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第4話

Author: 雨模様
遥が目を覚ますと、薬と白檀が混じったような独特の匂いが鼻をついた。

そこは屋敷ではなく、神宮寺家が経営する個人クリニックだった。

膝は長時間正座していたせいで感覚がなく、手首もまるで一度分解されて組み直されたかのように痛む。

ドアが少しだけ開いていて、廊下の話し声が聞こえてきた。

「遥さん、私のせいだって思うでしょうか?」紗絵が泣きそうな声で言っている。「でも、わざとじゃないんです。それに、彼女の体が弱ってるって聞いたから、栄養をつけてほしくて……」

朔が低い声で答えた。「気にするな」

その直後、勢いよくドアが開いた。

先に朔が入ってきた。いつも通りの隙のないスーツ姿で、ネクタイの結び目一つ乱れていない。

後ろには、保温ジャーを手にした紗絵がいる。目は赤く腫れ、いかにも悲劇のヒロインという佇まいだ。

「遥さん。無事で良かったです」と言いながら、紗絵は恐る恐るジャーを置く。「お腹空いてるかなって思って、鯉のスープを作ってきたんですけど……」

遥は紗絵の顔すら見たくないと思っていた。

しかし、漂ってきた匂いに、一瞬で遥の顔色が変わる。

「今、なんのスープって?」

紗絵はきょとんとして答えた。「鯉ですよ?裏庭の池に白い錦鯉が泳いでたじゃないですか。誰も世話してないみたいでしたし、ただの観賞用かと思って、調理してもらったんです」

その瞬間、遥の頭の中で何かが爆発した。

あれは、ただの鯉ではない。

その白い錦鯉「雪丸」は、母親の北条香織(ほうじょう かおり)が亡くなる前に遺してくれた、唯一の生きた形見だった。

神宮寺家に嫁ぐ時、身の回りのものをほとんど捨てた中で、雪丸だけは連れてきて、庭の池で大切に育てていたのだ。

どんなに蔑まれ、離婚を考えた日々でも、雪丸だけは見捨てたことはなかった。

それなのに、紗絵は雪丸を……

遥は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。

「紗絵!もう一度言って!」

紗絵は脅えたように半歩退がり、目をさらに潤ませる。

「は……遥さんのものだなんて知らなくて……私はただ、あなたの体が心配で……」

「いい加減にしろ」朔が眉をひそめ、紗絵を背後に庇う。「鯉一匹ごときで。紗絵は好意でやったことなんだから、そんな言い方をするな」

鯉一匹ごとき、か。

紗絵を庇う朔の姿を見つめ、遥は胸が張り裂けそうだった。

朔はいつも、紗絵の偽りの無垢さを見るだけで、遥が何を失ったかなんて見えていない。

「あれは母が遺してくれたものなの!」遥の声が震える。「朔、あれはただの鯉で片付けられるものじゃないんだから!」

感情を抑えきれなくなった遥は、枕元にあったまだ湯気の立っているスープを力任せに投げつけた。

紗絵が悲鳴を上げ、反射的に顔をまもる。

スープが紗絵の手の甲にかかり、皮膚が赤くなった。

クリニック内が騒然とする。

すぐに医師が駆けつけ、手当を始めた。

手を押さえて泣き震える紗絵が、最初に出した言葉は――

「跡にならないですよね?明日の茶会では、おばあさんへお点前を披露する約束をしているんです……」

傷を見た医師は、少し困った表情で告げる。

「火傷はひどくないですが、傷は目立つ位置にあります。もし大切なお茶会なのだとしたら、袖が長めの着物をお召しになって、手元を隠すしかないですね」

紗絵が、上目遣いで朔を見つて言った。

「でも、おばあさんが用意してくださった着物じゃ、手が隠れません……」

朔はしばらく沈黙した後、冷徹な目で遥を見下ろした。

「お前が持っているあの白い着物を貸してやれ」

遥の体は凍りついた。

「何て?」

「明日の茶会は、紗絵がお前の代わりに出るから」

朔の声は淡々としていた。「お前が傷つけたんだ。当然の責任だろう。

それに、あの着物ならお前に合わせて作ってあるから、小柄な紗絵が着れば、傷も隠せるだろう。お前の母の形見だから、質もいいし、紗絵によく似合うはずだ」

あれは、香織が最期に残してくれた形見。

遥の卒業祝いに、香織が自ら生地を選んで仕立ててくれた加賀友禅の着物。

神宮寺家に嫁いでからも、汚すのが怖くて袖を通せなかった大切な着物。

それを、紗絵の火傷隠しに使う?

遥には、それが狂気の沙汰にしか思えなかった。

「渡すわけないでしょ?」

遥が布団を跳ね除けて起き上がろうとすると、朔は迷いなく遥の手首を掴み上げた。

「いい加減にしろ、遥」

「離して!母が残してくれた鯉を煮ただけじゃなくて、母の形見まで差し出せっていうの?朔、何でそこまで……」

遥を睨んでいた朔の瞳の奥に、一瞬複雑な感情が揺れたが、それはすぐさま暗くなった。

「先生、彼女に鎮静剤を打てください」

遥の思考が止まる。

まさか、朔がここまで非道になれるとは……

「朔、本気で――」

言葉の途中で、看護師たちに腕を押さえつけられた。

冷たい針が皮膚を突き破り、ゆっくりと液体が入り込んでくる。

意識が薄れていく中で、最後に聞いた朔の冷たい声――

「大丈夫だ。明日には全てが元通りになってるから」
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