全店舗で、私がデザインした装飾画を採用してもらえることになった。一件の契約で、私は6千万以上を稼いだ。そのお金でマンションを買った。私と和哉のための、新しい家だった。それから私は、60万の価格で、和哉の絵を買ってくれる顧客を1人見つけた。初めて自分の絵を評価してくれる人が現れたと知った和哉は、心から嬉しそうだった。それからというもの、部屋に閉じこもって夢中で絵を描くようになった。私はそれを見て、また次の顧客を探した。和哉の絵を買ってもらう。売れたという実績を作る。そして、少しずつ値段を上げていく。60万だった絵は、100万、数千万と価値を上げていき――やがて、一枚1億で取引されるまでになった。和哉には、自分だけの秘密基地がある。愛莉の肖像画を保管している、あの地下室だ。けれど、彼は知らない。3階の階段を上がった先にある、ただの物置にしか見えない小さな部屋。そこは本当は、私が一から整えた、和哉の作品を保管するための展示室だった。彼は一度も、私が何をしているのか知ろうとしなかった。だから、知るはずもなかった。和哉の絵が最初から市場で評価されていたわけではないことも。私が自分で稼いだお金を使い、人に頼んで彼の絵を買ってもらったことも。和哉は、私が作り上げた夢の中で生きていた。自分には才能がある。自分の絵には価値があ
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