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染み②

Author: 藍沢咲良
last update publish date: 2026-10-08 19:29:09

瑛が何を話しているのかは、とても気になる。

でも、今の私は姿を現してはいけない、らしい。

三十分が経った。

気になりながらも手をつけた仕事は、片付いてしまった。

今日も瑛と帰るつもりなんだけど……。

瑛、解放されたかな。

店舗には、もう私しか残っていなかった。

先に出た蒼くんからは、念押しのLINEが来ている。

『朝比奈さん、まだ出ない方がいいです。所長が戻るまで、待機してください。危険です』

絵文字がない。

いつもは絵文字を多用する子なのに。

それだけで、切迫感があった。

扉が開いた。

瑛だった。

その表情は、ぐったりとしていた。

「……大丈夫?」

声をかけた瞬間、瑛は私の名前を呼んだ。

「りお」

そのまま、腕に包まれる。

他に人がいなくてよかった。

瑛は何も言わない。

聞きたいことは、たくさんある。

あの人は誰なのか。

何を言われたのか。

どうして、あんなふうに瑛の名前を呼んだのか。

でも、この人が今、回復するためには、私を黙って抱きしめることが必要なのだとわかった。

だから、何も聞かなかった。

腕の力が、少しだけ緩む。

私は顔を上げた。

「大変、だったね」

「ああ……」

瑛は私
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    瑛が何を話しているのかは、とても気になる。でも、今の私は姿を現してはいけない、らしい。三十分が経った。気になりながらも手をつけた仕事は、片付いてしまった。今日も瑛と帰るつもりなんだけど……。瑛、解放されたかな。店舗には、もう私しか残っていなかった。先に出た蒼くんからは、念押しのLINEが来ている。『朝比奈さん、まだ出ない方がいいです。所長が戻るまで、待機してください。危険です』絵文字がない。いつもは絵文字を多用する子なのに。それだけで、切迫感があった。扉が開いた。瑛だった。その表情は、ぐったりとしていた。「……大丈夫?」声をかけた瞬間、瑛は私の名前を呼んだ。「りお」そのまま、腕に包まれる。他に人がいなくてよかった。瑛は何も言わない。聞きたいことは、たくさんある。あの人は誰なのか。何を言われたのか。どうして、あんなふうに瑛の名前を呼んだのか。でも、この人が今、回復するためには、私を黙って抱きしめることが必要なのだとわかった。だから、何も聞かなかった。腕の力が、少しだけ緩む。私は顔を上げた。「大変、だったね」「ああ……」瑛は私をそっと離すと、所長席へふらふらと戻った。椅子に沈み込んだ彼は、そのまま眠ってしまいそうだった。こんなに瑛を消耗させた女性。久しぶりの再会に、運命という言葉を使うことにためらいのない人。ここまで聞こえてきた台詞だけで、その人が瑛の過去の人だということは、瑛に聞かなくてもわかった。そして、瑛がその人を歓迎していないことも。「りおちゃん、今、いい?」翌日。朝の仕事の準備をしていた私は、莉子さんに呼ばれた。瑛は出社して早々、誰かに呼ばれて出ていったきり、まだ戻っていない。昨夜も今朝も、瑛は説明しようとしてくれた。でも、そのことにまつわる言葉を発しようとするだけで、瑛の疲労が濃くなる気がして、私は止めた。結局、何も聞けていない。案内されたのは、誰もいない会議室だった。人目を避けての話。昨日のことだろうか。「これ、見た?」莉子さんは、スマホの画面を私に向けた。『瑛! まだアオパにいたのね! ……』昨日、エントランスで起きた騒ぎの動画だった。誰かがスマホで撮影したものらしい。「莉子さん、これ……」「ずいぶん、社内で出回ってるみたい」難しい顔をし

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    瑛は、言葉が遅い。遅すぎる。こちらが泣くまで、追い詰められるまで、気がつかないところがある。でも、軽くはなかった。その違いを、私はもう知ってしまった。軽い言葉は、欲しかった言葉に似ている。でも、似ているだけ。似て非なるもの。私が欲しかったのは、誰かに「大丈夫?」と覗き込まれることではなかった。誰かに「話、聞くよ」と逃げ場を差し出されることでもなかった。瑛の口から、私が何なのかを聞きたかった。ただ、それだけだった。そして返ってきた答えは、思いのほか、だいぶ重かった。瑛には悪いけれど、少し笑ってしまうくらいに。でも、幸せだった。エレベーターの扉が開く。フロアに戻ると、いつもの空気がそこにあった。電話の音。キーボードを打つ音。誰かが書類をめくる音。そして、少し離れたところに榊くんがいた。誰かと話していて、笑っている。その笑顔は、たしかに人目を引いた。さっきの人たちが騒ぐのも、少しだけわかる。でも、私の足は止まらなかった。そのまま自分の席へ向かう。途中で、榊くんがこちらに気づいた。一瞬だけ目が合う。榊くんの笑顔が、ほんの少しだけ変わった。いつもの軽さの下に、探るような色が混じる。私が何を考えているのか、知りたがっている顔。かつてはその顔に、だいぶ振り回された。どう思っているんだろう、って。けれど私は、何も返さなかった。ただ軽く会釈をして、席に戻った。その時だった。奥の方から、低い声がした。「朝比奈」瑛だった。書類を手にこちらを見ている。いつもの所長の顔。でも、その目だけは少し違う。私が榊くんから視線を外したことに、気づいている。たぶん、全部ではなくても。「この件、あとで確認する」「はい」私は書類を受け取った。指先が触れたわけではない。距離も、職場としては自然だった。それでも、瑛の視線が一瞬だけ私の左手に落ちたのがわかった。指輪。まだ社内では大きく言っていない。でも、もう隠しきれるものでもない。仕事中はつけない約束にしていた。そのはずだった。でも、瑛がどうしてもつけてほしそうな顔をするから、結局、私が根負けした。言葉は遅いくせに、こういう主張だけはやたら強い。氷室さんの婚約者。森田先生と八神さんにそう言われた時、まだ自分のものではないように感じた言葉。でも今、フ

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    指を添えると、瑛の身体がぴくりと揺れた。その反応だけで、胸の奥が甘く疼く。私は見上げたまま、そっと唇を寄せた。塩のような、熱のような味がした。「……りお」瑛の声が、湯気の中で掠れる。いつも瑛に翻弄されてばかりの私が、今は瑛の余裕を少しずつ奪っている。そう思ったら、たまらなく意地悪な気持ちになった。ゆっくり。焦らすように。ときどき瑛の顔を見上げて、反応を確かめながら。「……っ」瑛の手が、私の髪に触れた。止めるためなのか、耐えるためなのか分からない。でも、指先に力がこもるたび、私はちゃんと効いているのだと分かってしまう。「瑛」名前を呼ぶと、瑛は一瞬だけ目を伏せた。それから、深く息を吐く。「……りお、もう」その声が限界に近いことくらい、私にも分かった。それでも私はやめなかった。私が、したかったから。瑛の身体が大きく震える。低く押し殺した声が、浴室に落ちた。熱がほどけていく気配を、私はすぐ近くで受け止める。次の瞬間、瑛は私の腕を取って、引き上げるように立たせた。「……瑛?」返事の代わりに、唇を奪われた。さっきまで私に翻弄されていた人とは思えないほど、強く、深い口づけだった。「手、ついて」低い声に逆らえず、私はバスタブの縁に両手をついた。背後から抱き寄せられた瞬間、息が止まる。「……っ、瑛……!」身体の奥まで、熱が届いた。瑛は何も言わなかった。ただ私の腰を支え、逃げられないほど近くで、何度も私を満たしていく。浴室の壁に、シャワーの音と、乱れた息が跳ね返る。「りお」耳元で呼ばれるたび、膝から力が抜けそうになる。さっきまで私が握っていたはずの主導権は、あっけなく奪い返されていた。悔しい。でも、それ以上に嬉しい。私はバスタブの縁を握りしめたまま、瑛の名前を何度も呼ばされた。やがて、瑛の呼吸が大きく乱れた。「……りお」低く名前を呼ばれた瞬間、腰を支えていた手に力がこもる。次の拍子に、瑛は私を抱き寄せたまま、苦しそうに身体を離した。「……っ」押し殺した声が、湯気に溶ける。熱いものが、私の太ももを伝って落ちた。一瞬遅れて、それが何なのか分かって、顔まで熱くなる。こんなときでも、ちゃんと外してくれるんだ。ずるい。あんなに余裕をなくしていたくせに。最後の最後で、そういうところだけは瑛

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    「そう。早く言わないと、もっとやらしい格好にするよ」ブラとショーツだけのこの姿以上の、やらしい格好。瑛の望む褒美って、一体どんなレベルなの。「きょ、今日……」「うん」「かっこよかった、です……」瑛はまだジャケットを脱いだだけだった。ネクタイだけが、いつの間にか緩んでいる。「それだけ?」「え、えっと……」首筋に、胸元に、口付けが落ちる。甘いだけじゃない。微かな痛みが、そこに瑛の熱を残していく。瑛はネクタイを外すと、私の両手首を頭の上でまとめた。「え、瑛……っ」「逃げられないだろ」低い声に、身体が反応する。胸元の布が、瑛の指でゆっくりとずらされた。見られている。そう思っただけで、息が浅くなる。「りお。まだ足りない。ちゃんと褒めて」耳元で囁かれた声が、鼓膜の奥を震わせる。息がかかっただけなのに、一瞬、意識が遠のきそうになった。「ほら、りお。ちゃんと俺を見て」触れたのか、触れていないのか分からないほどの距離で、瑛の指先が私を追い詰めていく。ほんの少しの刺激に、身体中が勝手に反応してしまう。「褒めて?」「はあっ……瑛……」「何?」「かっこよかった、の……誰よりも……」言い終える前に、また胸元に痛みが走った。瑛が残した印が、熱を持っていく。『お風呂が沸きました♪』人工的な音声が、脱衣所までやけに明るく響いた。「え、瑛。お風呂、入ろ?」もう、頭の芯はとっくにほどけていた。それなのに、瑛はまだ余裕のある顔をしている。私を腕の中に閉じ込めたまま、背中に回した指先で、プツン、とホックを外した。「続きは、身体を洗ってからな?」耳元に落ちる低い声。この人は、全部わかっていてやっている。暖房の効いた浴室。瑛がシャワーの温度を確かめている隙に、私は慌ててクレンジングを手に取った。きっと、今しか落とせない。湯気の向こうで、瑛が小さく笑った気がした。何も言わないまま、彼は私を椅子に座らせ、迷いのない手つきで髪を濡らしていく。指が頭皮に触れるたび、身体の力が抜けていく。悔しいくらい、気持ちいい。でも。私だって、やられっぱなしじゃない。大人しく従っているふりをしながら、私は瑛の背後にあったボディソープへ手を伸ばした。手のひらに泡を広げ、そっと彼の胸元へ滑らせる。「……りお?」一瞬、瑛の手が止まった

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