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第10話

Author: カフェイン中毒男
月曜日の午後、卓也のアシスタントが葉月に連絡を取った。

その時、葉月はお客さんと話をしていたが、卓也のアシスタントからのメッセージを見て、七海を呼んだ。

「卓也のアシスタントの連絡先をあなたに渡すから、彼と連絡を取ってちょうだい」

七海は「わかりました」と返事した。

七海はすぐに卓也のアシスタントと会う約束を取り付けた。

七海は葉月のところに戻り、「葉月さん、澤口社長の方から今夜一緒に食事をしながら話をしたいということです。葉月さんのご意向を聞かせてほしいと言われました」と報告した。

葉月は時間を確認し、うなずいた。「いいわ、準備して私と一緒に行きましょう」

葉月は商談のために外出することは滅多になく、七海も葉月の会食に同席することは今までなかった。そう考えると、今日が初めてだ。

七海はこういった場での経験がないため、自分が何か迷惑をかけるのではないかと心配していた。

葉月はとてもリラックスした様子で、七海を慰めた。「心配しなくていいわ、卓也は身内のようなものよ。もし問題がなければ一緒に仕事をすればいいし、無理なら別に何も影響はないわ。今日は、私と私の古くからの友人との昔話に付き合ってくれるつもりでいてくれればいいの」

七海は好奇心いっぱいに目を瞬かせた。「葉月さんは澤口社長とお知り合いなのですか?」

葉月はうなずいた。「もう10年の付き合いだね」

葉月の祖母が亡くなってから、葉月は国内に残って勉学に励み、一の松市の学校に通って卓也たちと知り合った。

みんな同い年だったが、卓也だけが1歳年下だった。以前はよく卓也をからかい、「姉貴」と呼ぶようによく強要したものだ。

あの頃のことを思い出すと、葉月の表情は自然と柔らかくなった。

葉月は笑いながら七海に言った。「卓也は一見頼りないように見えるけど、実は信頼できる友達なのよ」葉月は真剣な表情で続けた。「でも覚えておいて、仕事以外では卓也から距離を置くのよ」

卓也は義理堅く、性格も素直でさっぱりしている。たまに頼りないところはあるが、全体的に見れば悪くない男だ。

しかし、私生活となると、卓也の振る舞いは到底褒められたものではないと葉月は思っている。

約束の場所に着いた七海は、きらびやかで贅沢の限りを尽くしたホテルを見て驚いた。回転ドアの向こうからはクリスタルガラス製のシャンデリアの光が溢れ出し、それは目も開けられないほどの眩しさだ。

七海は思わず息を漏らした。これがお金持ちの世界というものか?

葉月はすでに慣れっこだ。派手好きな性格をした卓也に、「控えめ」という言葉の意味など理解できないのだ。

卓也のアシスタントが自ら葉月と七海を出迎えた。「井上夫人、澤口社長はすでに中でお待ちです」

葉月は軽く頷きながら言った。「葉月と呼んでください」

アシスタントは表情を変えず、丁寧に一礼して、前へと歩み出し道を案内した。「かしこまりました、葉月さん」

個室のドアが開くと、卓也はすぐにタバコを消し、窓を全開にした。葉月を見ると、にっこり笑って、「葉月さん、こんにちは!」と元気よく挨拶した。

この元気いっぱいの「葉月さん」という呼び声を聞いて、七海はすぐさま葉月の方を見た。澤口社長と葉月さんは知り合いだったのか。

葉月は本当に卓也の口を塞ぎたかった。あんな大声で呼ぶなんて、わざと周りに聞かせたいわけ?

卓也は厚かましく、恥をかくという概念も理解できないらしく、ニコニコと葉月たちに料理を選ばせた。今日は全部自分がおごるから、好きなものを何でも注文していいと言った。

葉月はタブレットを七海に渡し、遠慮なく言った。「あなたが選んで。好きなものを何でも注文して。卓也はお金に困らないから、財布の紐が緩いよ」

七海はタブレットを受け取り、その言葉を聞くと、向かい側に座る卓也をチラッと見て、それからメニューを見始めた。

卓也は照れくさそうに鼻をこすりながらも、視線は自然とメニューを選ぶ七海に向いている。

個室の暖かい光が七海の白磁のように白い首筋に降り注ぎ、卓也の頭には一つの言葉しか浮かんでこない——純粋無垢。

卓也は心の中で自分を戒めた。自分は何を考えているんだ、本来は仕事の話をするために来たのに、どうして女の子をジロジロ見てるんだ。

葉月は卓也が七海に向ける視線に気づき、軽く咳払いした。「仕事の話をするために私を呼んだんじゃなかったの?具体的にどう進めるの?」

卓也は我に返り、普段通りのふざけた様子で葉月を見た。

「話はシンプルだ。直近、うちのブランドでは、一連のプロモーション活動を進める必要があり、そのために何人かの芸能人とモデルをすでに呼んだ。これから半月かけて、来季の新作の広告を打ったり宣伝写真を撮る予定だ。芸能人とモデルのメイクのために、メイクアップチームが必要なんだ」

卓也は自分でファッションブランドを立ち上げ、ここ数年で知名度がどんどん上がってきており、葉月もそれを知っている。

「どうして私に頼もうと思ったの?」葉月は水を一口飲み、笑いながら卓也に尋ねた。

卓也は笑った。「自分の身近にこの仕事をやってる人がいるんだから、わざわざ別で探す必要はないだろう」

卓也は葉月の仕事について基本的な理解はすでにあり、葉月自身に対しても信頼を置いている。

来季の新作は特に重要で、宣伝がうまくいけば、卓也のブランドもさらに成長できるので、今回のプロモーションには力を入れている。

卓也は言った。「芸能人は基本的に専属のメイクアップアーティストがいるから、それは特に心配はないけど、モデルたちのメイクに関しては外部に頼る必要があるんだ」

葉月はうなずき、考え込んでから「いいよ」と返事した。

卓也のアシスタントが事前に用意していた契約書を持ってきた。「葉月さん、問題がなさそうなら、まず契約書にサインしてもらえますか」

葉月はそれを受け取り、一通り目を通した。そこにはこの半月間に葉月たちがすべきことと、それに対する報酬が書かれているだけだ。

契約とはいえ、葉月にとっては何の影響もなく、後々何か問題が起きても葉月は責任を負う必要はないことになっている。

葉月は卓也を見上げ、手に持った書類を軽く振った。「これ本気?」

卓也は全く気にしていない様子だ。「葉月さん、まさか俺のこと信頼してないんですか?」

葉月は何かを思い出したように、また卓也に尋ねた。「今回の件、逸平は知ってるの?」

「知ってますよ。正直に言いますと、葉月さんに頼む前にまず逸平さんのところに相談しに行きました。逸平さんは、全部俺と葉月さんに任せるとおっしゃってました」

卓也はありのままに話した。

葉月はそれ以上何も言わず、さっさと自分の名前をサインした。

卓也はアシスタントに契約書をしまわせ、葉月を見て、突然何かを思い出したように、顔の笑みを抑えきれずに聞いた。

「葉月さん、一つ聞いてもいいですか?」

「なに?」

「逸平さん、あんな風に顔を殴られて、どうされたのですか?」卓也は思い出し笑いが止まらず、葉月に尋ねる時も、いたずらっぽく目を光らせた。

グラスを握っていた葉月の手が止まった。あの夜、葉月は確かに力いっぱい逸平を叩いた。今思えば、逸平の顔にはきっと濃く赤い手の跡が残ったことだろう。

七海はジュースが入ったグラスを持ちながら葉月をチラ見していたが、その言葉を聞いてむせ返った。

普段は優雅で落ち着いている葉月さんが、あの井上社長に手を出すなんて、すごいことだ。

しかし葉月は考え直した。外で不貞を働いたのは逸平の方で、しかもあんな言葉を葉月にかけるなんて、あの一発のビンタではまだ軽い方だと思った。

「逸平は不誠実だったから、殴られて当然よ。あなたは逸平の真似をしない方がいいわ、さもないと後でもっと酷い目に遭うから」

葉月の目が冷たくなり、卓也は急に首筋が寒くなるのを感じた。

澤口家の若様である卓也が毎晩遊び歩いていることは周知の事実で、葉月の言葉は明らかに卓也を戒めるものだ。

卓也は苦し紛れに何回か笑ったが、もうこの話題には触れようとしなかった。

契約も済み、食事も終わった後、卓也は葉月と七海を家まで送ると申し出たが、葉月に丁重に断られた。

「大丈夫よ。自分で車で来たから」

卓也も無理強いはせず、「そうですか、では気をつけてお帰りください」と言った。

七海は葉月の後ろについて、卓也に急いでお辞儀をすると、「澤口社長、さようなら」と言った。

七海は柔らかくかすかな声をしており、なぜか卓也は七海が自分を恐れているように感じた。

その小さな姿が回転ドアの向こうに消えるまで、卓也はタバコを咥えたまま笑いを漏らしている。

七海のびくびくした様子は、まるで触ればすぐに甲羅に引っ込む亀のようだ。

卓也のアシスタントが近寄ってきて聞いた。「澤口社長、何を笑っているんですか?」

「アッチッチ!」卓也はびっくりして手が震え、タバコの灰が手に落ちた。「てめえ!」

卓也は途中で怒るのをやめた。アシスタントが意味深な目で卓也を見つめていたからだ。「やましいことをしていなければ、何も恐れることはないですよ」とアシスタントはチクリと言った。

卓也は言いたいことを飲み込み、タバコの灰を払い、アシスタントに白い目を向けると、一人でホテルの中へ入って行った。

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