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3話. 口を閉ざした代金

Author: YuIm
last update Petsa ng paglalathala: 2026-10-11 00:02:10

「C-04ですか? ずっと同じ方です」

篠原の返事は短かった。

紗月は肩と耳のあいだにスマートフォンを挟み、精算表をめくった。修吾は朝、出勤していた。午後には篠原が書類を取りに来る。その前に確かめる時間が必要だった。

「今回は受取人の名前もついていたので。番号が変わったのかと思って」

「担当者が替わって、原本を添付したのでしょう。金額だけ合わせておいていただければ結構です」

「昔の資料も、同じ番号で探せばいいんですよね?」

電話の向こうで、キーボードの音が止まった。

「代表から、過去の資料まで整理するよう指示があったのですか」

紗月は広げた紙を見下ろした。早く、いいえと答えなければいけない気がした。叱られないためには、いつもそう答えるのがいちばん早かった。

「支援事例集に使う資料を選んでおくように言われて。私の治療費も含まれていますし」

嘘ではなかった。

「それは代表が選んでお渡しになるはずです。まずは前の四半期分だけお願いします」

「はい、わかりました」

通話が終わり、紗月はメモしていたペンを置いた。ずっと同じ人。誤って紛れ込んだ書類かもしれないという期待が、一つ消えた。

ブルー・パブを検索した。確認書の電話番号は、店の番号と一致した。地図には、車で行ける距離が表示された。

運転手を連れていけば、修吾にも伝わる。先に里香へ電話すれば、彼女が修吾に知らせるかもしれない。

地図を閉じた。財布の中の蓮司の名刺にも触れなかった。修吾と同じ食卓についていた男に任せるには、知っていることが少なすぎた。

先に、母の療養先の病院へ電話した。翌日午後2時の面会を確認し、診療の説明を自分が直接聞けるか尋ねる。

「最近、直接伺ったことがあまりなくて」

職員は、どうして知らなかったのかとは聞かなかった。少し早く来れば、担当の看護師に取り次いでみると言ってくれた。

紗月は明日持っていく服を取り出した。引き出しの奥から、古い楽譜集が一緒に出てきた。

最後に練習した日の印が残っていた。弓が二度、床に落ちた。三度目に拾おうとしたとき、修吾がケースへしまった。

――もう、自分を苦しめるのはやめなよ。

あの言葉に感謝した。やめてもいいという許可が欲しかったから。紗月は丸をつけた小節を親指で隠し、楽譜集を戻した。

午後3時、篠原が来た。

彼は封筒を受け取るなり、書類の枚数を数えた。紗月は向かいに、空のティーカップを持って立っていた。

「管理番号順にされたんですね」

「日付順と番号順で、見やすいほうにしました」

「受領確認書は?」

「それぞれの番号の後ろについています」

篠原が該当ページを開いた。相沢里香の名前を見た瞬間、手がほんのわずかに止まった。

紗月は、その間を見た。

「何か間違っていましたか?」

「いいえ。お疲れさまでした」

篠原が封筒を閉じるあいだに、スマートフォンの画面がついた。紗月はカップを下ろす手で画面を覆った。手のひらの下に、里香の署名が残っているような気がした。

彼が出ていくなり、玄関の扉に背をつけた。外から、エレベーターを待つ足音が聞こえた。電話をする声はしなかった。それが少しも安心につながらない。

机には、封筒を置いた跡だけが残っていた。あの確認書を返してほしいと言って、もう一度手にできるだろうか。

紗月は部屋の扉を閉め、店の番号を押した。通話ボタンから指を離すと、もう取り消す間はなかった。呼び出し音が二度鳴る。

「ブルー・パブです。ご予約ですか?」

低く、少しかすれた声だった。昔とは違う。それでも語尾が上がる癖は残っていた。

「相沢里香さんですか?」

「どちら様?」

「毎月受け取っている、生活支援金のことで」

返事が途切れた。紗月は机の下で、足の裏を床へ押しつけた。

「何の生活支援金よ」

「50万円です」

「篠原さん? また担当が替わったの?」

紗月の口の中が乾いた。里香の口から、篠原の名が出た。ほんの少し前まで、自分の家にいた人の名前が。

「受領確認書に、連絡先があったので」

「今月も署名して送ったじゃない。それ以上、何を確認するの?」

「何のために、もらっているお金なのか」

「は?」

紗月は目を閉じ、もう一度開けた。

「私。七瀬紗月」

電話の向こうで椅子が鳴った。里香はしばらく、何も言わなかった。

「ふざけないで」

「私の名前は、忘れてなかったんだ」

「あんた、今、誰といるの」

紗月の背に冷たい汗がにじんだ。懐かしさでも、謝罪でもない。それが最初の問いだった。

「一人」

「一条修吾に言われたの? 私を試してる?」

「どうして修吾さんが、あなたを試すの」

里香が低く悪態をついた。グラスを置く音。遠くで誰かが、店を開けてくれと叫んだ。

「この番号、誰から聞いたのよ」

「あなたが署名した紙に書いてあった。里香、会って話そう」

「嫌よ」

「私も、あなたの顔なんか見たくない。でも、これは聞かなきゃいけないの」

里香はすぐには切らなかった。紗月に残された手がかりは、それだけだった。

「明日、母の病院へ行く。隣のカフェに来て。あなたの店には行かない」

「どうして私が、そこまで行かなきゃならないの」

「来ないなら、修吾さんに直接聞くしかない」

言い終えて、手が震えた。本当にそうするつもりはなかった。だが、里香にそれを確かめる術はない。

長い沈黙のあと、里香が尋ねた。

「何時」

「午後3時」

「誰にも言わないで。特に、あのクソ野郎には」

通話が切れた。

紗月はスマートフォンを下ろせなかった。里香が修吾を呼んだ言葉が、まだ耳に残っている。

あのクソ野郎。

明日の面会に持っていく鞄へ、グレーのカーディガンを入れた。財布の名刺が、抜け落ちていないかも確かめる。

財布を閉じようとしたとき、里香からメッセージが来た。

【一人で来て。一条修吾に言ったら、私は行かない】

紗月はカレンダーに午後3時と入れかけて、止まった。修吾も見る予定表だった。

病院の面会だけを残し、里香のメッセージは通知から消した。明日の一時間を、隠し通さなければならない。

* * *

翌日、母は短くなった髪が気に入らないようだった。

「後ろも切ったの?」

「うん。後ろも」

「短すぎる」

「すぐ伸びるよ。首に当たらなくて、涼しいでしょう」

紗月は母の襟についた髪を払った。母は鏡を置き、娘の顔をのぞき込んだ。

「あんたは、どうしたの」

「私が、何?」

「何も食べてない顔」

コンクールを終えて出てくると、母は結果より先に、それを聞いた。そう言われて初めてお腹がすいて、冷麺を一杯、残さず食べたものだった。

紗月は唇を噛んだ。今日は、そう聞いてくれる人がいるだけで泣きそうだった。

「終わったら食べる」

「私はもう終わったよ。食べておいで」

母が背を押した。その手には、ほとんど力がなかった。紗月は手を取って、しばらく座っていた。

診療について聞きたいことは、別に書いてきた。経過を見守るべきこと。次の診察で確かめること。看護師は家族の連絡先も確認した。紗月は、自分の番号へ先にかけてほしいと頼んだ。

修吾の名前は消さなかった。まだ、そうしてはいけない気がした。

「お母さん、次はもっと長くいるね」

母はうなずいた。どうしてそんなことを言うのかとは、尋ねなかった。

部屋の外で運転手に会った。近くのカフェで学校の友達と会うと言うと、彼は時計を見た。

「一時間ほどでしょうか」

「はい。お伝えしたとおり、4時にここでお願いします」

初めて、前から決まっていた約束のように言えた。運転手は特に疑わなかった。紗月は背を向け、ゆっくり歩いた。走りたかったが、走らなかった。

* * *

午後3時。里香は、先にカフェに来ていた。

紗月が扉を開けると、里香は立ちかけて、また座った。テーブルの下で、擦り減った靴の先が向きを変える。逃げるか、残るか、まだ決めかねているようだった。

「一人で来たんだ」

里香から口を開いた。その視線が、紗月の後ろに誰もいないか探った。

「誰か一緒に来なきゃいけなかった?」

「電話でそう言われても、信じられないでしょ」

紗月は入口の見える向かいの席に座った。カウンターで注文を取る声。豆を挽く音。隣のテーブルから、小さな笑い声。こういう場所で会うことにしてよかった。

スマートフォンで写真を開き、テーブルに置いた。

「これ、あなたが書いたんだよね」

里香は画面を見て、目をそらした。

「はい」

思わず丁寧な返事が出た。自分でもおかしかったのか、里香が口元を歪めた。

「そう。私が書いた。お金をもらったのも本当」

「どうして?」

「生活費」

「どうして修吾さんが、あなたの生活費を払うの」

「私が知るわけないでしょ。くれるっていうなら、もらうわよ」

紗月はスマートフォンを自分のほうへ引いた。

「あの人に聞く」

「ちょっと」

里香がテーブル越しに手を伸ばした。紗月が身を引くと、手は宙で止まった。二人はしばらく、その手を見た。

先に引っ込めたのは里香だった。

「触る気はないから。座って」

紗月は背もたれに背をつけた。昔はこの女の前で、手を隠す場所がなかった。今は、テーブルの下へ引くことができる。そのことを確かめてから、口を開いた。

「いつから受け取ってたの?」

「卒業する頃から」

「どうして」

「昔の話をしない、っていう条件で」

コーヒーマシンが止まった。急に、里香の言葉だけが周囲へ大きく響きそうな気がした。

「何の、昔の話」

里香が紙コップの縁をちぎった。

「あんたも、察しがついたから来たんでしょ」

「察しじゃなくて。あなたの口から聞かせて」

里香の口元に、癖になった薄笑いが浮かぶ。だが、長くはもたなかった。

「あの日、病院で私に膝をつかせたの、覚えてるよね」

紗月はうなずかなかった。

「あんたの前で、頬をひっぱたいたのも。あのあと耳鳴りがして、しばらく病院に通ったのよ」

「それを私に話して、どうしたいの」

「だから、私だってあいつが怖かったって言ってるの」

里香が鞄を探った。財布と領収書の束のあいだから、スマートフォンを取り出す。何度か画面を押してから、ためらった。

「聞いても、私が渡したって言わないで」

紗月は答えなかった。

「約束して。本当に殺されるかもしれないの」

「私が約束すれば、あなたのしたことがなくなるの?」

里香が舌で唇を湿らせた。

「そんな話じゃないでしょ」

「だから、そんな約束はできない」

鞄を閉じかけた里香の手が止まった。入口を一度見てから、スマートフォンの音量を下げる。

「好きにすれば。でも、最後まで聞いて」

短い雑音が流れた。古い機械で録ったような、薄い音。最初に聞こえたのは、里香の声だった。

――絵は全部燃えた。それでも警察に通報するって言ってるけど?

膝の上で、紗月の右手が縮こまった。

廊下に灰が落ちていた。雨が降るからと窓は閉め切られ、誰かが電話をしているあいだ、ほかの子たちが彼女の腕をつかんでいた。あのときの靴より先に、匂いを覚えている。濡れた制服と、焦げた絵の具の匂い。

やがて、修吾の声がした。

――弓を持てるうちは、あいつはどこへでも行く。

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