LOGIN若くして結ばれた二人だったが、結婚4年目にして天海星音(あまみ せいね)は離婚を切り出した。 鷹司暁(たかつかさ あきら)にとって、星音は常に優先順位の3番目だったからだ。 暁は全く意に介さず、周囲にからかわれても淡々と答えていた。 「ただの夫婦の冗談だ。彼女の機嫌を取るなんて、誰よりも簡単だから」 だが、星音が離婚届を彼の目の前に置いた瞬間、事態は一変した。 「これにサインさえしてくれれば、私は身一つで出ていくわ」 常に誇り高かった暁が、生まれて初めて取り乱した。 「俺と別れて、一体誰がお前を守ってくれると思ってるんだ?」 それでも星音は、彼のもとを去る時、ただの一度も振り返ることはなかった。 「鷹司暁。私の人生に降りかかった嵐は、すべてあなたが起こしたものよ」 …… 星音が本当に自分を捨てるなど、暁は夢にも思わなかった。 別の男に体を支えられながら病院へ向かい、大きなお腹を大事そうに抱え、穏やかに微笑む星音は、もう二度と彼のものではない。 暁は半狂乱になり、這うようにして彼女のもとへ駆け寄った。 「あいつに、お前の健診に付き添う資格なんてあるのか?」 星音は言った。 「あなたも他の女の健診に付き添ったでしょう。これでおあいこ、もう貸し借りなしよ」 暁は目を真っ赤にして訴えかけた。 「お前がもう俺を愛してないなんて、信じない」 「ええ、もう愛してないわ」 目の前で背伸びをし、別の男にキスをする星音を見て、暁は崩れ落ちるように膝をつき、懇願した。 「構わない。俺が愛していれば、それでいい」 …… かつては手が届かないほど高慢で冷徹だった男が、今では毎日、二人の幼い子供たちの後をついて回っている。 「お前たちからママにお願いしてくれないか。パパを許してやってくれ、って」 酔った勢いで星音のベッドに潜り込んだ暁は、色仕掛けで気を引こうとまでした。 「やり直してくれ。俺がお前たちと同じ姓を名乗ってもいいから」
View More涙が止まらなくなった星音を見て、暁はそっと彼女を抱き寄せ、思わず眉をひそめた。最近の彼女は、やたらと泣くようになった気がする。出張から帰宅してからの二日間だけで、すでに二度も涙を見ている。以前の星音は、めったなことでは泣かない性格だった。月城家の人間たちに殺されそうになったあの時でさえ、目を真っ赤にしながら「ごめんなさい」と繰り返すだけで、決して涙は見せなかったのだ。暁は彼女の頬を撫で、親指でそっと涙を拭ってやった。「どうした?まだ悔しいのか?」麗子に頬を打たれたことをまだ引きずっているのだと思い込み、彼は言った。「明日、一緒に本邸へ乗り込んで、仕返ししてやろう」星音は赤く腫れた目で彼を睨みつけた。「口では何とでも言えるわよね。あなたが手を出してくれるの?それとも私にやれって言うわけ?」「俺と一緒に、あの家をめちゃくちゃにしてやろう」さすがの彼も、実の母親を殴るわけにはいかない。「本邸をぶっ壊して、中にあるものを全部叩き割ってやろう。母さんが一番大事にしているジュエリーボックスの場所も知ってる。中身を全部出してやるから、お前が好きなだけぶちまければいい。母さんにとっては命の次に大事な代物だ。どうだ?」それを横で聞いていた明日香は、「とんでもない親不孝者ね」と内心呆れ返った。星音は、彼が巧妙に話をすり替えているのを聞いて、深い無力感を覚えた。莉愛の話をしていたのに、彼はまたしても嫁姑問題に話を逸らしたのだ。嫁姑関係など、星音にとってはとっくにどうでもよかった。幼い頃から麗子に嫌われていることは百も承知だ。昔は暁のために好かれようと努力したこともあったが、無駄だと悟った。むしろ媚びれば媚びるほど、麗子は彼女を見下してきたのだ。暁はさらに彼女をご機嫌取りのようにあやし続けた。「もう機嫌を直してくれ。泣くのもやめろ。今日買ったものは全部、俺が払ってやるから」星音は彼を横目で見やった。「大したものなんて買ってないわ。お父さんの冬物を少しだけよ」暁は軽く笑った。「俺は義父さんにマッサージチェアを注文しておいた。D国から取り寄せた特注品で、今日の午後届いたんだ。明日会いに行く時に、業者に運ばせよう。義父さんの体格に合わせてあるし、頭部のマッサージ機能もついている。リハビリの助けになるはずだ」その言
案の定、30分後、個室のドアが開いた。チャコールグレーのコートを羽織った男が入り口に立ち、底知れぬ暗い瞳で静かに星音を見据えていた。星音の頬は、酒のせいでほんのりと赤く染まっている。彼は長い脚を踏み出し、迷わず星音の隣に腰を下ろした。星音は彼に視線すら向けなかった。たまらず、明日香が慌ててとりなした。「あ、暁。さっき電話でも言ったでしょ?星音はもう少し私と飲みたいのよ」暁は星音を見つめたまま、短く言い放った。「もう遅い。帰る時間だ」明日香は息を呑み、言葉を失った。先ほど星音が予言した、一言一句そのままだったのだ。長年一緒にいるからここまで思考が読めるのか、それとも似た者同士だから衝突ばかりするのか。明日香にはもう分からなかった。……星音の、微かに嘲笑を含んだ声が響いた。「遅いって?まだ夜の10時よ」彼女は指先で暁のコートの袖口をつまんで引き寄せると、彼の腕時計の文字盤をトントンと指差し、酔いで潤んだ瞳で彼を見上げた。「あなたなんて、夜中の2時や3時に帰ってくるのがしょっちゅうじゃない。私、一度だって無理に早く帰ってこいなんて言ったことないわよね?」暁は顔色一つ変えずに答えた。「俺は仕事で忙しいんだ」「笑えるわね。仕事のほうが遊びより偉いとでも言いたいの?」星音は自らグラスに酒を注ぎ足した。「それとも、麗子さんのエリート主義の受け売りかしら。仕事に時間を費やすことだけが価値があって、それ以外は人生の無駄遣いだって?」暁は不快そうに眉をひそめた。「星音、『麗子さん』なんて他人行儀に呼ぶな。ちゃんと『お義母さん』って呼べ」「『あなたの』お母さんよ」星音はすかさず言い返し、それが少し刺々しすぎたと気づいたのか、自嘲するように小さな声で付け足した。「あの人は、私を義理の娘だなんて一度も思ったことないわ」先日、鷹司家の本邸で容赦なく頬を張られた時のことを思い出していたのだ。あの時は、冷たい風で顔の感覚が麻痺していたせいもあり、痛みも感じず、悲しいとも思わなかった。だが今、酒が入って気が緩んでいるせいか、思い出すと急に惨めな気持ちが込み上げてきた。暁は腕を伸ばし、強引に星音を抱き寄せた。「ほら、帰るぞ。酒臭い。家に帰ったら温かいシャワーを浴びさせてやるから、な?」彼は低い声で、甘や
星音は明日香と一緒に、父の誠へセーターを2着、コートを1着、それにカシミヤのパジャマの上下セットを選んだ。二人は紙袋をいくつも抱えて、明日香の車に乗り込んだ。皇苑レジデンスへ送ってもらう道中、星音はふと言った。「明日香、私たち、バー『1988』にはずいぶん一緒に行ってないわよね」バー「1988」は、大学時代に星音が最もよく通っていた小さな店だった。期末テストが近づき、プレッシャーに押しつぶされそうになった時、星音はよくあの店で息抜きをしていた。その後、静真が亡くなってからは毎日のように通い詰め、一晩中座り込んでいる時期もあった。暁と結婚してからは足が遠のいていた。だが今年に入ってから、星音は一人で再びバー「1988」へ足を運ぶようになっていたのだ。明日香は星音をちらりと見たが、何も言わずに無言でハンドルを切った。二人はいつものように小さな個室に入り、お決まりのドリンクを頼んだ。この店に来ると、星音はいつも心からリラックスできた。こぢんまりとして値段も安いため、鷹司家や月城家の人間はもちろん、他の名家の御曹司や令嬢たちも、絶対にこんな庶民的な場所には来ないからだ。誰かに鉢合わせる心配もなく、羽を伸ばせる。明日香は星音ととりとめのない会話を交わし、やがて誠の話題になった。「この前お父さんに会いに行った時、ずいぶん状態が良くなってるって感じたわ。前みたいにずっと寝てばかりじゃなかったし、認知機能もかなり回復してた。星音、お父さん、いつか絶対に元通りになると思うわ」星音は薄く笑みを浮かべた。「鷹司家が手配してくれた、最高の医師団のおかげね。効果が出て当然だわ」だが、明日香はその言葉の裏に隠された皮肉を聞き逃さなかった。彼女は星音を真っ直ぐに見つめた。「あんた、やっぱりお父さんの事故は、月城家が絡んでいると思ってるのね?」星音の瞳は、恐ろしいほど静かに澄んでいた。「麗子さんは私のことをあれほど憎んでいるのに、お父さんが事故に遭った時だけは、あちこち駆け回って名医を手配し、腕利きの弁護士まで探してくれた。飲酒運転の加害者の裁判の日も、わざわざ私に付き添ってくれたのよ」星音は言葉を切ってから、淡々と続けた。「でも暁は、月城家とは無関係だと言ったわ」明日香はすべてを察した。星音は、暁を信じることを選
和美が帰ったあと、星音は一人、涙を流しながらお昼ご飯を食べた。頬を伝って口に流れ込んだ涙が料理と混ざり、ひどくしょっぱい味がした。午後、約束していた明日香と会うと、彼女は一目で星音が泣きはらしたことを見抜き、さっと険しい顔つきになった。「どうしたの?」明日香は血相を変えた。「またあの莉愛が何かしたんでしょ!あんな女のために泣くなんてバカバカしい!どうしても腹の虫が治まらないなら、私が一緒に月城家へ乗り込んで、あのピンクダイヤのネックレスをむしり取ってきてやるわよ!」赤く腫れた目で、星音はふっと笑った。「今回はあの子、関係ないわよ」星音は小さく鼻をすすった。「和美さんが辞めちゃうの。あの人のご飯、すごく美味しかったのに、もう食べられないんだなって思ったら、なんだか悲しくなっちゃって……」明日香は星音をじっと見つめ、胸を痛めた。彼女の周りには、泣きたくなるほど悲しいことや理不尽なことが山ほどある。暁の、莉愛への度を越した肩入れ。鷹司家と月城家から受ける理不尽な扱い。ここ数年、毎日続く息の詰まるような生活。そういう本当の絶望にはじっと耐えているのに、家政婦がいなくなるという日常のささやかな変化をきっかけに、彼女の心の堰が切れてしまうのだ。明日香は星音の向かいに座り、優しく問いかけた。「星音、前に私が紹介したカウンセラーのところ、行ってみた?」星音は言葉を濁した。「私、病気じゃないもの。お医者さんになんて用はないわ」「……」明日香は心配そうに彼女を見た。「病気じゃなくても行っていいのよ。例えば、何か嫌なことがあった時とか、誰に話していいか分からない時とか、ただ話を聞いてもらうだけでいいんだから」「結構よ。お医者さんの顔を見ただけで、どんな病気も逃げていっちゃうから」星音は頑なだった。昔から彼女は極端な病院嫌いで、医者に会うことを何よりも恐れていた。注射針を見ただけで、めまいも痛みも吹き飛び、プロボクサーと殴り合えそうなほどの火事場の馬鹿力を発揮するのだ。明日香はこれ以上言っても無駄だと悟り、話題を変えた。「明日はお父さんに会いに行く日よね?暁も一緒?」星音は小さく頷きかけ、すぐに首を横に振り、最後には「分からない」と力なく答えた。以前は毎月、必ず一緒に行ってくれていた。しかし、そのうちの2回は莉