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あの日のあと、私は京央市を離れ、海外へ渡った。大学の授業は、思い描いていたとおり充実していた。新しいことを次々に学び、自分の力にしていった。修平は、もう会いには来なかった。ただ、メッセージだけは絶えず届いた。昔、私たちがどれほど愛し合っていたか、そんな話ばかりだった。楽しかった思い出で、私にしてきたことをなかったことにしようとしているのだ。うっとうしくなり、私は修平をブロックした。悠斗からは、毎週メールが届いた。学校の勉強、習い事、ゲーム。自分のことを、何でも書いてくれた。修平の話だけは、一度も出てこなかった。半年後、大学から家へ帰り、パソコンを開くと、差出人に心当たりのないメールが届いていた。【久しぶり。私のこと、覚えてる?】【無事に留学して、勉強を続けてるよ。あなたが言ってたとおり、恋愛はしなかった。結婚にも憧れてない。今は自分の翼で飛べるように、もっと力をつけたいんだ。自分の人生を自分で決められるって、最高だね!】【修平の傷は順調に治ってるよ。お父さんに頼んでお見舞金を渡してもらったし、大学を卒業できるように援助もしてもらった。あとは、修平がどんな人生を送ろうと、もう私には関係ないよ】元気な声が聞こえてくるような文章に、私は笑った。よかった。あの子は、私と同じ道を歩かずに済んだのだ。突然、玄関のチャイムが鳴った。扉を開けた私は、立ち尽くした。18年前の修平がいた。記憶の中と同じ白いシャツに、ゆったりしたパンツ。若い顔に、戸惑いがにじんでいた。若い修平は私を見つめ、すぐに目を赤くした。それでも、私を好きだという気持ちは隠しきれていなかった。目の前の修平は若くて、かっこよくて、今にも泣き崩れそうだった。かつて、心から私を愛してくれた人だった。あの頃の私が、この人を拒めなかったのも無理はない。私は少し口調を和らげて尋ねた。「何をしに来たの?」修平の唇が震えた。涙が頬を伝うと、修平は必死に拭った。「美緒、18年後の俺は、そんなにひどいことをしたのか?美緒の気持ちを裏切ったのか?」不安そうな声だった。私は手を伸ばして、その涙を拭った。修平がぱっと顔を明るくした。私は一歩、後ろへ下がった。「18年後のあなたが約束を破って、私を傷つけたの。本当に好きだったよ。でも、あなたへの
修平に連れられて着いたのは、懐かしい場所だった。リバーレジデンス。お金に余裕ができて、ふたりで初めて買った家だ。家の中は意外なほどきれいに片づき、家具もぴかぴかに磨かれていた。修平は、初めて取引先を案内したときのように緊張しながら、私に話しかけた。「美緒、覚えてるか?貯金を全部使って、この家を買ったんだよな。引っ越してきたとき、ふたりで泣いた。俺、お前を抱きしめて、これからもっと家を買って、もっといい暮らしをさせるって言ったんだ」私は何も答えなかった。修平は構わず、私をリビングの隅へ連れていった。そこには赤ちゃんの頃の悠斗の物が並んでいた。よく遊んでいたボール。はいはいしていた頃のベビーサークル。ふたりで描いた悠斗の絵もあった。私はひとつひとつを見ながら、当時のことを思い出していた。そのとき扉が開き、義母が悠斗を連れて入ってきた。義母は私をじろじろ見て、嫌みを言った。「離婚して、ずいぶん気楽になったじゃない。子どもの世話はしなくていいし、いいものは全部、自分のために使えるんだものね」義母はやつれていた。頬が以前よりたるんで見えた。修平は慌てて義母を制し、向こうへ行ってくれと言った。修平は悠斗をそばへ引き寄せた。「この家、覚えてるか?お前が3歳のとき、新しい家へ引っ越したんだよ。ほら、これはママが描いてくれた絵。こっちは、パパと一緒に組み立てた車のおもちゃだ」私は、修平が悠斗を連れて部屋を回るのを見ていた。悠斗は、ずっと無表情だった。最後に、修平は悠斗の前にしゃがみ、期待を込めて尋ねた。「ママは海外へ勉強に行くんだ。寂しいだろ?一緒にいてって、悠斗からも頼んで……」言い終わらないうちに、悠斗は首を横に振った。「ママはいらない」誰も何も言わなくなった。修平は顔色を変え、怒鳴った。「何をばかなこと言ってるんだ!」修平は怒りを抑えきれなかったのか、悠斗を強くひっぱたいた。乾いた音が部屋に響いた。悠斗はよろめいたが、ソファの端をつかんで踏みとどまった。顔をこわばらせたまま、何も言わなかった。怒りで顔を真っ赤にした修平を見て、私はかつての自分を思い出した。あの家の人たちに追い詰められ、我を忘れていた頃の私に、よく似ていた。悠斗の頬を見て胸が痛んだ。それでも、修平には冷ややかな
ふたりの間で、会話が途切れた。私は静かに笑い、昔の修平と同じように、どうでもよさそうに答えた。「だから?悠斗はあなたが育てるんでしょう。私が会いに行くかどうかが、そんなに大事?私は忙しいの。あなたに付き合ってる暇はないよ」修平は体をこわばらせた。かつて自分が言ったのと同じ言葉だと、気づいたのだろう。修平は複雑な表情を浮かべ、ようやく私を引き止めるのをやめた。私は振り返らずに、その場を離れた。それからは、目の回るような毎日だった。何年も家のことを中心に暮らしてきたので、学び直さなければならないことがたくさんあった。もうすぐ40歳になるのに、若い頃のように、やりたいことが次々と思い浮かんだ。留学して、もっと勉強したい。自分の仕事で、もう一度思いきり挑戦したい。私は海外の大学に再び出願した。それからも新しい仕事を引き受け、案件を進めていった。学費だけでなく、向こうで暮らしていくお金も必要だった。7年前、会社を辞めたときの退職金と貯金は、海外の投資商品に回していた。かなりの額だったが、修平には話していなかった。専業主婦だった7年間も、修平から生活費としてお金を受け取っていたし、もらった服や宝飾品も、家を出てからすべて売って現金に換えた。幸い、この3年で投資はかなりの利益を生んでいた。2か月後、海外の大学から合格の知らせが届いた。うれしくて、私は留学が決まったことをSNSにアップした。【今からでも、遅くない】その夜、仕事を終えて帰ると、マンションの前に修平がいた。何に悩んでいるのかは分かっていた。美咲が去る前にした投稿の影響で、会社の株価が下がり、古参の幹部から不満の声が上がっていたのだ。近くで見た修平は、ずいぶん痩せていた。以前は体に合っていた服が大きく見え、誰も手入れをしなくなったのか、しわだらけだった。修平の目の下には、くっきりとくまができていた。それでも私に気づくと、ぱっと顔を明るくした。「美緒、今帰りか」修平は、すっかり元気になった私を見つめた。少し言いよどんだあと、思わず口にした。「最近、きれいになったな」私は皮肉な笑いをこらえた。今日の黄色いロングワンピースだって、前から何度も修平の前で着ていたものなのに。私が答えないでいると、修平は気落ちしたように言った。「投稿を見
あの日から、修平はまた私の暮らしに入り込もうとした。修平は、付き合い始めた頃のように、ひっきりなしにメッセージを送ってきた。【美緒、悠斗が今回のコンテストで金賞を逃した。成績も落ちてる】【母さんに悠斗の世話を頼んだんだが、あいつは頑固で、母さんとぶつかってばかりだ。俺も疲れたよ】【今日、会社で食べた飯、味気なくてさ。お前が作る肉じゃがが食べたくなった】【お前が出ていってから、何もかもうまくいかない】【美緒、会いたい】13年間、私はこんな言葉に縛られてきた。気の滅入るような暮らしから抜け出して、やっと日の光を浴びられたのだ。もう、あの暮らしには戻りたくなかった。私は無事に入社し、販売促進の企画を提案して、初めて仕事を受注した。昔の同級生に褒められ、ふと思った。家の中に閉じこもっていたあの年月は、なんてもったいなかったのだろう。仕事を終えたときには、夜9時になっていた。会社を出たところで、修平とばったり会った。修平は、私の好きだったグレーのシャツに白い靴を合わせ、腕には私が選んだ金の時計をつけていた。ろくに休めていないのか、疲れた様子で眉間を押さえていた。認めたくはないけれど、修平は今も顔だけはよかった。18年もの間、この顔を見ていられたのだから、何もかも無駄だったわけではない。「こんな時間まで働いてたのか?」修平は私を見て、一瞬ぼうっとしたようだった。退屈で息の詰まるあの家を出てから、私は元気に暮らしていた。以前のような、疲れ切った自分ではなくなっていた。修平はすぐに眉をひそめた。心配しているような口ぶりだったが、その言葉は耳に障った。「離婚するときに金は渡しただろ。こんなに無理して働くことないじゃないか。俺とやり直せば、俺の財産はお前のものでもあるんだぞ」私は背筋を伸ばし、修平をまっすぐ見た。「自分の力を生かして働いて、稼ぎたいの。それの何が悪いの?」修平は、私には何もできないと思い込んでいる。見下すのが、もう当たり前になっているのだ。「お前に無理をしてほしくないだけだよ」私はあざけるように笑った。「白々しいこと言わないで。気持ち悪い」病気で入院しても気にかけてくれなかった人が、今さら何をしても、心配しているふりにしか見えなかった。私は相手にせず歩き出そうとし
驚きを隠せない修平の顔を見ても、私はばかばかしいとしか思えなかった。低く雷が鳴り、修平は我に返った。私をじっと見つめたあと、自分をあざけるように笑った。修平は今になって、まだ私を愛しているのだと気づいたのかもしれない。それが何になるのだろう。愛されていようがいまいが、もうどうでもよかった。そんなことに縛られる必要は、もうなかった。雨が激しく降り始めた。修平は血走った目で私を見て、両肩を強くつかんだ。「美緒、ふたりで何を証明したかったんだ?昔も今も、俺が愛してるのはお前だってことだろ?だったら、別れる必要なんかなかったじゃないか!」私は冷たく笑い、修平を力いっぱい押しのけた。「私を愛してる?好きなのは、自信があって、思ったことをはっきり言えた頃の私でしょう。その私を、13年かけてすり減らしたのは、あなたじゃない!あなたが好きだったのは、いつだって、あんなふうに生き生きしている私なのよ!」私の声は、だんだん大きくなっていった。何年もこらえてきた悔しさを、全部ぶつけてしまいたかった。「私を見下して、傷つけて、家政婦みたいだってばかにしたくせに。私がしてあげることは、全部当たり前に受け取ってた!」修平は慌てて言い訳をした。「違う。美緒、離婚を言い出したのは……昔のお前を好きになったからなんだ」笑わせないでほしい。「愛してるなら、どうして私のおなかの傷や妊娠線を見ようともしないで、気持ち悪いなんて言ったの?私が病気になったときだって、治療費は出してくれたけど、裏ではさっさと財産を隠してたよね。私に死んでほしくなかったんでしょうけど、死んだあとでお金のことで揉めるのも嫌だったんでしょう?家事も仕事も子育ても、何もかも私に押しつけて。私がどれだけ疲れてたか、分かってる?それで、愛してるって言えるの?」修平は少し顔色を変えた。それでも、まだ言い返してきた。「結婚したら、女はみんなそうだろ。なんでお前だけ我慢できないんだ?放っておいたのは悪かった。これからは変わるよ。でも、もう分かっただろ?俺がずっと愛してたのは、お前なんだ」私は目を閉じ、手のひらに爪を食い込ませた。よくも、そんな言い方ができる。もう一度修平を見ても、愛しさなど少しも感じなかった。ただ冷めきっていて、恨みだけが残っていた。「自分で
修平は急いで去っていった。美咲とのデートへ向かったのだ。ふたりがどう過ごしたかは、美咲が毎晩、細かく教えてくれた。もうすぐ40歳になる修平は、初めて恋をした少年のようだった。いいものは何でも美咲に贈っていた。高級レストランへ連れていき、最新のブランド品を買い、遊園地を丸ごと貸し切ったことさえあった。それでも美咲は帰ってくるたび、疲れた顔で口をとがらせた。「修平とのデートって、本当につまらない。年を取ると、みんなあんなに説教くさくなるの?よく我慢できたね」かつては修平の何もかもがよく見えた美咲も、今や誰よりも彼を嫌っているようだった。その間、私は自分の生活を立て直していた。定期検査を受け、体を動かし、仕事に戻るために専門分野の勉強もやり直した。専業主婦だった頃も、ただ修平にお金をもらって暮らしていたわけではない。昔の同級生に仕事を紹介してもらい、修平には黙って働いていた。やがて、希望していた会社から採用の連絡が来て、病院でも検査結果を受け取った。ここ数年は再発もなく、今回の検査でも異常は見つからなかった。私はうれしくて、すぐに美咲へ知らせようと家へ帰った。部屋の明かりはついていなかった。窓辺に座る美咲の体が、月明かりの中で少し透けていた。美咲は私を見ると、うれしそうに笑った。「私、もう元の時代に帰るね」私は涙がこみ上げた。私がそばへ行くと、美咲はいたずらっぽく笑い、話し始めた。「今日、あのばか、人前でプロポーズしようとしたんだよ。酔っ払って、私には愛してるって言うくせに、あなたの悪口ばっかり。『俺がいなきゃ、どうしようもない役立たずだ。もう誰にも愛されない』だって。あなたは私と顔が似てるけど、ろくな妻じゃないし、今じゃ息子のことも愛してないって言うんだよ」私は言葉を失った。悠斗を愛していないわけがない。病気になったときも、私はひとりで入院も手術も耐え抜いた。あの子を残して死ぬわけにはいかなかったからだ。美咲は鼻を鳴らした。「思いきりひっぱたいてやったよ。それで言ったの。私は18年前から来た美緒だって。そしたら、幽霊でも見たみたいな顔してた。『あんたって、結局、何度でも私に惚れるんだね』って笑ってやった」美咲は、自分がSNSに載せた投稿を見せてくれた。【柏木修平社長、若い女性イン