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第11話

Author: カフェイン中毒男
朝日が窓辺に差し込む頃、葉月はすでにオフィスでスケジュール帳を確認していた。

スタッフがみんな揃うと、葉月は軽く机を叩いた。「ある案件についてみんなの意見を聞きたいの」

人気芸能人に会えると葉月が言うと、スタッフたちは目が輝かせ、一斉にわあわあと喋り出し、屋根が吹き飛ぶんじゃないかと思うほどだ。

「私が行く!」

「私も!私も行く!」

「私も行きたい!」

「私のことも忘れないで!」

「あー、行きたいけど、来週の予約がもう埋まってて、これ間に合うかな〜」

スタッフみんなが行きたがってた。なぜなら芸能人に会えるから、当然興味が湧くのだ。

ただ数人のスタッフは既に先の予約が詰まっていたため、この案件に参加する時間が取れるか心配していた。

「じゃあこうしましょう」葉月はスケジュール帳を閉じ、卓上カレンダーの日付を軽く指した。「案件は再来週からだから、来週水曜以降の予約は全部受付をストップしよう」

葉月はスタッフたちの期待の眼差しを見て思わず微笑んだ。「ちょっとブランド側と話してみるね。メイクの方向性をざっくりでも教えてもらえるか確認してみる。その上で、みんなそれぞれブランドのテーマに合わせてメイクを考えて、実際に仕上げてみて。それをまとめてブランド側に提出して、最終的に向こうがメイクを見て人選するって流れにしようと思ってるけど、どうかな?」

これが葉月が考え出せる最もフェアなやり方だ。

この案にスタッフ全員が納得した。実力勝負なら文句なしだ。

打ち合わせが終わった後、七海は急いで卓也のアシスタントに連絡し、葉月の案を伝えると、すぐに返事が来た。

女性向けの新作はエネルギッシュ系とインテリ系で、男性向けの新作は爽やか系と大人系がコンセプトだ。

ほぼ全年齢層をカバーできるラインナップだ。

葉月は一通り目を通し、七海に言った。「みんなに準備するように伝えておいて」

スタッフたちはみんな張り切っていたのか、週末に入る前には全員がメイクアップ案を提出した。葉月はスタッフたちの案を写真で卓也に送付した。

卓也から返信があった。【月曜日に選考結果をお知らせします】

【わかった】と葉月も返信した。

月曜日になると、卓也から選考結果が届いた。

葉月は選ばれたメイクアップ案を携え、スタッフみんなで打ち合わせをした。

葉月はタブレットをみんなに向けた。「みんな見えているよね?雨宮悦子、野上萌香、乃木清美(のぎ きよみ)、それに亀山舞(かめやま まい)、これがブランド側が最終的に選んだ人たちよ」

選ばれたスタッフは当然喜び、選ばれなかったスタッフはただ「あなたたちせっかく行くんだから、必ずサイン入りの写真をもらってきてね!」と頼むだけだ。

「それから、舞台裏の独占映像も撮ってきてね。超高画質で頼むよ!」

葉月は首を振りながらやれやれと笑った。「心配しないで、忘れないから」

あっという間に本番前日となり、葉月たちは卓也の会社でモデルたちとメイクのリハーサルを行い、スタッフとメイクの仕上がりや明日の注意事項を確認した。

会社から出たときには、すでに外は真っ暗だった。

葉月は凝った首を揉みほぐしながら駐車場へ向かい、車に乗り込んでようやく一息ついた。

スタッフから渡された資料を取り出すと、静かな車内には紙をめくる音だけが響いた。

今回の卓也はかなりの大盤振る舞いだ。起用された男性・女性スターはどれも今をときめく人気者ばかりで、残ったスチールモデルたちの中にも、経歴が素晴らしく優秀な人が何人もいる。

ところが、あるページをめくったとき、葉月の指先が突然止まった。

このページにいる女優を葉月は知っている。

葉月の誕生日兼結婚3周年記念日の夜に、逸平と一緒にトレンド入りして話題になったあの女性だ。

葉月は美しく魅力的な女性を見て、少し微笑み、それから次のページをめくった。

すべて過去の話だ。

翌日。

七海はメイクが得意ではなかったので、葉月自身を含めて計5人のメイクアップアーティストで卓也の会社に向かった。

葉月は今日、白いシルクのブラウスに、黒いロングスカート、そして黒のローファーを履いている。

紅い唇に白い歯、そして長い髪は無造作にまとめられ、数本の髪が白く細長い首筋に散り落ちて、いっそう柔らかな美しさを添えている。

卓也の会社の人々は、待ち時間の間に葉月を見かけると、集まってひそひそ話をした。

「あの美人は誰だ?」

「メイクアップアーティストみたいだよ」

「私も最初はモデルかと思ったわ」

「確かにきれいだね」

若者たちは自分たちがひそひそ話をしているところに、背後から卓也が近づいてくるのに気づかず、卓也を見た時はみんなびっくりしている。

「澤口社長、こんにちは」

卓也は葉月と若者たちを交互に見て、首を横に振った。「もう見るなよ、あの人は既婚者なんだから」

親友の幸せは俺が守る。誰にも葉月を狙わせない。

若者たちはそう言われて顔を赤らめたが、笑いながら言った。「いえいえ、ただきれいだなと思っただけ、他にやましい考えはありません。そんなこと考えれるわけがないですよ」

卓也は軽く鼻で笑った。「そうならいい」

そう言うと、卓也は葉月のところへ歩み寄って挨拶した。「葉月さん」

卓也の声は大きく、多くの人が声を聞くと卓也と葉月の方を見た。

葉月は少し困った表情で、「仕事場なんだから、井上さんって呼んでください」と言った。

卓也は気にしない様子で笑った。「どっちでもいいじゃん」

葉月は化粧台の上を片付けながら聞いた。「モデルたちはいつ頃到着するの?」

卓也は時計を見て、「そろそろ到着する頃です。もう少しだけお待ちください」と言った。

卓也は周りを見回し、七海がいないのに気づいて、思わず葉月に聞いた。「葉月さん、あのアシスタントの子は今日は来ていないんですか?」

葉月は細い眉をひそめ、探るような目で卓也を見た。「卓也、何を考えてるの?」

卓也は葉月の視線にまたしても気後れし、鼻先をこすった。「ただ聞いてみただけですよ」

葉月は鼻で笑った。「七海に手を出さないで。彼氏がいるんだから」

葉月にとって、卓也は友人としては最高だが、彼氏として付き合うのは、あまり周囲にお勧めできない。

卓也に関するこれまでの数々のスキャンダルを葉月も知っている。

「葉月さん、そんな言い方しないでくださいよ。本当に狙っていませんので。葉月さんのところの人に、そんなことできるわけないじゃないですか」

話の途中で、スタッフが走り寄ってきた。「モデルたちが到着しましたので、メイクの準備をお願いします!」

卓也はこれを口実に、逃げるようにして言った。「では葉月さん、よろしくお願いします。俺は先に行ってます」

午前中の撮影は順調に進み、冬物の4つのコレクションを撮り終えた。葉月たちもずっと撮影に付き添い、適時メイク直しをしていた。

悦子はとても興奮していた。昼休みにランチを食べながら、「見た?あの背が低めの男性モデル、顔が超イケメンでしょ!」と話していた。

七海は笑いながらからかった。「悦子さん、仕事をしに来たんですか?それともイケメンを見に来たんですか?」

悦子は眉を吊り上げて、ジェスチャーを付けながら返事した。「もちろん仕事もイケメンも両方よ!」

舞は人差し指を振りながら言った。「いやいや、あの背の低いのはダメ。黒い服を着てた背が高いイケメンの方がいいわ。あの人がスタイル抜群なのに気づかなかったの?」

清美も頷きながら言った。「そうね、私も舞に一票だわ」

「あらま、あなたたちってセンスがないわね」悦子は萌香の方を見て聞いた。「萌香、あなたはどれがイケメンだと思う?」

萌香は辺りを見回した。どれも自分の好みじゃないって言っていいのかな?

結局、萌香はずっと黙っていた葉月に話題を振った。「葉月さんに聞いてよ、私じゃなくて」

みんな一斉に葉月に目を向けた。

七海は考えもせずに口を開いた。「葉月さんに聞くのやめましょう。葉月さんの旦那さんである井上さんは今日いるモデルたちよりずっとイケメンです」

そう言うと、みんなの視線がまた一斉に七海に向いた。七海は言い間違えたことに気づき、目を見開いて葉月の方を見て、申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい葉月さん、別にわざとじゃないんです」

葉月は七海を見て、笑いながら七海の頬を軽くつねった。別に気にすることはない、七海の言ったことはある意味事実だから。

「大丈夫、大した話じゃないし。要するに、男のことで言えば、あなたたちより私の方がちょっとはいい思いをしてきたってことよ」

逸平は感情的になる面を除けば、確かに見栄えのするパートナーだ。

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