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ただ、それだけではない。たとえば、朝出かける前に交わす軽いキス。たとえば、夜ソファで映画を観ているとき、彼の手がずっと私の手を握っていること。たとえば、週末に一緒にスーパーへ行き、彼がカートを押して前を歩き、私は後ろからお菓子を次々放り込む。彼が振り返ってそれを見て、苦笑しながら「また体に悪いものばかり」と言う。私が「体に悪くてもおいしいんだよ」と言えば、彼はそれ以上何も言わず、そのまま好きにさせてくれる。たとえば、夜中に悪夢で目を覚ましたとき、いつの間にか彼も起き、背中をそっと撫でながら「大丈夫、俺がいる」と低い声で言ってくれること。たとえば、些細なことで喧嘩した夜。理由はもう覚えていない。私は腹を立てて客用の寝室にこもった。夜中に目を覚ますと、彼がその部屋のドアの前で床に丸くなって寝ている。私が逃げないか心配だったという。ドアの前で丸まっている大きな体を見て、私はもう怒り続けられなかった。近づいてしゃがみ、彼を軽くつついた。彼はうとうとと目を開け、私だと分かると、最初の一言がこうだった。「起きた?水いる?」私はその顔を見て、鼻の奥がつんとし、目が赤くなった。彼は慌てて体を起こした。「どうした?悪夢でも見た?どこか具合悪い?」私は首を振り、彼を抱きしめた。「昇」と、私は言った。「なんで床で寝てるの?」彼は一瞬きょとんとし、それから笑った。「夜中に出ていくかもしれないと思って」と、彼は言った。「あいつみたいに、また君を失うのが怖くて」私は彼の肩に顔を埋めたまま、何も言わなかった。心の中で、ひとつの声がこう言った。大丈夫。私はもう、どこにも行かない。誰かに大切にされるということがどういうことなのかを、ようやく分かったから。結婚一周年の日、昇は私を彼の実家へ連れて行った。彼が生まれ育った場所で、古い屋敷の庭には大きな桐の木が一本立っている。彼の母親は台所で料理をしており、父親は庭で植物の手入れをしている。私はその庭に立ち、桐の木を見上げて、母親の言葉をふと思い出した。「あなたたちの婚約は、昔からの約束よ。生まれたばかりの頃に、おじいさんたちが酒の席で冗談半分で決めたもの。誰も本気にしていなかった」私はそのとき、本気にしていなかった。安弘も、本気にし
安弘が退職したと知ったのは、結婚式から四か月後のことだ。その日、会社の下で元同僚にばったり会い、少し立ち話をしていると、彼女が声を潜めて言った。「知ってる?藤村さん、辞めたんだって」私は一瞬、きょとんとした。「どういうこと?」「プロジェクトで問題があってね」と、彼女は言った。「コア技術と営業機密が漏洩して、クライアントが激怒して責任追及に。最終的には彼とは無関係って分かったけど、社内でいろいろ噂が立って、いられなくなったみたい」私は何も言わなかった。「それと、洲崎詩織も」と、同僚は続けた。「藤村さんに訴えられたらしいよ。たぶん裁判沙汰になるんじゃないかな」私は「うん」とだけ答え、それ以上は何も言わなかった。同僚は私の顔をちらりと見て、遠慮がちに聞いた。「大丈夫?」私は笑った。「何が?」同僚はほっとした様子で、少し雑談をしてから去っていった。私はその場に立ったまま、彼女の背中が人混みに消えていくのを見た。心は、とても静かだ。静かそのものだ。無理に装っているわけでも、押し殺しているわけでもない。すべてを手放したあとに訪れる、あの静けさだ。彼が退職したこと。詩織と決裂したこと。仕事がうまくいかなくなったこと。どれも、私にとっては、見知らぬ誰かの話を聞いているのと同じだ。心は痛まないし、悲しくもないし、後悔もない。「自業自得」とすら思わない。ただ、そうなんだ。それだけだ。そして、また自分の生活に戻るだけだ。その日の夜、家に帰ると、珍しく昇が早く帰り、ソファに座って本を読んでいる。私は靴を履き替え、彼の隣に腰を下ろした。彼は顔を上げて私を見た。「どうした?」「別に」と、私は言った。「ちょっと知らせたいことがあって」「うん?」「安弘、会社を辞めたって」彼のページをめくる手が一瞬止まった。それから本を閉じ、私のほうを見た。その目には、少しだけ探るような慎重さがある。「君……大丈夫か?」その表情を見て、私はふっと笑った。「昇」と、私は言った。「今、私が何を考えてるか分かる?」彼は首を振った。「あなたが、いつ私の部屋に引っ越してくるのかなって」彼は固まった。その表情が戸惑いから驚きへ、そして言葉にできない複雑なものへと変わっていった。「君
「何に礼を言う?」と、彼は言った。「俺たちは法的に夫婦だ。君を守るのは当然だろう」法的に夫婦だ。それが彼の口からさらりと出てきて、私は一瞬、言葉を失った。そうだ、私たちはもう夫婦なんだ。この結婚は慌ただしく始まったし、顔を合わせた回数だって十回にも満たないし、二人の間にはまだ言葉にできないよそよそしさが残っている。それでも法律上は、彼は私の夫で、私は彼の妻だ。「寝よう」と、彼は言った。「明日は一度うちに行く。両親が一緒に食事しようって」私は「うん」と答え、ドアを閉めた。ベッドに横になった。頭の中に昇の姿が何度も浮かんできた。結婚式の会場で、照明が彼を照らし、その輪郭に淡い金色の縁取りを与えた。なぜか分からないが、心のどこかが、そっと柔らかくなった気がした。結婚後の日々は、思っていたよりも穏やかだ。昇は仕事が忙しく、朝早く出て夜遅く帰ることが多い。私たちはマンションに住み、寝室は別々で、その間にリビングがある。どこかルームシェアのようだ。でも、まったく同じというわけでもない。毎朝、私が起きると、ダイニングテーブルには必ず朝食が用意されている。ある日はお粥とおかず、ある日はサンドイッチと牛乳、またある日は近くの肉まん屋の肉まんだ。あの店の肉まんが美味しいと、私は何気なく言ったことがあった。それを彼は覚えてくれている。夜遅く残業して帰ってくると、リビングの灯りはいつもついている。彼はソファに座って本を読んでいるか、パソコンで仕事をしており、私が帰ると顔を上げて「おかえり」と一言だけ言い、また手元に視線を落とす。多くは語らないが、不思議と安心できる。彼は、私の習慣をすべて覚えているから。私はパクチーが苦手で、彼はデリバリーを頼むとき必ず「パクチー抜き」と書き添える。私は光があると眠れないから、彼は部屋に遮光カーテンをつけてくれた。生理のときにお腹が痛くなる私のために、その数日は毎月、キッチンで黒糖ミルクを作り、魔法瓶に入れ、「温かいうちに飲んで」とメモを貼っておく。いつそんなことに気づいたのか、私には分からない。私たちはまだ知り合って数か月しか経っていないのに。あるとき、私はつい聞いてしまった。「どうして、こんなに私の好みが分かるの?」彼はキッチンでフルー
安弘は詩織を見つめ、一語一語区切るように言った。「さっきの話、もう一度言ってみろ」詩織の顔色が一気に青ざめた。手にしていたスマホが床に落ち、乾いた音を立てた。「先輩、違うんです……説明させてください……あ、あれは友達と冗談で……」「冗談?」と、安弘は一歩踏み出した。「俺の婚約者を『ばばあ』って言ったのも、冗談か?」「違います、そんなつもりじゃ……」「俺がバカで、はめられて当然だって言ったのも、冗談か?」詩織の唇が震え、言葉が出てこなかった。「あのスマートホームのプロジェクト」と、安弘の声は氷のように冷たい。「最初から、それが目的だったのか?」詩織は答えなかった。だが、その沈黙が答えだ。安弘はふっと笑った。その笑みには、自嘲がにじんでいる。残業続きの夜を思い出した。コーヒーを持ってきて「先輩、お疲れさまです」と笑っていた詩織を思い出した。「緊急の案なんです」と目を潤ませ、「先輩しか頼れません」と言っていた詩織を思い出した。同僚たちのからかいに、否定するどころか、どこか誇らしくすら思っていた自分を思い出した。ほらみろ、若くて綺麗なインターンが、自分だけに懐いている。それを魅力だと思っていた。だが、それは罠だった。その罠のために、彼は自分の手で、七年寄り添ってきた女性を突き放したのだ。「先輩……」と、詩織が恐る恐る口を開いた。「私が悪かったです。本当に反省してます……もう一度チャンスをください……」安弘は何も言わなかった。そのまま背を向け、オフィスを出ていった。背後で詩織が数歩追いかけてきたが、途中で足を止めた。安弘はエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。ドアが閉まった瞬間、彼は壁にもたれ、目を閉じた。スマホが震え出した。会社のチャットグループだ。【ニュース見た?スマートホームの案件、飛んだぞ!】【どういうこと?】【コア技術が漏洩したらしい。クライアントが激怒して、責任追及するって……】【誰がやったんだ?】【分からないけど、詩織ちゃんが関わってるって話もある……】安弘は目を開け、画面を見つめた。コア技術の漏洩。詩織。ふいに思い出した。あの夜、詩織が「プロジェクト案に問題がある」と言い、自分を寮に呼び出した。そして自
「詩織ちゃんは松本さんよりずっといいですね。顔もスタイルも……」あのとき、彼は否定しなかった。なぜ否定しなかったのか。酔っていたからか?場の空気を壊したくなかったからか?それとも……心の奥底で、ほんの一瞬でも、若くて綺麗な詩織のほうが、七年付き合った恵美より魅力的だと思ってしまったのか?彼には分からない。そして、知りたくもない。彼はスマホを助手席に放り投げ、エンジンをかけた。だが、どこへ行けばいいのか分からない。会社か?行きたくない。寮か?帰りたくない。恵美と一緒に暮らしていた家か?もう売ってしまった。あの家には、七年分の思い出が詰まっていた。初めて引っ越したときの高揚感、家具を一緒に選んで言い合いになったこと、深夜まで残業して帰ったとき、恵美が残してくれていたあの灯り……全部、もうない。安弘は路肩に車を止め、ハンドルに突っ伏したまま、動かなかった。長い時間が過ぎ、彼はようやく顔を上げると、エンジンをかけ直し、会社の方向へと車を走らせた。仕事をしに行くわけではない。詩織に会いに行くためだ。安弘が会社のビルのガラス扉を押し開けたとき、すでに外は暗くなっている。自分が何をしに来たのか、分からない。詩織を問い詰めるためか。それとも、彼女に礼を言うためか。あるいは、答えを求めているのか。七年の関係を、自分は一体どうやって少しずつ失っていったのか。エレベーターの扉が開くと、廊下は静まり返っている。この時間では、ほとんどの人がすでに帰っている。ただ一つ、奥のオフィスだけが明かりを灯している。詩織の席だ。安弘はそこへ向かい、ドアを開ける前に、中から声が聞こえてきた。「もう、そんなに急かさないでよ……分かってる、分かってるって……」詩織の声だ。低く抑えられ、甘えるような響きが混じっている。「今日、あの人は絶対ショック受けてるから、ここで一気に入り込まないとね?大丈夫、ちゃんと加減はするから……完全に私から離れられなくなったら、少しずつ話すつもり……」安弘の足が止まった。「三十にもなるばばあが、どうやって私に勝てるの?七年だって?七年だろうが、電話一本で呼び出せるんだから同じでしょ……男なんてみんなそう、手元のものを遊びながら、別
恨みも、わだかまりも、さらには失望すらない。ただ、静けさだけだ。その静けさが、安弘の心に残っていた最後の希望を完全に打ち砕いた。彼には分かっているからだ。人が本当に手放したときだけ、こんなふうに相手を見るのだ。まるで、見知らぬ他人を見るように。「恵美……」と、彼の声はかすれ、自分のものとは思えないほどだ。「俺……説明するから……」「もういい」と、恵美は言った。「本当に……」「安弘」と、恵美は相変わらず静かな口調で、彼の言葉を遮った。「あの夜、私はあなたの寮に行ったの」安弘は固まった。「売った家の代金を渡そうと思って。新居は売って、半分ずつにしようって。でも、ドアをノックしたとき、いくつかの話が聞こえてきた」安弘の顔色が変わった。あの夜のことを思い出した。寮では同僚たちが酒を飲みながら談笑していた。そして、詩織もいた。誰かが自分と詩織の関係をからかい、誰かが恵美の年齢を話題にして……「何を聞いたんだ?」彼は思わず問い返した。恵美は答えなかった。彼女はただ彼を見つめている。その視線の奥に、一瞬だけ陰りがよぎった。だがそれはすぐに消え、再び静けさに覆われた。「もうどうでもいいことだ」と、恵美は言った。恵美は振り向き、再び昇の腕にそっと手を回した。「安弘」と、恵美の声が、やわらかく響いた。「私たち、終わったの」終わった、と。これ以上ないほどよそよそしい口調で、これ以上ないほど冷酷な宣告だ。安弘はその場に立ち尽くし、恵美の背中を見つめている。恵美が別のテーブルの客のもとへ歩いていくのを見て、昇の耳元で何かをささやくのを見て、そして恵美の顔に再び浮かんだ微笑みを見た。その笑顔は、もう彼のためのものではない。これからも、決して彼のためのものになることはない。安弘は自分がどうやってホテルを出たのか覚えていない。気がつくと車の中に座り、ハンドルを握る両手の指先は氷のように冷たい。助手席に置いたスマホが激しく震え出した。彼は出なかった。どれくらい時間が経ったのか、やがてスマホは静かになった。そして、メッセージが次々と届いた。彼は機械的にスマホを取り、画面を開いた。会社のチャットグループだ。誰かが写真を一枚送っている。結婚式の会場で、恵美と昇