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第5話

Author: 桜吹雪
私は、呆然と愛莉を見つめた。

まさか――ここまで露骨に私を陥れたとは。

「愛ちゃん!」

愛莉の涙を見た瞬間、和哉は手にしていた紙コップを放り出した。そして、まるで何かに取り憑かれたように駆け寄り、床に倒れた愛莉を抱き起こす。

荒い息を吐きながら、必死に彼女を胸に抱き込んだ。

「愛ちゃん、大丈夫か?」

愛莉の長い黒髪は乱れ、怯えたように和哉の胸に身を縮めている。

白い頬には何本もの髪が張りつき、その瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ちた。

「愛さんが……全部私が悪いって。私、ちゃんと謝ったのに……許してくれなくて。

ごめんなさい。全部、私のせいなの。和哉、愛さんのところに戻ってあげて。私は、和哉が幸せでいてくれれば、それだけでいいから……」

その瞬間、和哉の顔から、最後の理性まで消えた。

右手が上がり、次の瞬間、思いきり頬を打たれた。

私は反射的に顔を背ける。

頬がじんじんと痛む。もともと鈍く疼いていた頭も激しく痛み、今にも割れてしまいそうだった。

けれど――心の痛みに比べれば、そんな身体の痛みなど、どうでもよかった。

私が10年間、すべてを捧げて愛した男。その男が、自分を裏切った女の一言で、私を殴った。

あまりにも馬鹿げていて、現実のこととは思えなかった。

……いや。

馬鹿げていたのは、和哉じゃない。きっと、私のほうだ。

和哉は怒りに満ちた目で私を睨みつけていた。その目は、生涯の敵とでも見るように冷たかった。

「君が、ここまで話の通じない人間だとは思わなかったよ。愛ちゃんは、がんなんだ。もう長く生きられない。ただ、残された時間を、僕と一緒に過ごしたい。それだけなのに、どうして彼女に手を上げたんだ?」

少し離れたところで、病院のスタッフや患者たちがこちらを振り返っている。

私は、和哉の考えをどうしても理解できなかった。頬を押さえながら、迷わず言い返す。

「和哉……私たち、まだ離婚してないよ。戸籍上は、今も夫婦でしょう?なのに、浮気相手を庇って私に暴力を振るうなんて……私が無実だって信じられないなら、今すぐ防犯カメラを確認してきて」

「そんな必要はない」

和哉の表情は、さらに冷たくなった。

「がんを患っている人間に手を上げた。それが事実だ。今の僕がどれだけ注目されているか、君も知ってるよね。これ以上、愛ちゃんに手を出すなら――君の本性がどれほど腐っているのか、世間に公表してやるよ」

その瞬間、不思議なことに、悲しいとは思わなかった。

ただ、あまりにも可笑しくて、私は、笑ってしまった。

笑いながら、涙が火照る頬を伝って流れ落ちる。

10年――

10年もあれば、ペットでも、懐いてくれたのだろう。

それなのに、私が10年をかけて支えてきた和哉は、愛莉のたった一言を信じて、私を世間から叩かせようとしている。

私に死んでほしいとでも思っているのだろうか。

泣いているのか笑っているのか分からない私の姿に、和哉もさすがに気味が悪くなったのだろう。それ以上怒鳴りつけることはせず、ただ露骨に嫌そうな顔をして言った。

「愛ちゃん、もう行こう」

和哉は愛莉を支えながら、私の前を通り過ぎていく。

一度も振り返らなかった。

もし、少しでも私を信じてくれていたら。少しでも、私を気にかけてくれていたら。

一度、振り返ってくれさえすれば――

私の身体が、まるで氷水に浸かったように激しく震えていることに気づいたはずだ。

病衣の裾を伝って、赤い血がぽたぽたと床に落ちていることにも。

けれど、和哉の目には愛莉しか映っていなかった。

やがて、2人の姿が廊下の向こうへ消えた。

その瞬間、私の身体からすべての力が抜けた。

意識が遠のいていく。

視界がぼやける中、最後に見えたのは――

目を引くような亜麻色の髪。そして、驚きの声。

「愛、どうしたんだ?おい、しっかりしろ!」

身体が、温かくてしっかりした腕に抱き留められる。

その胸元から、懐かしい煙草の匂いがした。

――透だ。

その匂いに包まれた途端、不思議と身体から力が抜けた。

急に、ひどく疲れた。もう何も考えずに、ゆっくり眠りたい。

そう思ったところで――

私の意識は、再び闇の中へ沈んでいった。

……

目を覚ますと、目の前に透の彫りの深い顔があった。

彼は心配そうに私を見つめている。

「起きたか?気分はどうだ?」

私が目を開けたことに気づくと、透はすぐに身を乗り出した。

「透……」私は重い身体を起こし、震える手を伸ばして彼の腕を掴んだ。「……先生は、なんて?」

妊娠していることは、透には言いたくなかった。

昔から、何かと私を妹のように守り、危なっかしいことがあれば真っ先に庇ってくれた幼なじみ。

そんな透は、最初から私と和哉の結婚にいい顔をしていなかった。

和哉が私に離婚届を突きつけ、愛莉との交際を公表したことだけでも、透が怒り狂いそうになったのに、私が和哉の子を身ごもっていること、そのうえ、愛莉の嘘を信じた和哉に殴られたことを知ったら――

透なら、本当に和哉と愛莉を殺しかねない。

私が何も言わずにいると、透は苛立ったように大きくため息をつき、呆れた顔で目を逸らした。

「隠さなくていい。妊娠してることなら、医者から聞いた。強いショックで感情が激しく揺さぶられたせいで、流産しかけたんだって」

「じゃあ……赤ちゃんは?」私は思わず、透の太い腕を強く掴んだ。

透は苦しそうに息を吐く。その目には、痛いほどの心配が浮かんでいた。

「赤ちゃんは無事だ。ちょうど病院にいて、措置が間に合ったから。じゃないと、赤ちゃんもお前も危なかったんだぞ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に重くのしかかっていたものが、ようやく少しだけ軽くなった。

透の腕を握りしめる手を、ゆっくりと解く。

けれど透は、拳を固く握り直した。怒りのあまり、奥歯を噛み締める。

「……あの2人、絶対に許さない」

「透、お願い、変なことしないで……」

まだ身体に力が戻っていない私は、弱々しく制した。

すると透が、怒りを隠そうともせず私を睨んだ。「和哉に裏切られたのに、それでもまだ庇うのか?」

私はゆっくり首を横に振った。「庇ってるんじゃない。和哉がどんな人なのか、もう分かったから。ただ、透まで巻き込まれるのが、嫌なだけ」

私の言葉を聞いて、透の怒りが少しずつ和らいでいく。黒い瞳から荒々しさが消え、代わりに深い悔しさが滲んだ。

透はまた小さく息を吐いた。

「……愛。俺たち、物心つく前からずっと一緒だっただろ。お前は俺にとって妹みたいなものだ。ずっと大事にしてきた。だから……お前がこんな目に遭ってるの、見てられないんだよ」

私は苦笑しながら、そっと目を閉じる。

「透……もう疲れた。少し、休みたい」

透は何も言わなかった。ただしばらく私を見つめてから、静かに病室を出ていった。

扉が閉まる音が響く。

その音を聞いた瞬間、私は涙を流した。

幼い頃から、母に言われていた。

「愛は昔から、気が強くて泣かない子だった」と。

3歳の頃には、7歳の従兄について木に登った。途中で足を滑らせて落ちて、顔中あざだらけになった。手のひらから血が流れていても、私は泣かなかったという。

なのに――

和哉と出会ってからの私は、どうしてこんなに泣いてばかりなんだろう。

まるで、一生分の涙を全部流してしまったみたいだ。

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