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私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた

私が死んだ日、夫は初恋を手にかけた

Por:  桜吹雪Completo
Idioma: Japanese
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私は、立花和哉(たちばな かずや)を10年間、愛してきた。 彼はいつも私の目元に優しく口づけをして、愛おしそうに私の名前を呼ぶ。 「愛ちゃん、愛ちゃん」と。 彼が描いた絵には、いつも決まって同じ言葉が添えられていた。 ――「最愛の愛ちゃんへ」。 周囲のa人たちは、私たちを仲睦まじい夫婦だと思い、羨んだ。 けれど、私には分かっていた。 和哉が本当に愛しているのは私ではなく、別の女性だということを。 岩崎愛莉(いわさき あいり)。 和哉の幼なじみで、かつて彼を裏切って名声と将来を選んだ、彼の忘れられない女性。 「愛ちゃん」というのは、愛莉が昔から呼ばれていた愛称だった。 和哉が私と結婚したのは、私の目が愛莉に似ていたから。そして、名前に「愛(あい)」という字が入っていたから。 結婚7周年の記念日。 私は、その日に和哉へ伝えるつもりだった。 ――子どもができた、と。 けれど、私が口を開くより先に、和哉は離婚届と離婚協議書をテーブルの上へ置いた。 「離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ」

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Capítulo 1

第1話

オークションで、和哉の『最愛』シリーズの最終作――『再会』に、なんと2億4千万という破格の値がついた。

淡い紫を基調にした油彩画だった。

満天の星空の下、白いドレスをまとった少女が静かに佇んでいる。その背後には、夢のようなバイオレットの花畑が広がっている。

少女の瞳は星のように澄み、どこまでも純粋で、見る者の胸を掴むような儚さを湛えていた。

和哉は繊細な筆致とロマンチックな色彩で、夢のような美しい光景を描き出している。

絵の中の少女は、生命力に満ち、息を呑むほど美しく、誰もが心の奥に思い描く「忘れられないあの人」そのもの。

絵を見た人たちは、口々に言った。

――この絵のモデルは、きっと愛さんだと。

そして、和哉は絵の隅に、愛情のこもった言葉を残していた。

――「最愛の愛ちゃんへ」。

落札を告げるハンマーが鳴り響く。

『最愛シリーズ・再会』を競り落としたのは、外国人のコレクターだった。

インタビューに応じた彼は、カメラに向かって、祝福の言葉を口にした。

「立花さんと奥さんの愛にとても感動しました。私は『最愛』シリーズが大好きです。2人がいつまでも仲良く、ずっと幸せでありますように!」

会場は、大きな拍手に包まれた。

画面に映る、どこか憂いを帯びた和哉は、真っ白なシャツに身を包み、ほんの少し口元を緩めている。向けられる祝福も、称賛も、素直に受け止めていた。

オークションのライブ配信には、私たちの愛を称えるコメントが次々と流れていく。

【和哉さんが注目されるようになったのって、愛さんに支えてもらえたからなんだって!愛さん、まさに「夫を成功させた妻」って感じ!】

【大学卒業後、和哉さんは就職せずにずっと創作に専念してたんだよね。愛さんが働いて生活を支えてたからこそ、今の和哉さんがあるんだと思う!】

【下手な恋愛小説より感動するんだけど!こんな夫婦、現実にいるんだ】

【和哉さん、人気俳優と並んでも顔が全然負けてない。愛さんも綺麗だし、仕事ができるし、この2人は推すしかない!】

スマホには、途切れることなくメッセージが届いていた。

【愛さん、おめでとう!長年の苦労が報われたね!】

【愛さんのこと、嫉妬しちゃうくらい羨ましいよ!】

【愛、今日は結婚記念日でしょ?和哉さんが絵を出したのって、愛へのサプライズなんじゃないの?ロマンチックすぎる!】

【愛、大学時代に3年も和哉さんを追いかけてたよね?結婚してからもう7年が経ったし、今じゃ2人は、すっかりみんなが憧れる夫婦になったよ。幸せになって本当によかった!】

【愛さん、和哉さんって本当優しい!和哉さんの友達にいい人がいたら、紹介してね!】

私はソファに身を預けたまま、1つ、また1つと届く祝福のメッセージに目を通していた。

そして、そっとお腹に手を添える。口元には、静かな笑みが浮かんでいた。

今日は、私たちの結婚7周年の記念日。

和哉は、私のために描いた『最愛』シリーズの最終作――『再会』を、オークションに出した。

私は手作りのケーキを用意し、テーブルにはキャンドルを灯した。和哉が帰ってきたら、一緒に結婚記念日を祝うつもりだった。

そして今夜こそ、自分の口から伝えたい。

――子どもができた、と。

けれど、和哉は帰ってこなかった。

オークションが終わってから、まるでこの世から消えてしまったかのようで、電話をしても出なかったし、メッセージを送っても既読がつかなかった。

和哉がどこへ行ったのか、誰も知らない。

壁時計の針だけが、カチ、カチ、と無情に時を刻んでいく。

そして、日付が変わった。深夜零時を過ぎても、和哉は帰って来なかった。

胸の奥に灯っていた期待が、少しずつ冷えていく。

結婚7周年の記念日、和哉は私を置き去りにした。

これまでの7年間、和哉はずっと私に冷たかった。けれど、私をモデルに絵を描いているときだけ、その瞳には、燃えるような熱が宿った。

私の目元に口づけて、何度も何度も名前を呼ぶのだ。

「愛ちゃん、愛ちゃん……」と。

低く、甘く、どこか人を惑わせるような声。

私はずっと、それを愛情の証だと思っていた。

和哉はもともと感情を表に出さない人だから、その想いを、何より大切な絵に託しているのだと、思いたかった。

今日のオークションでも、和哉は展示台の前に立ち、自分の作品に込めた想いを、いつもの涼やかで、どこか情熱を秘めた声で語っていた。

けれど――その話を聞いているうちに、私は気づいてしまった。和哉が語る思い出と、私が覚えている思い出が、まるで噛み合っていない。

それでも私は、ずっと自分に言い聞かせてきた。

和哉は芸術家だ。だから、現実の出来事をそのまま描くのではなく、少し美しく、少しロマンチックに脚色しているだけなのだ、と。

そうやって、私は自分を騙し続けてきた。

結婚して7年。和哉が私を抱いたのは、たった一度だけだった。

その日は珍しく機嫌がよく、酒もかなり飲んでいた。私を抱きしめながら、何度も「愛ちゃん、愛してる」と囁いてくれた。

あの夜だけは、普段の彼からは想像もつかないほどの熱を見せた。

けれど、それ以外の日はいつも、和哉はアトリエに閉じこもっていた。

私は、ただ彼が生まれつき淡白な性格なのだと思っていた。

――けれど。

今夜だけは、もう自分を騙すことができなかった。

胸の奥に、嫌な予感が芽生えていた。その予感は時間が経つほど強くなっていく。

妊娠初期の体調不良も重なり、身体から力を根こそぎ奪われたように、ひどくつらかった。

午前2時、私は何度も和哉に電話をかけた。けれど、何度かけても出ない。

返ってくるのは、無機質な電子音声だけだった。

「おかけになった電話は、電源が入っていないため――」

もう、何もする気力が残っていなかった。

疲労に押し流されるようにスマホの電源を切り、私はソファの上で身体を丸めた。涙が、止めどなく頬を伝っていった。

妊娠してからというもの、ひどく眠くなることが増えていた。いつ眠りに落ちたのか、自分でも分からない。

ただ、夜は何度も悪夢を見た。

最後に見た夢だけは、今でもはっきり覚えている。

和哉が帰ってきた。

彼はソファのそばに立ち、眠っている私をしばらく見つめていた。そして、そっと手を伸ばす。

頬にかかった乱れた髪を、指先で払ってくれた。そのまま私に、毛布を掛け直す。

次の瞬間、和哉の腕が私の身体を包み込んだ。

「ごめん」と、何度も謝った。

そして、最後に額へそっと口づけると、彼は、振り返ることなく私のもとを去っていった。

「……!」

私は飛び起きた。

目を開けると、静まり返った部屋にいるのは、私一人だけ。

ただ、テーブルの上に数枚の書類が置かれていた。

――離婚届と離婚協議書。

部屋の中にはまだ、和哉がまとっていたあの松の香りがかすかに残っている。

夢じゃない。和哉は、本当に帰ってきていた。

震える手でスマホの電源を入れ、和哉とのメッセージ画面を確認した。

そこには、確かに彼からのメッセージが届いていた。

【離婚しよう……彼女が帰ってきたんだ】

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松坂 美枝
松坂 美枝
前半の人生の選択全部全部間違ってた主人公が回帰して正しく歩み始めりゃ物語はスムーズに終わる(笑) 何者でもなかった男に尽くしてた時間も別の人に向ければそっぽ向かれた男は腐っていく 主人公たちはお幸せに!!!
2026-09-30 10:27:17
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第1話
オークションで、和哉の『最愛』シリーズの最終作――『再会』に、なんと2億4千万という破格の値がついた。淡い紫を基調にした油彩画だった。満天の星空の下、白いドレスをまとった少女が静かに佇んでいる。その背後には、夢のようなバイオレットの花畑が広がっている。少女の瞳は星のように澄み、どこまでも純粋で、見る者の胸を掴むような儚さを湛えていた。和哉は繊細な筆致とロマンチックな色彩で、夢のような美しい光景を描き出している。絵の中の少女は、生命力に満ち、息を呑むほど美しく、誰もが心の奥に思い描く「忘れられないあの人」そのもの。絵を見た人たちは、口々に言った。――この絵のモデルは、きっと愛さんだと。そして、和哉は絵の隅に、愛情のこもった言葉を残していた。――「最愛の愛ちゃんへ」。落札を告げるハンマーが鳴り響く。『最愛シリーズ・再会』を競り落としたのは、外国人のコレクターだった。インタビューに応じた彼は、カメラに向かって、祝福の言葉を口にした。「立花さんと奥さんの愛にとても感動しました。私は『最愛』シリーズが大好きです。2人がいつまでも仲良く、ずっと幸せでありますように!」会場は、大きな拍手に包まれた。画面に映る、どこか憂いを帯びた和哉は、真っ白なシャツに身を包み、ほんの少し口元を緩めている。向けられる祝福も、称賛も、素直に受け止めていた。オークションのライブ配信には、私たちの愛を称えるコメントが次々と流れていく。【和哉さんが注目されるようになったのって、愛さんに支えてもらえたからなんだって!愛さん、まさに「夫を成功させた妻」って感じ!】【大学卒業後、和哉さんは就職せずにずっと創作に専念してたんだよね。愛さんが働いて生活を支えてたからこそ、今の和哉さんがあるんだと思う!】【下手な恋愛小説より感動するんだけど!こんな夫婦、現実にいるんだ】【和哉さん、人気俳優と並んでも顔が全然負けてない。愛さんも綺麗だし、仕事ができるし、この2人は推すしかない!】スマホには、途切れることなくメッセージが届いていた。【愛さん、おめでとう!長年の苦労が報われたね!】【愛さんのこと、嫉妬しちゃうくらい羨ましいよ!】【愛、今日は結婚記念日でしょ?和哉さんが絵を出したのって、愛へのサプライズなんじゃないの?ロマンチック
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第2話
メッセージとテーブルにある書類を目にした私は、すべてを悟った。――結局、全部、私の独りよがりだったのだ。和哉が愛していたのは、最初から私ではない。幼い頃から心の奥に住み続けていた、幼なじみであり、忘れられない女性――愛莉だった。和哉が口にする「愛ちゃん」も、私の名前から取った呼び方ではなく、愛莉の愛称だったのだ。そういえば和哉は、何度も言っていた。私の目は愛莉に似ていると。そして、私の目元に何度も口づけては、優しい声で「愛ちゃん」と呼んだ。あれは私を愛していたからではない。私の中に愛莉の面影を重ねていたにすぎなかった。私は、ただの身代わりだった。思えば、初めて彼の絵を見たときから、細かな違和感には気づいていた。『最愛』シリーズは、私のために描かれたものだと思っていたが、違った。私は3年も和哉を追いかけ続けて、ようやく彼に受け入れてもらった。それも、私が一方的に想いを注ぎ続けた末のこと。そんなふうにして手に入れた関係を、和哉にとっての「最愛」だと思うほうが、どうかしていた。絵の中の少女も、私に似ていたのは目元だけだった。それ以外は――最初から、愛莉を描いたものだったのだ。紫色も、愛莉が一番好きな色。そして、背景に咲き誇っているバイオレット。花言葉は、「永遠の愛」。和哉は、絵を通して愛莉に想いを伝えていたのだ。私のために描いたのだと思っていた『最愛』の絵は、本当はずっと、愛莉だけに捧げられていたものだ。それなのに私は、恋に目が眩んでいた。絵の隅に「最愛の愛ちゃんへ」と書かれているのを見るたび、そこに込められた想いまで、自分に向けられたものだと信じていた。10年間、ずっと。私は、愛してさえいれば、いつか愛されるのだと思っていた。10年も尽くせば、どんなに冷たい心だって、少しは温まるのかもしれない。そう思っていたが、違っていた。不思議なことに、真実を知った瞬間、私は思っていたほど取り乱さなかった。もしかすると私は、心のどこかでずっと分かっていたのかもしれない。いつか、こうなる日が来ることを。私は離婚協議書を手に取り、ざっと目を通した。和哉は、結婚後に築いた共有財産をすべて放棄するつもりらしい。家も、車も、会社の株も、現金も。何も持っていかず、絵を売って得たお金
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第3話
幼馴染の竹内透(たけうち とおる)だった。少し考えてみれば分かることだ。ノックしたのは、和哉のはずがない。この家で7年も暮らしていたのだ、当然鍵を持っている。それに――ずっと想い続けていた愛莉が帰国したのだ。そんな和哉が、私に未練を残して帰ってくるわけがない。また私は、自分に都合のいい夢を見ていただけだった。私は、ドアの向こうの透を無視した。すると、スマホが鳴り出す。透からの電話だった。そういえば、さっきマナーモードにするのを忘れていた。電話が鳴ったことで、私が中にいると分かったのだろう。ドンドン――ドアを叩く音が、さらに激しくなる。「愛!いい加減開けろ!開けないなら、鍵を壊すぞ!」私は思わず呆れた。――いかにも透がやりそうなことだ。昔から短気で、考えるより先に身体が動く。そして、身体だけは無駄に頑丈で、頭の中は単純。学生の頃から、いわゆる学校の番長みたいな存在だった。短気で無鉄砲。そんな幼なじみなのだ。ドアが丈夫じゃなければ、とっくに蹴破っているかもしれない。仕方なく、私は重い身体を起こして玄関へ向かった。鍵を開けた途端、透が勢いよく中へ飛び込んできた。その大きな手が私の肩を掴み、目には、怒りの炎が燃えている。「和哉がSNSに載せてた写真だけど、あれはどういうことだ?」私は力なく笑った。「……写真って?」「は?」透が目を見開く。「和哉と岩崎愛莉が、恋人の聖地って言われてるあの山頂でキスしてる写真だ。見てないのか?」私は首を横に振った。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。「……見てない。和哉に、とっくにブロックされてると思うから」透は一瞬、言葉を失った。まるで信じられないという顔で、私のスマホをひったくる。和哉のプロフィールを開くと、そこに「投稿がありません」とだけ表示された。透の顔が、一気に険しくなる。怒りに任せて、私のスマホを床へ叩きつけた。画面が一瞬で蜘蛛の巣のようにひび割れる。私は、そんな透をぼんやりと見つめていた。もう、怒る気力すら残っていなかった。透は、呆れ果てたように私を見た。「この1ヶ月、和哉は毎日SNSに惚気話をのせてたんだぞ。俺はてっきり、お前たちが幸せにやってるんだと思ってた。まさか全部、あの女に見せるため
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第4話
7年ぶりに会う愛莉は、昔と何ひとつ変わっていなかった。黒く長いストレートの髪をさらりと下ろし、白いワンピースを身にまとっている。細い腰は、両手で包めそうなほどだった。手のひらに収まるような小さな顔は、紙のように白い。大きな瞳にはうっすらと涙が滲み、今にも泣き出しそうな、儚げな表情を浮かべている。昔も、今も変わらない。愛莉はいつだって、人の保護欲を掻き立てるような女の子だった。その隣で、和哉が彼女の身体を支えている。まるで壊れ物でも扱うように、そっと、慎重に。いつも冷たく、何を考えているのか分からないほど黒々とした瞳には、今まで私に向けられたことのないほどの優しさが浮かんでいた。彼はただ、ひたむきに愛莉を見つめている。ほんの一瞬でも目を離したら、またどこかへ消えてしまうのではないか――そんなふうに思っているようだった。整った唇の端には、かすかな笑みが浮かんでいる。その顔にあるのは、安堵と幸福。まるで、失ったものをようやく取り戻したかのような顔だった。そして、二度と手に入らないと思っていた宝物を、今度こそ失わないように、大切に、大切に抱えている。和哉を3年追いかけて、7年も一緒に暮らした私を見る時、和哉の目に、こんな光が宿ったことは一度もなかった。――そういうことだったんだ。本当に誰かを愛しているなら、何も言わなくても、想いは目に出る。「愛ちゃん、足元に気をつけてね」和哉が低い声でそう言った。聞いたこともないほど、優しい声だった。その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。……そうだ。「愛ちゃん」という愛称は、もともと愛莉のものだった。あんなふうに愛らしく、儚げな女の子だからこそ、この愛称がついたのだ。私は昔から気が強くて、友人たちもほとんどが私を名前で呼んだ。家族からもそうだった。「愛ちゃん」と呼ぶ人なんて、誰もいなかった。……ただ和哉を除いては。いや、違う。和哉が呼んでいたのは、私ではなかった。7年もの間、彼がずっと忘れられなかった人――愛莉を、呼んでいたんだ。そのとき、和哉が壁際に立つ私に気づいた。整った顔に、はっきりと驚きが浮かぶ。「……どうしてここに?」やっぱり。彼の大切な人が戻ってきた今、身代わりだった私には、もう用がないのだ。私に話しかけ
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第5話
私は、呆然と愛莉を見つめた。まさか――ここまで露骨に私を陥れたとは。「愛ちゃん!」愛莉の涙を見た瞬間、和哉は手にしていた紙コップを放り出した。そして、まるで何かに取り憑かれたように駆け寄り、床に倒れた愛莉を抱き起こす。荒い息を吐きながら、必死に彼女を胸に抱き込んだ。「愛ちゃん、大丈夫か?」愛莉の長い黒髪は乱れ、怯えたように和哉の胸に身を縮めている。白い頬には何本もの髪が張りつき、その瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ちた。「愛さんが……全部私が悪いって。私、ちゃんと謝ったのに……許してくれなくて。ごめんなさい。全部、私のせいなの。和哉、愛さんのところに戻ってあげて。私は、和哉が幸せでいてくれれば、それだけでいいから……」その瞬間、和哉の顔から、最後の理性まで消えた。右手が上がり、次の瞬間、思いきり頬を打たれた。私は反射的に顔を背ける。頬がじんじんと痛む。もともと鈍く疼いていた頭も激しく痛み、今にも割れてしまいそうだった。けれど――心の痛みに比べれば、そんな身体の痛みなど、どうでもよかった。私が10年間、すべてを捧げて愛した男。その男が、自分を裏切った女の一言で、私を殴った。あまりにも馬鹿げていて、現実のこととは思えなかった。……いや。馬鹿げていたのは、和哉じゃない。きっと、私のほうだ。和哉は怒りに満ちた目で私を睨みつけていた。その目は、生涯の敵とでも見るように冷たかった。「君が、ここまで話の通じない人間だとは思わなかったよ。愛ちゃんは、がんなんだ。もう長く生きられない。ただ、残された時間を、僕と一緒に過ごしたい。それだけなのに、どうして彼女に手を上げたんだ?」少し離れたところで、病院のスタッフや患者たちがこちらを振り返っている。私は、和哉の考えをどうしても理解できなかった。頬を押さえながら、迷わず言い返す。「和哉……私たち、まだ離婚してないよ。戸籍上は、今も夫婦でしょう?なのに、浮気相手を庇って私に暴力を振るうなんて……私が無実だって信じられないなら、今すぐ防犯カメラを確認してきて」「そんな必要はない」和哉の表情は、さらに冷たくなった。「がんを患っている人間に手を上げた。それが事実だ。今の僕がどれだけ注目されているか、君も知ってるよね。これ以上、愛ちゃんに手を出すなら―
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第6話
お腹の子が無事だと確認してから、私は退院の手続きを済ませた。沙耶香は唇を噛んだまま、しばらく迷っていたようだが、とうとう意を決したように口を開いた。「愛さん……和哉さんのこと、もう追及するつもりがないのは分かりました。でも、お腹の子は……産まないほうがいいんじゃないですか?もう離婚するんですよ?一人で自由に生きたっていいじゃないですか。愛さんはこんなに綺麗で、スタイルもよくて、仕事もできるんだから、いくらでもいい人に出会えますよ」そう言われて、私は小さく笑った。たしかに、この世の中では、美貌も財力も人脈も、自分の武器になる。武器が揃っている人ほど、相手を選ぶ余裕がある。私だって、いい武器をいっぱい持っている。それなのに――私が選んだのは、和哉だけだった。「うん……考えてみるね」私はそう答えて、沙耶香を安心させるように微笑んだ。けれど、この子を手放すことは、できそうにない。和哉との間にできた、最初で最後の子供かもしれないのだ。昔は、よく夢を見ていた。ギャラリーを軌道に乗せて、和哉を一人前の画家にできたら、少しくらい肩の荷を下ろして、数人子供を産もう。私たちの子供が少しずつ大きくなっていく姿を眺めて、やがてそれぞれが結婚して、子供を連れて帰ってくる。そんな未来を、当たり前のように思い描いていた。けれど――もう、そんな未来は訪れない。10年も尽くしてきたのに、私に残ったものは、お腹にある小さな命以外、何もなかった。だから私に、この子を手放せるはずがない。私はマンションには戻らず、郊外の別荘へ向かった。静かな場所を好み、創作に没頭する和哉は、市街地の喧騒を嫌っていた。だから私は、彼が絵に集中できるよう、この別荘を買ったのだ。そのお金は、実家からもらったものではない。自分で投資をして、少しずつ稼いだものだった。和哉と一緒になると決めたとき、家では大騒ぎになった。石川家の当主である祖父は、庶民の家に生まれた和哉との結婚に激怒した。「和哉と結婚するなら、石川家の籍から外す」それが、祖父の出した条件だった。私はそれでも引かなかった。周囲からどれだけ反対されても、和哉と一緒になることを選び、覚悟を決めて婚姻届を出した。結果として、祖父の言葉は本気だった。私は、本当に家から追い出された。
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第7話
和哉の瞳から、いつの間にか怒りが消えていた。代わりに浮かんでいたのは、深い悲しみだった。飾り気のない顔立ち。憂いを帯びた瞳。一点の曇りもない白いシャツ。和哉は、どんなときでも童話から抜け出してきた王子様のようだった。かつて私は、そんな彼の魅力に心を奪われた。私はそっと腕を振りほどいた。「話があるなら、言って。これからは、もう話す機会もないかもしれないから」和哉の目に、うっすらと涙が浮かんだ。その声には、かすかな悔いが滲んでいる。「君を傷つけてしまって、本当にごめん。でも、病院のカルテを確認したし、愛莉の主治医にも会った。先生は……彼女に残された時間は、長くても半年だって。愛莉は、最後の時間を僕と一緒に過ごしたいと言っている。僕は……彼女の願いを叶えてあげたいんだ」胸を引き裂かれるような痛みを押し殺して、私は笑った。「だったら、そうすればいいんじゃない?私、もう離婚届には署名したから。マンションに戻って荷物をまとめるとき、一緒に持っていって」「愛!」和哉が、もう一度私の名前を呼んだ。その目に、一瞬だけ迷いのようなものが浮かぶ。次の瞬間、彼は私の手を掴んだ。ひやりとした指先が肌に触れる。それだけで、かつて2人の間にあった時間を思い出してしまいそうだった。「愛がまだ僕のことが好きなのは分かってる。でも、少しだけ時間をくれ。愛莉を最後まで見届けたら……僕は戻ってくる。君と復縁するから」真剣な顔で言う和哉を見て、私は思わず笑いそうになった。そっと手を引き抜く。「私って、そんなに都合のいい女に見えるの?愛莉のために私と離婚して、愛莉のために私を殴って、愛莉のためなら私がどうなろうと気にも留めなかった。それなのに、今度は復縁して欲しいと?私が迷わずに承諾すると思ってるの?」和哉の瞳の奥で燃えていた熱が、目に見えて消えていく。顔からも血の気が引いた。まさか、自分のそばで10年間、愛莉の身代わりのように生きてきた私が――復縁の申し出を拒む日が来るなんて、思ってもいなかったのだろう。私は小さく笑った。「和哉。私、別にあなたじゃなきゃ駄目ってわけじゃないから」「……そんなはずない。嘘だ。君は僕を愛してるだろ?僕がいなきゃ駄目なはずだ!」「考えすぎだよ」私はそれだけを、静かに返した。和哉が再び手を伸
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第8話
結局、透に宥められ、綾香はなんとか落ち着いてくれた。私たちは幼い頃から一緒に育ってきた仲だ。透の言うことなら、綾香も多少は聞いてくれる。それから綾香は、私のために和哉へ仕返しをしようとしていた友人たちを、一人ずつ説得して回った。みんな、私の性格をよく知っている。私は、自分が傷つくことよりも、誰かを傷つけることのほうが苦しい。だから、もしみんなが私のために和哉へ報復したら、私はきっと、自分を責め続ける。それが分かっているから、誰も勝手なことはしなかった。友人たちは交代で私のそばについてくれた。スマホもパソコンも触らせてもらえなかった。和哉と愛莉がSNSにあげているいかにも仲が良さそうな写真を、私が目にしてしまわないように。けれど――そんなもの、隠し通せるはずがない。10年間、私は和哉の一挙一動を追い続けてきた。スマホを開けば、検索履歴や閲覧傾向から、嫌でも和哉の記事が目に入ってくる。【新進気鋭の画家・立花和哉、芸能界で活躍する岩崎愛莉と復縁!話題の『最愛』シリーズは、すべて彼女のために描かれたものだった!】2人の「感動の恋物語」が、世間の前に次々と晒されていく。愛莉は、かつて和哉を裏切り、金持ちの男と海外へ行った過去さえも、綺麗な物語に塗り替えていた。夢を追いかけるため、まだ若かった彼女は芸能界へ飛び込み、異国の地で一人、必死に夢を追い続けた。そんなふうに。2人は幼なじみで、幼い頃から互いを想い合っていた。どれほど離れていても、どれほど長い時間が流れても、2人の心は、決して離れることがなかった。そして私について尋ねられた和哉は、少しも感情を滲ませることなく、淡々とこう答えた。「石川愛さんは、僕に絵を描く道を示してくれた恩人です。彼女の支えがなければ、今の僕はありません。本当に感謝しています」その一言で、世間にはすべてが伝わった。何者でもなかった和哉を見出し、画家として世に送り出したのが私。和哉は、私への恩に報いるために結婚した。けれど、やがて気づいたのだ。感謝は、恋愛感情ではない。どれだけ恩を受けても、本当に愛している相手は別にいる。和哉が心の底から愛していたのは、ずっと愛莉だった。だから、愛莉が帰国すると――和哉は私と争うことなく別れ、愛莉とよりを戻す道を選んだ。
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第9話
そんな世間の批判が渦巻く中、愛莉は表に出ることなく、ひたすら沈黙を貫いていた。その代わり、和哉が迷いなく彼女の前に立ちはだかり、必死に庇い続けた。「愛ちゃんががんを患っているのは事実です。もう末期の状態なんです。僕はこの命をかけて保証します。愛ちゃんが嘘をつくなんて、絶対にありえません!」和哉が愛莉を庇う動画は、瞬く間にネット中へ拡散された。けれど、今回ばかりは、世間もそう簡単には騙されなかった。和哉が何を言おうと、それだけで信じてもらえる状況ではない。疑惑はさらに大きくなっていった。愛莉はがんを偽り、病気を利用して話題を作った。彼女のような計算高い女、芸能界から消えてほしい。そんな声が次々と上がり始める。ところが、愛莉は自分ががんを患っていると証明できる診断書や診療記録を、一切公表しなかった。ただひたすら沈黙し、何も答えようとしない。その結果、彼女はすっかり世間の標的になっていた。かつて私の前で見せていた、あの強気な態度など見る影もない。ネットで疑惑を向けられると、本人は何一つ言い返せなかった。そんなある日、和哉から電話がかかってきた。「頼む。愛ちゃんが今、過去のことまで掘り返されて大変なことになってる……助けてやってくれないか?」私は淡々と答えた。「本当にがんなら、ちゃんとした病院の診断書を出せば済む話でしょう。正式な診療記録があるなら、噂なんてすぐに消えるよ」「診断書は本物だ!ただ、病気のことは本人のプライバシーに関わるだろ。それに、担当医までネットで叩かれるのを、愛莉は心配してる。だから公表したくないんだ……」私は小さく鼻で笑った。「なるほどね。あなたの中で、愛莉は今でも優しくて、純粋で、誰よりも思いやりのある女の子なんだね。そんな素敵な人なんだから、大切にしてあげてね」まさか私からそんな言葉が返ってくるとは思わなかったのだろう。和哉はしばらく黙り込んだ。数秒して、懇願するように口を開く。「愛……僕が君を頼ったのは、ただそれだけじゃないんだ。今回の騒ぎは、誰かが裏で意図的に煽ってることが分かった。僕一人じゃ、どうにもできない。愛ちゃんはもう長くないんだ。少しくらい力を貸してくれてもいいだろ?あの子が追い詰められて、死ぬようなことになっても平気なのか?」私は思わず笑
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第10話
結婚して1年目。私は家族から縁を切られ、手元に残ったのは、母がこっそり渡してくれたギャラリーと、わずかな人脈だけだった。私は会社を辞め、ギャラリーの経営に専念した。来る日も来る日も、あちこちの顧客を訪ねて回った。その頃の和哉は、酒瓶を抱えたまま、狭いアパートの部屋に引きこもっていた。酔いつぶれて、何日もまともに起き上がらないことさえあった。そんなある日。和哉は突然、何かを吹っ切ったように立ち上がり、再び筆を取った。一方、私は分かっていた。私のギャラリーや人脈だけでは、高級美術品を扱っているだけで市場を開拓するのは難しい。だから私は、別の方法を考えた。画家に絵を描かせるだけではなく、商業施設向けの絵をデザインしてもらう。3ヶ月後。私の目利きと営業力が、ようやく一つの成果につながった。初めて取った大口の仕事だった。全国に120店舗を展開する大手ホテルチェーン。その全店舗で、私がデザインした装飾画を採用してもらえることになった。一件の契約で、私は6千万以上を稼いだ。そのお金でマンションを買った。私と和哉のための、新しい家だった。それから私は、60万の価格で、和哉の絵を買ってくれる顧客を1人見つけた。初めて自分の絵を評価してくれる人が現れたと知った和哉は、心から嬉しそうだった。それからというもの、部屋に閉じこもって夢中で絵を描くようになった。私はそれを見て、また次の顧客を探した。和哉の絵を買ってもらう。売れたという実績を作る。そして、少しずつ値段を上げていく。60万だった絵は、100万、数千万と価値を上げていき――やがて、一枚1億で取引されるまでになった。和哉には、自分だけの秘密基地がある。愛莉の肖像画を保管している、あの地下室だ。けれど、彼は知らない。3階の階段を上がった先にある、ただの物置にしか見えない小さな部屋。そこは本当は、私が一から整えた、和哉の作品を保管するための展示室だった。彼は一度も、私が何をしているのか知ろうとしなかった。だから、知るはずもなかった。和哉の絵が最初から市場で評価されていたわけではないことも。私が自分で稼いだお金を使い、人に頼んで彼の絵を買ってもらったことも。和哉は、私が作り上げた夢の中で生きていた。自分には才能がある。自分の絵には価値があ
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