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第5話

Author: Hayama
last update Huling Na-update: 2025-10-30 19:37:43

「え…、天使…?」

その言葉が耳に届いた瞬間、私は思考が止まった。

まるで、現実が一瞬だけ歪んだような感覚。

湊さんが目を覚ましたことに安堵する間もなく、彼の口から出たその言葉に、私はどう反応していいか分からなかった。

天使? 私が?

この部屋に、そんな神聖な存在がいるはずがない。

白い羽も、神々しい光もない。

あるのは、薄暗い照明と、乱れたベッドと、私だけ。

まさか…幻覚でも見えているんじゃ…

「いるじゃん、ここに」

彼はそう言って、まっすぐ私を指さした。

その指先が、迷いなく私を示している。

冗談のような言葉なのに、彼の瞳は真剣だった。

「え、わ、私ですか?」

自分でも驚くほど、動揺していた。

彼の頷きは、あまりにも自然で、からかっているようには見えなかった。

私が天使だなんて。

そんなふうに見られるような人間じゃない。

私は、彼にとって都合のいい存在で、時に邪魔で、時に無視されて、

それでもそばにいることを選んだだけの、ただの人間だ。

「うん」

その目に映る私は、いったい誰なのだろう。

彼の中で、私は“天使”に見えるほどの存在なのか。

それとも記憶の混乱が、彼にそう言わせているだけなのか。

「私は天使なんかじゃないですよ…」

こんな言葉、人生で初めて口にした。

誰かに“天使”だなんて呼ばれることも、否定することも、初めてだった。

でも、彼の目は変わらず私を見つめていた。

まるで、私の否定すら信じていないかのように。

その視線が優しくて、温かくて、でもどこか遠くて。

私は、どうしても受け止めきれなかった。

「ってことは、ここは天国?」

彼の声は、どこか無邪気で、でも少しだけ不安げだった。

彼は本気でそう思っているのかもしれない。

記憶が混乱して、現実と夢の境界が曖昧になっているのかもしれない。

それとも、彼の中で何かが壊れてしまったのか。

「違います。私はただの人間です」

私は静かに、でもはっきりと答えた。

私を天使に見間違えるほど、強く頭を打ってしまったのか。

「そっか、えっと…俺たち、初めましてなのかな?」

その言葉に、思考が一瞬止まった。

初めまして?

どういうこと…?

「え?」

声が漏れた。

それ以上、何も言えなかった。

頭の中が真っ白になっていく。

心の奥では、何かが崩れていく音がした。

私と過ごした時間を、なかったことにしようとしているの?

それとも、本当に…記憶が、ない?

「君の名前は?」

彼の問いかけは、まるで初対面の人にするような、穏やかな声だった。

でも、その穏やかさが、私には耐えられなかった。

私の名前を知らない。

私のことを、何も覚えていない。

それが、現実なのだと突きつけられた瞬間だった。

私たちが積み重ねてきた時間が、彼の中では“存在していない”という現実。

それが、あまりにも残酷だった。

「彩花です…み、湊さん、本当に私が誰か分からないんですか?」

彼の目を見つめながら問いかけた。

そこに浮かぶのは、戸惑いと申し訳なさだけ。

どう考えても、嘘をついているようには思えなかった。

彼は、本当に、何も覚えていない。

「ごめんね、君のことだけじゃなくて、実は俺が誰なのかも分からないんだ」

その言葉が、静かに、でも確実に胸に突き刺さった。

私のことも、自分のことも分からない。

彼の中から、すべてが消えてしまったということ。

名前も、過去も、関係も。

私たちの時間が、彼の中では“存在していない”。

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