Mag-log inそれから30分も経たないうちに、医師が静かに部屋へ入ってきた。
その間、私は必死に湊さんをベッドまで運んだ。 彼の体にそっと腕を回し、できるだけ負担をかけないように支える。 彼の体は思っていた以上に重く、腕に力を込めてもなかなか持ち上がらなかった。 汗が額に滲み、呼吸が荒くなる。 呼吸の音を確かめながら、ゆっくりと歩を進めるたびに、胸の奥が締め付けられる。 彼の顔は静かで、まるで深い眠りに落ちているようだった。 でもその静けさが、私にはあまりにも不安だった。 ベッドのそばまで来ると、私は彼の体を丁寧に横たえた。 マットレスがわずかに沈み、シーツが柔らかく彼を包み込む。 枕の位置を整えながら、彼の頭をそっと支える。 その手のひらに伝わる髪の感触が、妙に現実的で、胸が痛くなった。 彼がいつも使っているベッドに、ちゃんと休ませてあげたかった。 それは、彼のためでもあり、私自身のためでもあった。 冷たい床に寝かせておくなんて、あまりにも惨くて、私の心が耐えられなかった。 せめて、彼が安心できる場所に。 せめて、彼が目を覚ましたときに、少しでも穏やかでいられるように。 医師は白衣ではなく、落ち着いたスーツ姿だった。 まるで、訪問先が病人ではなく、顧客であるかのような佇まい。 湊さんの寝室に案内すると、彼は無言で診察を始めた。 私は部屋の隅で、ただ祈るように手を握りしめていた。 息をするのも怖かった。何かを壊してしまいそうで。 「頭部を打っていますが、命に別状はありません。瞳孔反応と脈拍に異常はありません。しばらく安静に。目覚めるまで、そばにいてあげてください」 医師の声は静かで、落ち着いていた。 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。 でも、罪悪感は消えなかった。 私が押したせいで、彼は倒れた。 私が限界だったせいで、彼は傷ついた。 「分かりました。ありがとうございます」 お礼を言うと、医師は会釈し静かに去っていった。 部屋には再び静寂が戻る。 でも、その静けさは、安らぎではなく、重苦しい沈黙だった。 それからの3日間、私はほとんど眠れなかった。 彼の寝息に耳を澄ませながら、何度も名前を呼んだ。 でも、返事はなかった。 食事も喉を通らず、ただ彼のそばに座り続けた。 時折、彼の手を握ってみる。 その温もりだけが、彼がまだここにいる証だった。 そして─────── 「んっ…」 小さな、かすれた声が聞こえた。 私はすぐに顔を上げた。 心臓が跳ねる。 目の前の彼のまぶたが、ゆっくりと動いた。 「湊さん!」 思わず叫んでしまった。 声が震えていた。 涙が一気にこみ上げてきて、視界が滲む。 彼の目がゆっくりと開き、ぼんやりと天井を見つめている。 私の心は複雑だった。 彼が目を覚ましたら、またあの辛い日々が戻ってくる。 怪我までさせてしまったのだから尚更、彼の怒りはきっと以前よりも強くなる。 それでも、彼が生きていてくれたことに、安堵の涙が止まらなかった。 「ここはどこ…?」 彼の声は、少しぼんやりしていた。 目を細めて、周囲を見渡している。 その仕草は、どこか幼くて、いつもの湊さんとは違って見えた。 「寝室です。あれから3日ずっと眠っていたんです」 私は静かに説明した。 声が震えないように、必死に抑えながら。 でも、彼の顔には困惑が浮かんでいた。 眉がわずかに寄り、視線が宙を泳いでいる。 「あれから…?なんのこと?」 その言葉に、私は息を呑んだ。 まさか、あの日のことを覚えていないの? 「え…?」 私は言葉を失った。 頭の中が真っ白になる。 彼の目は、私を見ているのに、何かを探しているようだった。 まるで、私が誰なのかを確かめようとしているような、そんな目。 ただ一部の記憶が抜けているだけなのか、それとも…。 沈黙が流れる。 部屋の空気が、張り詰めたように重くなる。 そして、彼がぽつりと呟いた。 「ところで、どうしてここに天使がいるの?」「ご馳走様でした」食器を置いて、私は手を合わせた。自然と口からこぼれたその言葉に、どこか満ち足りた気持ちがにじんでいた。ひとりで食べるご飯とは、やっぱり違う。誰かと一緒に食卓を囲むことが、こんなにも心をあたためてくれるなんて。湊さんと過ごす時間はどこか懐かしくて、でも新しくて、湊さんとの過去を少しずつ塗り替えていく。「ご馳走様でした」湊さんも、私と同じタイミングで手を合わせて言った。その声が重なって、ふたりで顔を見合わせて、思わずふっと笑い合う。なんでもないやりとりなのに、まるで長年の夫婦みたいだな。なんて思ってしまって、自分で自分に驚いた。「じゃあ、先にお風呂入っておいで」湊さんがそう言って立ち上がるから、私は慌てて言い返した。「湊さんが先に入ってください。私はお皿洗わないと」言いながら、私は立ち上がってシンクに向かう。お皿を重ねて、スポンジを手に取る。こうして何かをしていないと、この気持ちをどうしていいか分からなくなりそうだった。湊さんの優しさは、時々、私の心の奥を突いてくる。嬉しいのに、どこか居心地が悪い。だって、私はまだ、こんなふうに誰かに甘えていいのか分からないから。「僕が洗うからいいよ。疲れてるでしょ?」湊さんの声が、すぐ後ろから聞こえた。振り返ると、彼はもう袖をまくっていて、本当に洗う気満々の顔をしていた。私は思わず言葉を詰まらせる。「え、でも、」疲れてるのは湊さんも同じなのに。私のために、今日もいろいろ気を遣ってくれて、優しくしてくれて。「ご飯作ってくれたお礼」湊さんのその一言に、お皿を手に取ったまま、指先がぴたりと止まる。そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。私はただ、できることをしただけ。湊さんに少しでも恩返しがしたくて、せめて食事くらいは、と思って作っただけなのに。それを「ありがとう」って言われるなんて、なんだか胸の奥がきゅっとなった。嬉しいのに、どこか申し訳なくて、私はそっと視線を落とした。「お礼だなんて……」むしろお礼をしないといけないのは私の方。ご飯を作ったぐらいじゃ、全然足りない。ご飯を作ったくらいじゃ、全然足りない。湊さんがくれた安心感。あのまっすぐな言葉。そばにいてくれることの重み。それが私の中で、何倍にもなって響いているから。それでも湊さ
「湊さんは、どうして…」言いかけて、言葉が喉の奥でつかえた。言いたいことははっきりしているのに、それを口に出すのが、どうしてこんなに難しいんだろう。私は、湊さんの前ではいつも自分の感情を隠すのに必死なのに。湊さんは、どうしてこんなふうに、さらりと人の心をかき乱すようなことを言えるんだろう。「え?」湊さんが、きょとんとした顔でこちらを見た。その無防備な表情に、私はますます言いづらくなって、思わず視線を逸らした。でも、もう言いかけてしまった。私は、少しだけ息を吸って、勇気を振り絞るように続きを口にした。「どうしてそんな恥ずかしいことを、平気で言えるんですか」可愛いとか好きとか、そんな言葉、普通はもっと特別な時にもっと覚悟を持って言うものだと思ってた。でも湊さんは、まるで日常の一部みたいに、当たり前のようにそう言う。簡単に、迷いなく、まっすぐに。でも、不思議と軽くは聞こえない。その声の温度を感じれば、分かってしまうから。むしろ、重たいくらいに真剣で、私の心の奥に静かに沈んでいく。「えー、僕は自分の気持ちを正直に伝えてるだけなんだけどなぁ」湊さんは、肩をすくめながら、どこか楽しそうに笑った。本当に、悪気なんてこれっぽっちもないんだろう。ただ、思ったことをそのまま言っているだけ。それが分かるからこそ、私は余計にどうしていいか分からなくなる。嘘じゃない。からかいでもない。本気で、そう思ってる。そのまっすぐさが、私の心をまるごと掴んで離さない。なにか言わなきゃいけないのに、言葉が出てこなかった。「ありがとう」なんて、素直に言えたらいいのに。「嬉しい」って、笑えたらいいのに。
「湊さん、できたよ」 キッチンから声をかけると、湊さんはすぐに返事をして、ぱたぱたと軽い足音を立てながらダイニングへやってきた。 「あ、オムライス!しかもハート?かわいい」 湊さんの声が、ぱっと弾けた。 ケチャップでハートを描いたとき、正直、やりすぎかなって思った。引かれたらどうしよう、って。 でも、湊さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。 私は、照れ隠しのように小さく笑って、そっと湊さんの前にお皿を置いた。 「口に合えばいいけど」 味見は何度もしたけれど、それでもやっぱり自信なんてなかった。 私の拙い手料理なんて、物足りなく感じるかもしれない。 私は、湊さんの反応を待ちながら、そっと手を膝の上で握りしめた。 「いただきます!ん、おいひい!」 湊さんは、スプーンを手に取ると、勢いよく一口目を頬張った。 そして、口いっぱいにオムライスを詰めたまま、もごもご言いながら笑った。 その姿がリスみたいで、初めて湊さんを可愛いと思った。 こんなに無防備で、こんなに素直に喜んでくれるなんて。 「ふふ、良かった」 自然と笑みがこぼれた。 誰かと一緒にご飯を食べるのなんていつぶりだろう。 ふと、そんなことを思った瞬間、胸の奥にぽっかりと空いた空白が、静かに疼いた。 私はずっと、ひとりで食卓に向かっていた。 テレビの音だけが部屋に響いて、誰とも言葉を交わさずに、ただ黙々と箸を動かすだけの時間。 夜遅くに帰ってくる湊さんのために、夕食をラップして冷蔵庫に入れておくのが日課になっていた。 それが、ふたりの生活のリズムだった。 寂しいとも思わなかった。 思わないようにしていたのかもしれない。 遅くまで働いてるんだろうと、疑いもしなかった。だけときっと、本命の所に行っていたんだろうな。 その考えが頭をよぎった瞬間、
玄関のドアを閉めた瞬間、思わず口をついて出たその言葉。誰に向けたわけでもない、癖のようなものだった。でも、今日は違った。その一言が、空間に吸い込まれる前に、すぐに返ってきた。「おかえり」あぁ、そうか。今は、おかえりって言ってくれる人がいるんだ。それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。これまで、家に帰っても誰もいないのが当たり前だった。電気のついていない部屋、静まり返った空気。ただいまも、おかえりも、どこにもなかった。たとえ湊さんがそこにいたとしても、あの頃の彼は、そんな言葉をかけてくれるような人じゃなかった気がする。でも今は違う。私は確かに、誰かの待つ場所に帰ってきたんだ。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。「湊さんも、おかえりなさい」言葉にするまでに、少しだけ時間がかかった。胸の奥に溜まった熱を、そっと吐き出すように。靴を脱ぐふりをして、視線を合わせないようにした。「ただいま。やっぱり家が一番だね」私は今まで、そんなふうに思ったことなんてなかった。家は、ただ帰る場所でしかなかった。安心も、温もりも、そこにはなかった。むしろ、早く外に出たくて仕方がなかった。どこにいてもよかった。湊さんがいない場所なら、どこだって同じだった。でも湊さんのその言葉を聞いて、私の中にも同じ気持ちが芽生えていた。「…そうだね」それは、湊さんがいるから。この空間に、彼の気配があるから。この場所が、私にとっての“帰る場所”になっている。「これだけあれば半年は大丈夫かな」湊さんがそう言って、両手いっぱいの紙袋を床にそっと下ろした。その中には、今日ふたりで選んだ服がぎっしり詰まっている。「半年…?」これだけあれば10年…そんな考えが、ふと頭をよぎった。 いや、10年どころじゃない。このままずっと、もう服なんて買わなくてもいいんじゃないかって。そう思った。私は、一生分の贈り物を貰った気になっていたのに。「半年経ったらまた買いに行こうね!今度は夏のお洋服!」湊さんの声は、まるで未来を信じて疑わない子どものように明るくて、その無邪気さが胸にじんと響いた。その言葉の中に、私と一緒にいる未来が、当たり前のように含まれている。明日さえも不確かなのに。半年後の私たち。私は、夏になっても、湊さんの隣に立って
「いただきます…」 スプーンを手に取り、そっとパフェの上の苺をすくう。 艶やかな赤い果実に、ふわふわのホイップクリームが絡んで、その下にはバニラアイスとサクサクのパイ生地が重なっていた。 口に運んだ瞬間、甘酸っぱい苺の香りが広がり、冷たいアイスが舌の上でとろけていく。 思わず目を閉じて、頬が緩んだ。 「んっ、美味しい」 美味しいなんて言葉じゃ足りない。 この幸福感をどう表現したらいいのか、分からないくらい。 気づけば、夢中でスプーンを動かしていた。 周りのことなんて忘れて、ただこの一口に集中していた。 「ハムスターみたいで可愛い」 その言葉に、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。 顔を上げると、湊さんが微笑んでいた。 ただ純粋に、私の様子を楽しんでいるようだった。 でも、私は一瞬で顔が熱くなるのを感じた。 頬張りすぎて口の中はアイスでいっぱい。 私は慌ててスプーンを置いた。 「…ごめんなさい」 小さな声で、そう呟いた。 視線は下を向いたまま。 さっきまでの幸せな気持ちが、一気に恥ずかしさと後悔に変わっていく。 もっと上品に食べればよかった。 もっと落ち着いて味わえばよかった。 あの場でこんな事をしてしまったら、一度でアウトだ。 それよりも、湊さんに子供っぽいと思われたかもしれない。がっついてると、引かれたかもしれない。 そんな不安が、胸の中で膨らんでいく。 私は、せっかくの楽しい時間を、自分の無意識な行動で壊してしまったような気がして、心の中で小さくうずくまった。 「褒めてるのに、どうして謝るの」 湊さんの声は、驚くほど優しかった。 その言葉に、私は顔を上げる。 彼は、変わらず穏やかな目で私を見ていた。
試着室を出るたびに「これも似合う」「あれもいい」と言われて、気づけば両手いっぱいの紙袋が湊さんの腕にぶら下がっていた。私はというと、小さなショルダーバッグひとつだけ。何も持っていない自分が、申し訳なくて、少しだけ居心地が悪かった。湊さんは涼しい顔をしていたけれど、あれだけの荷物を持っていれば、腕も疲れるはずだ。それなのに、「湊さん、半分貸してよ」さっきから何度言っても渡してくれなくて、湊さんは首を横に振るだけだった。「これぐらい持てるから大丈夫」その表情には、疲れも不満もなかった。穏やかで、優しさに満ちていたけれど、私の中には少しだけ寂しさが残った。私だって、少しは役に立ちたいのに。「重たいでしょ?」私は湊さんの腕にぶら下がる紙袋の数を見つめながら、そっと声をかけた。そもそも、それは全部私の荷物なのに。「重たくないよ」湊さんは、まるでそれが本当のことかのように、さらりとそう言って笑った。その笑顔は穏やかで、私の心をふわりと包み込むようだった。ただ、私はその言葉を素直に受け取れなかった。「でも、私はこんなに小さいカバンしか持ってないのに、申し訳ないよ。何か一つでも持たせて?お願い」それは遠慮でも、気遣いでもなく、どこか懇願に近い響きだった。私は、ただ荷物を持ちたいわけじゃない。湊さんと“対等でいたい”という気持ちが、この言葉の奥に隠れていた。彼の優しさに甘えるだけじゃなくて、私も何かを背負いたい。そうしないと、この関係がどこか不安定なものに思えてしまうから。私は彼の顔を見上げた。その目に、私の気持ちは映っているだろうか。「そこまで言うなら&helli