Mag-log in「記憶喪失…?」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。 自分の声が震えているのが分かった。 まるで、現実を言葉にした途端に、それが確定してしまうような怖さがあった。 湊さんはベッドの端に座ったまま、落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。 何かを思い出そうとしているのか、それともただ居心地の悪さを感じているのか。 何かを探しているような、空っぽの瞳だった。 その仕草ひとつひとつが、私の胸を締め付けた。 部屋の隅では、医師がカルテを閉じる音がした。 その存在が、現実の重さをさらに際立たせていた。 これは夢じゃない。 誰かの冗談でもない。 本当に湊さんは、私を忘れてしまった。 医師が静かに言葉を継いだ。 「後頭部を強く打ったことで、一時的な記憶障害が起きている可能性があります。脳震盪の影響でしょう」 その説明は、冷静で、事務的で、感情の入り込む余地はなかった。 でも、私の心は冷静ではいられなかった。 “記憶障害” それは、私との時間が彼の中から消えたということ。 私たちの関係が、彼の中では存在していないということ。 私は湊さんの顔を見つめた。 彼は、何も言わず、ただ静かに私を見返していた。 その目は、やはり私を知らない。 どこか申し訳なさそうで、困惑していて。 それが余計に苦しかった。 「湊さんの記憶は、すぐに戻るんですよね?」 声が震えていた。 自分でも分かるほど、必死だった。 希望にすがるように、医師の言葉を待った。 “すぐに戻りますよ”その一言が欲しかった。 それさえあれば、私はこの罪悪感に押し潰されずに済む気がした。 でも、医師の表情は曖昧で、期待するような確信は見えなかった。 「今はまだ何とも…」 その返答は、まるで霧の中に放り込まれたような感覚だった。 それは、戻るかもしれないし、戻らないかもしれないということ。 可能性があるだけで、保証はない。 その曖昧さが、私の心をさらに不安定にした。 「そんな…」 どうして、どうしてこんなことに。 「しばらくは安静にしてください。刺激を与えすぎないように。記憶が戻るかどうかは、時間と状況次第です」 その言葉は、まるで“運任せ”だと言われているようだった。 私が何をしても、何を言っても、彼の記憶が戻る保証はない。 それが、あまりにも無力で、苦しかった。 どうして…どうしてあの時我慢できなかったの。 少し冷たくされても、少し言葉が刺さっても、聞き流していればよかった。 それなのに、あの日だけは、どうしても堪えられなかった。 心の奥に溜まっていたものが、限界を超えてしまった。 言い返してしまった。 感情をぶつけてしまった。 その結果が、これだなんて。 「そう…ですか。分かりました、ありがとうございます」 医師に向けて口にした言葉は、礼儀の形をした空虚だった。 私は、ただ現実から逃げたかった。 この状況を、誰かが「嘘だよ」と言ってくれることを願っていた。 でも、誰もそんなことは言ってくれない。 現実は、冷たく、静かにそこにあった。 「はい。では失礼します」 医師が去っていく音が、やけに大きく響いた。 扉の閉まる音が、まるで“救いの可能性”が閉じられたように感じた。 部屋には、私と湊さんだけが残された。 でも、その“ふたり”という言葉が、今はあまりにも遠く感じる。 彼の中で、私は“誰か”でしかない。 それが、どうしようもなく悲しかった。 私のせいだ。 私のせいで湊さんは記憶を失った。 ────殺人未遂 そんな言葉が頭をよぎる。 どうしよう。 警察に行くべきなのか。 もう少しで人を殺めてしまいそうだった。 もちろん、故意じゃない。 でも、あの衝突が、彼の記憶を奪った。 それは、私が引き起こしたこと。 「彩花ちゃん!ねぇ彩花ちゃんってば!」 誰かの声が遠くから響いた。 でも、すぐには反応できなかった。 名前を呼ばれているのにも気づかないほど、私はぼんやりしていた。 頭の中がぐるぐると回っていて、現実に戻るのが怖かった。 何もかもが、夢であってほしかった。 「っあ、はい」 ようやく返事をしたけれど、声は上ずっていた。 現実に戻ったところで、何も変わらない。 湊さんの記憶は戻らない。 「大丈夫?顔色悪いけど」 心配そうな声。 その優しさが、今は痛かった。 優しくされる資格なんて、私にはないと思った。 「…大丈夫です」 嘘だ。 大丈夫なんかじゃない。 でも、今一番混乱しているのはきっと湊さんの方。 記憶を失って、知らない場所で目を覚ました彼の不安は、私の比じゃない。 だから…私が、泣いている場合じゃない。 そう思っても、涙は勝手にこぼれてくる。 感情は、理屈では止まってくれない。 「彩花ちゃん…?」 その声に、私は堪えきれなくなった。 考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。 罪悪感が、喉の奥までせり上がってくる。 「湊さんっ…私のせいで、私のせいで…ごめんなさい、」「ご馳走様でした」食器を置いて、私は手を合わせた。自然と口からこぼれたその言葉に、どこか満ち足りた気持ちがにじんでいた。ひとりで食べるご飯とは、やっぱり違う。誰かと一緒に食卓を囲むことが、こんなにも心をあたためてくれるなんて。湊さんと過ごす時間はどこか懐かしくて、でも新しくて、湊さんとの過去を少しずつ塗り替えていく。「ご馳走様でした」湊さんも、私と同じタイミングで手を合わせて言った。その声が重なって、ふたりで顔を見合わせて、思わずふっと笑い合う。なんでもないやりとりなのに、まるで長年の夫婦みたいだな。なんて思ってしまって、自分で自分に驚いた。「じゃあ、先にお風呂入っておいで」湊さんがそう言って立ち上がるから、私は慌てて言い返した。「湊さんが先に入ってください。私はお皿洗わないと」言いながら、私は立ち上がってシンクに向かう。お皿を重ねて、スポンジを手に取る。こうして何かをしていないと、この気持ちをどうしていいか分からなくなりそうだった。湊さんの優しさは、時々、私の心の奥を突いてくる。嬉しいのに、どこか居心地が悪い。だって、私はまだ、こんなふうに誰かに甘えていいのか分からないから。「僕が洗うからいいよ。疲れてるでしょ?」湊さんの声が、すぐ後ろから聞こえた。振り返ると、彼はもう袖をまくっていて、本当に洗う気満々の顔をしていた。私は思わず言葉を詰まらせる。「え、でも、」疲れてるのは湊さんも同じなのに。私のために、今日もいろいろ気を遣ってくれて、優しくしてくれて。「ご飯作ってくれたお礼」湊さんのその一言に、お皿を手に取ったまま、指先がぴたりと止まる。そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。私はただ、できることをしただけ。湊さんに少しでも恩返しがしたくて、せめて食事くらいは、と思って作っただけなのに。それを「ありがとう」って言われるなんて、なんだか胸の奥がきゅっとなった。嬉しいのに、どこか申し訳なくて、私はそっと視線を落とした。「お礼だなんて……」むしろお礼をしないといけないのは私の方。ご飯を作ったぐらいじゃ、全然足りない。ご飯を作ったくらいじゃ、全然足りない。湊さんがくれた安心感。あのまっすぐな言葉。そばにいてくれることの重み。それが私の中で、何倍にもなって響いているから。それでも湊さ
「湊さんは、どうして…」言いかけて、言葉が喉の奥でつかえた。言いたいことははっきりしているのに、それを口に出すのが、どうしてこんなに難しいんだろう。私は、湊さんの前ではいつも自分の感情を隠すのに必死なのに。湊さんは、どうしてこんなふうに、さらりと人の心をかき乱すようなことを言えるんだろう。「え?」湊さんが、きょとんとした顔でこちらを見た。その無防備な表情に、私はますます言いづらくなって、思わず視線を逸らした。でも、もう言いかけてしまった。私は、少しだけ息を吸って、勇気を振り絞るように続きを口にした。「どうしてそんな恥ずかしいことを、平気で言えるんですか」可愛いとか好きとか、そんな言葉、普通はもっと特別な時にもっと覚悟を持って言うものだと思ってた。でも湊さんは、まるで日常の一部みたいに、当たり前のようにそう言う。簡単に、迷いなく、まっすぐに。でも、不思議と軽くは聞こえない。その声の温度を感じれば、分かってしまうから。むしろ、重たいくらいに真剣で、私の心の奥に静かに沈んでいく。「えー、僕は自分の気持ちを正直に伝えてるだけなんだけどなぁ」湊さんは、肩をすくめながら、どこか楽しそうに笑った。本当に、悪気なんてこれっぽっちもないんだろう。ただ、思ったことをそのまま言っているだけ。それが分かるからこそ、私は余計にどうしていいか分からなくなる。嘘じゃない。からかいでもない。本気で、そう思ってる。そのまっすぐさが、私の心をまるごと掴んで離さない。なにか言わなきゃいけないのに、言葉が出てこなかった。「ありがとう」なんて、素直に言えたらいいのに。「嬉しい」って、笑えたらいいのに。
「湊さん、できたよ」 キッチンから声をかけると、湊さんはすぐに返事をして、ぱたぱたと軽い足音を立てながらダイニングへやってきた。 「あ、オムライス!しかもハート?かわいい」 湊さんの声が、ぱっと弾けた。 ケチャップでハートを描いたとき、正直、やりすぎかなって思った。引かれたらどうしよう、って。 でも、湊さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。 私は、照れ隠しのように小さく笑って、そっと湊さんの前にお皿を置いた。 「口に合えばいいけど」 味見は何度もしたけれど、それでもやっぱり自信なんてなかった。 私の拙い手料理なんて、物足りなく感じるかもしれない。 私は、湊さんの反応を待ちながら、そっと手を膝の上で握りしめた。 「いただきます!ん、おいひい!」 湊さんは、スプーンを手に取ると、勢いよく一口目を頬張った。 そして、口いっぱいにオムライスを詰めたまま、もごもご言いながら笑った。 その姿がリスみたいで、初めて湊さんを可愛いと思った。 こんなに無防備で、こんなに素直に喜んでくれるなんて。 「ふふ、良かった」 自然と笑みがこぼれた。 誰かと一緒にご飯を食べるのなんていつぶりだろう。 ふと、そんなことを思った瞬間、胸の奥にぽっかりと空いた空白が、静かに疼いた。 私はずっと、ひとりで食卓に向かっていた。 テレビの音だけが部屋に響いて、誰とも言葉を交わさずに、ただ黙々と箸を動かすだけの時間。 夜遅くに帰ってくる湊さんのために、夕食をラップして冷蔵庫に入れておくのが日課になっていた。 それが、ふたりの生活のリズムだった。 寂しいとも思わなかった。 思わないようにしていたのかもしれない。 遅くまで働いてるんだろうと、疑いもしなかった。だけときっと、本命の所に行っていたんだろうな。 その考えが頭をよぎった瞬間、
玄関のドアを閉めた瞬間、思わず口をついて出たその言葉。誰に向けたわけでもない、癖のようなものだった。でも、今日は違った。その一言が、空間に吸い込まれる前に、すぐに返ってきた。「おかえり」あぁ、そうか。今は、おかえりって言ってくれる人がいるんだ。それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。これまで、家に帰っても誰もいないのが当たり前だった。電気のついていない部屋、静まり返った空気。ただいまも、おかえりも、どこにもなかった。たとえ湊さんがそこにいたとしても、あの頃の彼は、そんな言葉をかけてくれるような人じゃなかった気がする。でも今は違う。私は確かに、誰かの待つ場所に帰ってきたんだ。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。「湊さんも、おかえりなさい」言葉にするまでに、少しだけ時間がかかった。胸の奥に溜まった熱を、そっと吐き出すように。靴を脱ぐふりをして、視線を合わせないようにした。「ただいま。やっぱり家が一番だね」私は今まで、そんなふうに思ったことなんてなかった。家は、ただ帰る場所でしかなかった。安心も、温もりも、そこにはなかった。むしろ、早く外に出たくて仕方がなかった。どこにいてもよかった。湊さんがいない場所なら、どこだって同じだった。でも湊さんのその言葉を聞いて、私の中にも同じ気持ちが芽生えていた。「…そうだね」それは、湊さんがいるから。この空間に、彼の気配があるから。この場所が、私にとっての“帰る場所”になっている。「これだけあれば半年は大丈夫かな」湊さんがそう言って、両手いっぱいの紙袋を床にそっと下ろした。その中には、今日ふたりで選んだ服がぎっしり詰まっている。「半年…?」これだけあれば10年…そんな考えが、ふと頭をよぎった。 いや、10年どころじゃない。このままずっと、もう服なんて買わなくてもいいんじゃないかって。そう思った。私は、一生分の贈り物を貰った気になっていたのに。「半年経ったらまた買いに行こうね!今度は夏のお洋服!」湊さんの声は、まるで未来を信じて疑わない子どものように明るくて、その無邪気さが胸にじんと響いた。その言葉の中に、私と一緒にいる未来が、当たり前のように含まれている。明日さえも不確かなのに。半年後の私たち。私は、夏になっても、湊さんの隣に立って
「いただきます…」 スプーンを手に取り、そっとパフェの上の苺をすくう。 艶やかな赤い果実に、ふわふわのホイップクリームが絡んで、その下にはバニラアイスとサクサクのパイ生地が重なっていた。 口に運んだ瞬間、甘酸っぱい苺の香りが広がり、冷たいアイスが舌の上でとろけていく。 思わず目を閉じて、頬が緩んだ。 「んっ、美味しい」 美味しいなんて言葉じゃ足りない。 この幸福感をどう表現したらいいのか、分からないくらい。 気づけば、夢中でスプーンを動かしていた。 周りのことなんて忘れて、ただこの一口に集中していた。 「ハムスターみたいで可愛い」 その言葉に、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。 顔を上げると、湊さんが微笑んでいた。 ただ純粋に、私の様子を楽しんでいるようだった。 でも、私は一瞬で顔が熱くなるのを感じた。 頬張りすぎて口の中はアイスでいっぱい。 私は慌ててスプーンを置いた。 「…ごめんなさい」 小さな声で、そう呟いた。 視線は下を向いたまま。 さっきまでの幸せな気持ちが、一気に恥ずかしさと後悔に変わっていく。 もっと上品に食べればよかった。 もっと落ち着いて味わえばよかった。 あの場でこんな事をしてしまったら、一度でアウトだ。 それよりも、湊さんに子供っぽいと思われたかもしれない。がっついてると、引かれたかもしれない。 そんな不安が、胸の中で膨らんでいく。 私は、せっかくの楽しい時間を、自分の無意識な行動で壊してしまったような気がして、心の中で小さくうずくまった。 「褒めてるのに、どうして謝るの」 湊さんの声は、驚くほど優しかった。 その言葉に、私は顔を上げる。 彼は、変わらず穏やかな目で私を見ていた。
試着室を出るたびに「これも似合う」「あれもいい」と言われて、気づけば両手いっぱいの紙袋が湊さんの腕にぶら下がっていた。私はというと、小さなショルダーバッグひとつだけ。何も持っていない自分が、申し訳なくて、少しだけ居心地が悪かった。湊さんは涼しい顔をしていたけれど、あれだけの荷物を持っていれば、腕も疲れるはずだ。それなのに、「湊さん、半分貸してよ」さっきから何度言っても渡してくれなくて、湊さんは首を横に振るだけだった。「これぐらい持てるから大丈夫」その表情には、疲れも不満もなかった。穏やかで、優しさに満ちていたけれど、私の中には少しだけ寂しさが残った。私だって、少しは役に立ちたいのに。「重たいでしょ?」私は湊さんの腕にぶら下がる紙袋の数を見つめながら、そっと声をかけた。そもそも、それは全部私の荷物なのに。「重たくないよ」湊さんは、まるでそれが本当のことかのように、さらりとそう言って笑った。その笑顔は穏やかで、私の心をふわりと包み込むようだった。ただ、私はその言葉を素直に受け取れなかった。「でも、私はこんなに小さいカバンしか持ってないのに、申し訳ないよ。何か一つでも持たせて?お願い」それは遠慮でも、気遣いでもなく、どこか懇願に近い響きだった。私は、ただ荷物を持ちたいわけじゃない。湊さんと“対等でいたい”という気持ちが、この言葉の奥に隠れていた。彼の優しさに甘えるだけじゃなくて、私も何かを背負いたい。そうしないと、この関係がどこか不安定なものに思えてしまうから。私は彼の顔を見上げた。その目に、私の気持ちは映っているだろうか。「そこまで言うなら&helli







