LOGIN――手を使えなくしろ。病院には俺が行くから。
再生が止まった。
紗月はスマートフォンから目を離さなかった。まだ誰かが話す気がした。冗談だとか、聞き間違いだとか。この声を知っている誰かが割って入り、訂正してくれるはずだった。
食事の席で、魚の骨を取ってやると言った声だ。
紗月が傷つく前から、修吾は病院へ来ることになっていた。
手を使えなくしろ。
その手を、この人が10年間揉んできた。薬指が伸びなくなれば、先に手を差し出してくれた。紗月は、痛いと言うことさえ控えた。放さずに、もう少しだけ触れていてほしかった。
「もう一度」
病院には俺が行くから。そこまで、もう一度聞かなければ。自分が泣きながら待った人は、いつから来ることになっていたのか。
「紗月」
「もう一度、流して」
里香が再生を押した。今度は、声が終わる前に紗月が画面を覆った。右手ではなく、左手で。画面を押さえるのにどれだけ力が要るのかさえ、わからなかった。
修吾が病室で言った言葉が浮かぶ。
――遅くなって、ごめん。
あの言葉を聞いて泣いた。本当に、知るのが遅れたから来られなかったのだと信じた。傷ついた手をどこへ置けばいいかわからず、修吾のシャツをつかんだ。
あのとき、彼のシャツに血がつくことを心配した。
紗月はうつむいた。胃の中がひっくり返った。里香が水を寄せたが、受け取れなかった。
「私だって、あのときは家が潰れそうだったの。父親の会社の資金繰りをどうにかしてやるって言われたら……」
「あなたは」
紗月はようやく、言葉をつないだ。
「電話を切って、何を考えたの?」
里香が黙った。
「私、ずっとお願いしたよね。手だけは放してって」
「その話はやめて」
「あなたは、聞いてたでしょう」
里香が紙コップを潰した。
「折れる音まで、すぐ隣で聞いてたでしょう」
涙がテーブルに落ちた。紗月は拭かなかった。あのとき見て見ぬふりをした女の前で、今日まで顔を整えてやりたくなかった。
「ごめん」
あまりに小さな声で、再び動きだしたコーヒーマシンの音に埋もれた。
紗月は水を一口飲んだ。飲み込めないと思ったのに、喉を通った。こんな声を聞いたあとでも、水が飲める。それが不思議だった。
「ファイルを送って」
「全部は渡せない」
「今、聞いたところ」
里香は長いためらいの末に、ファイルを送った。紗月は届いた音声を確かめた。再生時間は短い。あの日の通話を丸ごと録ったものではないのだと、ようやくわかった。
「もとの録音は、どこ?」
「別にある。それは渡さない。私が生きていられる理由だから」
「受け取ったお金は、その代金?」
「録音だけが理由ってわけじゃない。お互い、昔のことは蒸し返さずに生きようってこと」
紗月はファイルを閉じ、スマートフォンを鞄に入れた。
「私の前に現れなければ、終わりになる話じゃないから」
里香の顔がこわばった。
「通報するの?」
「今、あなたに教える理由はない」
紗月は立ち上がった。膝が揺れ、少しのあいだ椅子につかまった。里香が手を出したが、首を横に振った。
カフェを出て数歩歩き、ようやく壁にもたれた。通りの向こうに病院が見える。母はあの中にいた。修吾の金で暮らす病室に。
ポケットのスマートフォンが鳴った。
修吾さん。
画面に出た写真を見た。彼が自分で選び、登録してくれた写真だ。紗月を肩の内側へ抱き寄せて笑う顔。
呼び出しが切れる前に、電話に出た。
「紗月、面会は終わった?」
あの声だった。
紗月は手の甲で口を押さえた。返事をしようと口を開けば、先に泣き声が出そうだった。
「お母さんの髪……」
「お母さんが、どうしたの」
「髪を、切ったんです。短く」
修吾が笑った。
「すっきりしただろうね。夕食は家で食べるだろう?」
紗月は向かいの病院の正面玄関を見た。運転手が車を降り、彼女を探していた。
「はい」
一言だけ、やっと口にした。
電話の向こうで、修吾が夕食のおかずを尋ねた。紗月は何でもいいと答えた。その言葉まで、以前の自分と同じだった。
通話を切ると、膝が折れた。壁についたのが、よりによって右手だった。古い痛みが手首を伝って上がってきた。
道の向こうの病室に、母がいる。帰らなければ、誰に最初の電話がいくのかわからない。
紗月は身を起こした。今日は帰る。けれど、あの家を出る方法を探す。
自分の手を壊せと言った声を聞いてしまった。その手をもう一度握って、生きてはいけなかった。
篠原直人は、保管センターへ着く前に天城総合へ呼び出された。月曜の午前、地下鉄の出口を出ようとしていたときだった。黒田室長から電話があり、閲覧前に確認する書類ができたと言われた。午後三時に代理人たちと会う約束までは、時間があった。篠原は自分の弁護士に、訪問することを知らせた。予定の時刻までに連絡がなければ確認してほしい、とも伝えた。それから天城総合の建物へ入った。長年持ち歩いた入館証が、ロビーで通らなくなった。「臨時の入館証をお受け取りください」警備員が言った。篠原は首に下げていたカードを見下ろした。昨日までは、他の人が待つドアを、このカードで先に開けていた。今日は警備員の前で、自分の名前をもう一度告げなければならなかった。ストラップが耳に引っかかった。強く引くと、カードが胸にぶつかった。代表室に修吾がいた。窓辺のテーブルには、見慣れたファイルが置かれていた。「ここに座ってください」修吾は言った。篠原は椅子を引いた。鞄は両足の間に置いた。「今日の原資料の閲覧の件で、呼ばれたと伺いました」「その前に、なぜ外で別の約束をしたのか、聞かせてもらいたいですね」修吾は紙を向けた。外部保管センターへ送った、相談室の利用申請だった。篠原の申請名の下に、代理人同席と書いてあった。「自分の責任について、相談しているところです」「誰に、私の責任を説明するつもりで?」「私自身の責任と申し上げました」修吾は笑
遠山は褒めるより先に、抜けているページ数を尋ねた。日曜の午前、紗月は宿から最終リストを送り、電話を受けた。昨日のリハーサルで刷り直した伴奏譜の枚数が、返却リストに反映されていなかった。「前のものは捨てたんですか。それとも演奏者が持っていきましたか」紗月はメモを開いた。演奏者が比較のために両方の版を持っていった。確かに見たのに、返却の数から一つを落としていた。「最後に、数量を直していませんでした。両方とも貸出中として整理します」「そうしてください。それ以外は伝わっています。現場の担当者も、次はまず確認の場を設けると言っていますよ」紗月は修正したリストを送り直した。今回の現場確認とリスト整理の報酬、1万8,000円は、その日の午後に入った。楽譜室の6万円とは別だった。入院費の表の今日の欄を埋め、来月の欄を見た。まだ空いていた。少しして、小劇場からまた連絡が来た。「次の公演もお願いできますか。今回より資料が多いんです」紗月は予定から先に送った。月曜は資料を引き継ぐ約束があり、平日にはもともとの楽譜室の仕事もあった。担当者は日程が迫っているため、まず他の人を探すと言った。紗月はメッセージ欄に、午前中だけでもやりますと書いた。けれど資料の量を聞いたのに、終えるべき量を少なく見積もっていた。月曜の約束には代理人も来るし、篠原がまた気を変えるかもしれなかった。文章を消した。遠山にもう一度電話をかけた。「次の現場の仕事は、引き受けられないとお伝えしました。楽譜室の作業は、約束どおりできます」「それは別ですから。月曜に来る時間は、
ピアノが止まったのに、ヴァイオリンは先へ進んだ。悠真の弓が宙で止まった。ピアニストは鍵盤に手を置いたまま、自分の楽譜をめくった。二人は同時に相手を見た。「そこは繰り返さないことにしましたよね」「繰り返していません。ここへ飛ぶことにしたでしょう」土曜の朝の小劇場は、まだ暖房が行き渡っていなかった。紗月は客席の二列目に、メモを膝に置いて座っていた。昨日貼った付箋は、伴奏譜の上にそのままあった。演奏者たちはリハーサルを始めるのに忙しく、読まなかったらしい。担当者が客席で手を上げた。「すみません。整理した資料に、手違いがあったようです」視線が紗月に向いた。体が先に立とうとした。謝って楽譜を取ってくれば、この気まずい瞬間は早く過ぎる。紗月は肘掛けを掴み、離した。「整理するときに間違えた箇所ではありません」舞台の上の二つの楽譜を指した。「昨日から、書き込みが違っていました。お二人に尋ねるために貼った付箋が、今もそこにあります」小さな声だったが、舞台まで届いた。担当者が黙った。ピアニストは付箋を読み、スマートフォンのファイルを開いた。「私が送ったファイルですね。でも宮坂さんは、一つ前の版をお持ちです」悠真が自分の楽譜を見下ろした。誰が間違えたのかを決める会話になりかけた。紗月は舞台脇のテーブルへ行き、二つの資料を広げた。「どちらにするか決めていただければ、合わせます。お二人が決めた日付が違っていたんです」演奏者二人がテーブルに来た。紙を指で
「秘書をなさっていたなら、進行の電話も受けていただけますね」金曜の午前、小劇場の事務室で、担当者が公演の連絡先を紗月のほうへ向けた。遠山から聞いていた仕事は、リハーサル資料の照合だった。紗月は紙を受け取らず、向かいの空いた椅子を見た。「今日は、連絡業務も含まれているんですか」「難しく考えなくていいですよ。電話が来たら、何時までに来てくださいと伝えるだけです」担当者はもう別の電話に出ていた。慣れない職場で、最初の返事から断りたくはなかった。けれど楽譜を開く時間も足りなかった。通話が終わるのを待って、紗月は言った。「連絡を受けている間は、楽譜の確認が止まります」電話の横に、開いた楽譜を置いた。「両方終わったとは、お伝えできません。今日、必ず終えるほうを先に決めてください」担当者は手の中の電話と、テーブルのファイルを交互に見た。「では、資料からお願いします。演奏者からの連絡は、私が受けます」大した争いもなく終わった。紗月だけが、椅子に座っても少しの間、背を伸ばせなかった。明日、演奏者たちが同じ場所で止まり、また入れるよう、ページと書き込みを合わせる仕事だった。入力より、自分で読んで聴く必要があるため、紗月に声がかかった。ピアノ譜とヴァイオリンのパート譜を並べた。印刷された音符は同じなのに、演奏者たちの手書きが違った。一方には繰り返さないという印、もう一方には繰り返しの区間から別のフレーズへ進む矢印があった。「この印は、いつ決めたものですか」紗月が尋ねると、担当者がメールを探してくれた。
「4万円、今、振り込みました」遠山がスマートフォンを置いた。紗月は机の角にある自分の電話を、すぐには見なかった。最後に直した編曲者の項目がきちんと反映されているか確認し、それから画面を点けた。入金の通知が出ていた。先にもらった2万円と、今日の4万円。約束の6万円がすべて入った。残りの仕事も引き受けます、と言わなければならない気がして、唇が動き、止まった。「次の束は、どれくらいありますか」まず作業量を尋ねた。遠山は脇の箱を指した。「今回より少し多いです。同じペースでは、日程がきついかもしれません」紗月は橘と約束した来週の予定を見た。作業できない日があった。空いている時間を伝えると、一部は別の人に分けると遠山は言った。「全部私がやると、遅れそうです」「だから、前もって聞いているんです。引き受けた分だけ、日を守ってください」紗月は頷いた。遠山は次の束から、彼女の分を分けた。箱が一つ減った。その分、次にもらう金も減った。検収を終えた行の横に署名し、楽譜を閉じた。階段で銀行アプリを開き、入院費と宿泊費を差し引いた。長く残る金ではなかった。次にもらう分も減ったが、今日した仕事の代金は、すべて入っていた。蓮司にメッセージを送った。【検収が終わりました。今夜、お時間は大丈夫ですか】返事には、少し時間がかかった。【飛行機を降りました。遅くても構わなければ、会いたいです】紗月は代理人の事務所に寄ったあとで行ける店を探した。高い店を選びかけ、自分が
母の新しいベッドには、陽が差していた。水曜の午後、窓側の相部屋へ移る間、紗月は小さな収納ケースを膝に載せていた。看護師が母をベッドに移してくれてから、ようやくテーブルの下に入れた。せっかく寸法を測って買ったのに、奥へ押すと引き出しが壁につかえた。「もう少し前に」母が言った。「ここ?」「それじゃ足に当たる。横に置いて」紗月はケースの向きを変えた。三度目でようやく、母はそれでいいと言った。隣のベッドの患者が笑いながら、場所一つ変えるほうが引っ越しより難しいね、と口を添えた。カーテンを閉めれば一人で、開ければ隣の人が見えた。夜、体を起こしてもらうケアも、そのまま続くとあらためて説明を受けた。紗月は担当者と次の支払日を確かめてから、ベッドのそばへ戻った。母は陽射しを避け、少し顔を背けていた。「眩しい?」「好きだからって、全部顔に浴びることはないでしょう」紗月がブラインドを下ろすと、母はそこで止めてと言った。窓の外の枝が見えるくらいだけ、残った。椅子に座った。今日受け取った提案への返答が、スマートフォンに入っていた。一度署名すれば、もっといい部屋で暮らせただろうか。また、その考えが浮かんだ。「何かあったの?」母が尋ねた。「お母さんに、いいことをしてあげられなかった気がして」「ここ、よくないって?」「そうじゃなくて……」母は布団の下で足を動かした。&n







