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第9話

Author: カフェイン中毒男
「あらまあ」卓也は「やっちまったなあ」と言わんばかりの表情でしきりにチッチッチと軽く舌打ちし、イライラしてしまうほどうるさい。

逸平の頬に残った手形の跡を見ながら、卓也は首を傾げた。「逸平、これって……どこかの野良猫に引っ掻かれたの?」

野良猫?葉月がゴミでも見るような目で自分を見てたことを思い出すと、怒りが込み上げてきた。

逸平は卓也を見上げながら言った。「暇そうだな?仕事でもしてもらおうか?」

卓也は即座に口を閉ざし、ソファに座って頬杖をつき、唇を堅く結びながらも何か言いたげな様子で逸平を見つめた。

だが結局我慢できずに卓也は口を開いた。「まさか……葉月さんに殴られたんじゃないだろうな?」

逸平の手が震え、書類には不自然なインクの線が描かれた。

逸平は黙ったままだが、卓也の心にはすでに答えがある。

「マジかよ」卓也は長い息を吸い込んだ後にまた言った。「葉月さん、なかなかやるじゃないか」

「卓也」逸平はゆっくりと汚れた書類を脇にどかし、脅しを含んだ視線を卓也に向けた。「どうやらお前は本当に仕事がしたくてたまらないようだな」

「やめてよ」卓也は逸平のデスク前に歩み寄り、ニヤニヤしながらデスクの上に座り、へつらうような表情を浮かべた。

逸平は眉をひそめ、明らかに嫌悪の色を目に浮かべて言い放った。「消えろ」

「今日は本当に用事があって来たんだ」卓也はデスクから下りるどころか、さらに前のめりになった。

「本当のことを言うと、俺の会社で臨時のメイクアップチームが必要になって、葉月さんのスタジオがぴったりだと思ったから、直接一度話ができたらと思って」

「商談するなら直接本人に会いに行け」逸平は相変わらず書類から目を離さず、指先で机を軽く叩いた。

卓也はため息をついた。「だって君の妻だろ?俺たち兄弟みたいなもんだからさ、まずは君に相談するのが筋だろ」

卓也は意味ありげに眉を吊り上げて続けた。「それに、いきなり葉月さんに会いに行ったら、誰かさんが酷く嫉妬しちゃうんじゃないかと思って」

逸平は一瞬たじろぎ、パン、と書類を閉じると冷たい声で言った。「お前たちの問題だ。俺には関係ない」

卓也が机から飛び降りた。「言質は取ったからな。じゃあ今すぐ葉月さんに連絡するからね?」

逸平は再び下を向いて新しい書類に目を通した。「さっさと出て行け」

卓也はふらふらとオフィスを一周して言った。「はいはい、出て行けって言うなら出て行くよ。今すぐ葉月さんのところに転がっていきます」

卓也は横目で逸平を盗み見しながら、わざとらしい声で言った。「俺、可愛い葉月さんに会うの久しぶりだな〜。俺のこと恋しく思っているかな~」

逸平が猛然と顔を上げて卓也を見つめ、険しい目つきで言い放った。「卓也、お前、やる気か?」

卓也はただ軽口を叩いただけで、わざと逸平をおちょくりたかったのだ。逸平が怒るのを見て目的を達成すると、卓也はすぐさま逃げ出した。

逸平のオフィスを出るなり、卓也はスマホを取り出して文字を打ち始めた。

【めっちゃウケるわ〜。太一、聞いてくれよ。逸平が葉月さんにぶん殴られたんだ、顔にはっきりと手形がまだついてて、お前が見に来れないなんてもったいないわ】

【逸平にもこんな日が来るとはな、マジで爆笑だわ、さっき笑うのを我慢するので精一杯だったわ】

鮎川太一(あゆかわ たいち)がメッセージ通知を見て開くと、「おっと、逸平が嫁さんに殴られたのか」と呟いた。

さらに見ると、太一は笑い出した。こいつはなんてバカな男だ。

【お前、どこにメッセージを送ったか確認してみろよ】

人前で他人の悪口を平気で言えるような人間も珍しい。太一は感心した。

卓也はご機嫌で葉月のLINEを探しており、まずはメッセージを送ろうとしていた。

だが、太一からのメッセージを見て、卓也は完全に凍りつき、その場で声を荒げた。

「やばいやばい、これで本当に終わりだ」

卓也は先ほどのメッセージをグループトークに送ってしまい、時間が経過してるので、送信取り消しもできなくなっていた。

卓也は返事した。【はい死亡確定、もう連絡しないでくれ】

逸平も反応した。【……】

葉月が卓也からのメッセージを受け取った時、葉月はちょうど則枝と一緒にいた。

【葉月さん、ちょっとご相談したいことがありまして、今夜お時間ありますか?一緒に食事でもどうかと思いまして】

則枝が葉月のスマホを覗き込んで見ると、不機嫌そうな声で言った。「あら、あの野郎よくあなたに連絡できたわね」

則枝の目には卓也も逸平も同類で、どちらもろくなものではない。

卓也はクズの中のクズで、恥知らずの男である。

則枝はポテトチップスを食べながら続けた。「おべっかに下心あり。下心があるに決まってるわ」

葉月と卓也は先輩後輩の間柄だ。葉月の方が一つ年上で、学年も一つ上だ。

以前はみんな仲が良かったが、ここ数年は葉月と逸平の関係がこじれたせいで、卓也たちとも疎遠になっていた。

卓也から連絡が来たのは意外だった。

葉月は「用事があるんだろう」と言って、うつむいてスマホに向かって文字を打ち始めた。長いまつげがスクリーンの光に照らされ、目の下に影を落とした。

【どんな用?内容によって手伝えるかどうか決めるわ】

卓也の返信は速く、文章の端々に馴染みのある薄っぺらさが滲んでいた。

【絶対できます、葉月さんにできないことなんてないですよ!実は俺の会社で新しいプロジェクトがあって、半月ほど帯同してくれるメイクアップチームが必要になりまして。どうですか?もし引き受けて頂けるのであれば一度直接会って詳細をお話しします。絶対に損はさせませんので】

プライベートでの関係を抜きにしても、卓也と一緒に仕事をすること自体はそんな悪くない。卓也が報酬面でけちをつけないのは知っていたからだ。

則枝が覗き込み、鼻で笑った。「ちゃんとお金を出させるのよ、でなきゃお断りで」

葉月は苦笑いしながら卓也に返信した。

【わかった。でも今日はちょっと無理そう。都合のいい日を教えて、そこでまた詳しく話そう】

卓也は返事した。【了解です!葉月さん、来週の月曜はどうですか?】

葉月も反応した。【いいよ、じゃあその時に連絡するね】

城西市(じょうさいし)のとある高級マンションで、卓也はソファーにスマホを放り投げ、深く息を吐いた。

今回の新製品のプロモーションは卓也にとって重要で、やるなら最高のものに仕上げるつもりだ。

その時、浴室からバスローブ姿の女性が出てきた。素足で手織りのカーペットを踏み、水のしずくが彼女の鎖骨を伝って、胸元の谷間へと滑り落ちていった。

女性は卓也の背後にまとわりつき、香水とボディソープの甘い香りが卓也の鼻をくすぐった。「卓也さん、誰と話してたの?」

卓也は女が自分の首に巻きつけた手を払いのけ、「お前には関係ない」と言った。

女はその言葉に、怒っているのかふざけているのか分からない表情を浮かべ、声には甘えたような響きを込めた。「卓也さん、どうしてそんなこと言うの?私には関係ないなんて、メッセージばっかり返して、私のことは構ってくれないじゃない」

卓也は突然興ざめし、立ち上がって言った。「とっとと帰れ」

卓也は女に40万円を渡し、「金を受け取ったらさっさと帰れ。一人にさせてくれ」と言った。

金が手に入ったら、誰が卓也のことを気にかけるだろうか。女は素早くお金を受け取り、卓也に投げキッスをした。「卓也さん、ゆっくり休んでね。私はこれで帰るわ」

ドアが閉まり、卓也はようやくソファに腰を下ろし、タバコに火をつけた。

窓の外は真っ暗で、溶けきらない墨のように、一片の光も見えないほど暗い。

卓也は突然、逸平の左頬に残った平手打ちの跡を思い出した。

びっくらこいたぜ。堂々たる井上家の御曹司であり、井上グループの後継者にでさえも、女に平手打ちを食らう日があるなんて。

「何故そんな……」指先のタバコの火は揺らめき、卓也は苦笑した。

卓也のように人生を遊び尽くすこともできたのに、わざわざあの女にこだわり続けるなんて。

本当に残念なことだ。

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