Masuk神宮寺遥(じんぐうじ はるか)は3年間、神宮寺朔(じんぐうじ さく)を愛してきた。 朔のために自分を押し殺し、何でも受け入れることを学び、神宮寺家の古い掟や理不尽な扱いをすべて我慢してきた。 しかし、遥は知ってしまったのだ。 他の女の身代わりにするために、朔が自分を娶ったことを…… 朔は義理の妹を守るために、一族が自分を侮辱するのだって黙認した。 遥のプライドと未来は、すべて朔の手で奪い去られたのだった。 だから、遥は朔に見切りをつけた。 離婚届を出し、屋敷を出た遥が、二度と振り返ることはなかった。 初めの頃、遥が家から出ていたことを朔は全く気にしていなかった。 いつものように機嫌を損ねているだけで、自分が少し甘やかしてやれば、遥はまたいつも通り戻ってくると思っていた。 しかし、しばらくすると、遥は生き生きと生活し、自分ではない他の男に微笑み、仲睦まじそうにしているのだった。自分を見てくれない遥を前に、朔はとうとう正気を失ってしまう。 朔はプライドを捨て、何がなんでも遥を取り戻そうとした。 しかし、遥にとってそれは滑稽極まりなかった。 今さら向けられる愛情など何の価値もない。朔には、報いを受けることだけが相応しいのだから。
Lihat lebih banyak会場が、一瞬で静まり返った。遥は立ち止まり、カメラを見つめて、小さく口角を上げた。「いいえ」彼女の答えは、迷いのないものだった。「私が今持っているすべてのものは、彼から離れた後に、自分の手で掴み取ったものですから」そう言い残し、遥は歩き出した。その言葉は、すぐに東都中に広まった。朔はあの冬の日と共に、過去の人となったのだ。それ以来、神宮寺家が起こしたスキャンダルが話題に上ると、必ず遥という名前も語られるようになった。ショーが終わった後、会場の外で一人ぼんやりと立ち尽くしていた朔の姿が目撃された。彼が何を思っていたのか、知る者はいない。しかし、かつて全てを手中に収めていたあの男が、最終的には一番大切な人を、自らの手で失ってしまったことは誰の目にも明らかだった。半年後、翠嶺市に初雪が降った。紅椿は軌道に乗り、F国で行われる展覧会への参加の話まできていた。眞知子は布選び、修司は海外からの電話に対応など、仕立屋は新しい冬季コレクションに向けて活気づいていた。そんな中、遥は2階の窓際で、雪景色を眺めていた。1年前。別邸の窓から神宮寺家の屋敷内を車が行き交うのを眺め、どこからか聞こえてくる笛の音や笑い声に耳を澄ませていたことを、ふと思い出す。あの時は、あと少しだけ我慢して、あと少しだけ自分を殺せば、いつか誰かが見てくれると思っていた。今思えば、本当に馬鹿みたいだ。あの時は、一生そこから抜け出せないのだと諦めていた。しかし、今あの日々を振り返っても、心は微塵も痛まない。眞知子が温かいお茶を持ってきて、「次の春は、F国に行ってみない?」と笑顔で尋ねてきた。遥はお茶を受け取って、静かに頷く。「行きましょう」「F国のあとはどうする?」雪化粧をした街並みを見下ろしながら、遥は穏やかに微笑んだ。「それはまたその時考えましょう。何はともあれ、この先の人生は自分で歩いていけますから」その時、階下が少し騒がしくなった。新人が駆け上がってきて、「遥さん宛に花が届きましたよ」と小声で言った。遥が降りてみると、送り主不明の白いサザンカが置かれていた。カードには、たった一言だけ。【幸せになってくれ】その力強い字は、最期になってようやく心を通わせようとした、あの人なりの不器用
朔が顔を上げると、明かり灯りに照らされた、驚くほど穏やかな遥の表情があった。それでも朔は、何も言えなかった。これから遥が口にすることが、自分への最後の言葉だと分かっていたから。「神宮寺家へ戻れなんて言わないで」遥が静かに言った。「あなたが言わなければいけないのは、3年前の私に……茶道や着物を必死に学び、雪の降る夜にもあなたを追いかけたあの時の私に……結婚なんかするなってことじゃないかしら。でも、彼女はもう、東都の雪の中に消えていったの」軒下を吹き抜ける風が、朔の肩に雪を落とす。朔は何も言い返せずにいた。遥は彼を見下ろし、穏やかな声で続ける。「あなたにだってあなたが受けるべき報いがあるの。紗絵は刑務所へ行ったし、あなたの祖母も一生、神宮寺家の嘲笑の的になったことを抱えて生きていく。蓮だって、火の車になった家業を背負って生きていかなきゃならないんだから。そして、あなたは――」遥の瞳に、かすかな嘲笑が浮かんだ。少しだけ口角を上げる。「あなたは生き続けるの。私たちが暮らしていた家が焼けた跡地を見つめて、何度も思い出すはず。私が何度もあなたにやり直す機会を与えていたことをね。これで十分だって私は思ってる」そう言い終えると、遥は手にしていた印鑑を握り締め、一歩後ろに下がった。「もう、神宮寺家と私には何の関係もない。そして、もう二度と誰かのために自分を殺すことだってしない」遥が踵を返すと、中では修司が彼女のために暖かい部屋の扉を開けて待ってくれていた。遥は振り返らなかった。暖かな灯りと着物、そして笑い声に満ちた、自分のための場所へと歩き出す。そこには神宮寺家も、家訓も、彼女を支配しようとする者もいない。朔はただ、雪の中でいつまでも頭を下げたままだった。翌朝、東都から最終的な報告が届いた。離婚届は既に受理されている。住民票も移動した。遥名義の信託や紅椿の運営権は、正式に独立を果たした。眞知子が暖かいお茶を差し出しながら、微笑んで尋ねた。「後悔してる?」遥は窓の外に舞う雪を見つめ、胸元の紅椿のブローチにそっと指を添えた。「いいえ。ようやく本当の自分になれましたから」遥がそう言い終わると、外の雪も静かに止んでいった。振り返ることもないし、悔いもない。朔には
紅椿が正式に再始動したその日、翠嶺市は快晴だった。雪は陽の光を反射して輝き、空気も澄み渡っていた。遥が入り口でテープカットをするそばには、修司と眞知子がいた。彼女がテープを切った瞬間、周囲からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。同じ頃、東都からもいくつかの知らせが届いていた。紗絵は、放火、傷害、文書偽造、そして虚偽の訴えで正式に起訴された。久美子は、隠居してからというもの病気がちになり、二度と神宮寺家へは戻れなさそうだと聞く。勲は金銭トラブルで取締役会から追放された上に、愛人にも最後の資金を持って逃げられたらしい。そして、会社の前で騒ぎ立てる残された二人の愛人との子供が新たな笑いものになっていた。すべてが、本来あるべき姿へと崩れていく。かつて高みにいて、その地位にあぐらをかいていた人々は、次々とその座を失い堕ちていった。しかし、これらを聞いても遥はただ頷くだけだった。喜ぶこともなく、感慨に浸ることもない。ようやく舞台の幕が下りたのを見たような気分だった。夜、仕立屋では身内を集めての祝賀会が開かれた。皆が夜遅くまで盛り上がる中、眞知子が客の対応へ回りにいくと、修司が小さな箱を遥の前に置いた。「開業祝いです」遥が開けてみると、中には古い銀製の、紅椿の花をかたどったブローチが入っていた。「母が遺した物ですか?」と遥は尋ねる。修司は頷いた。「紅椿が再出発する時、本当の持ち主に渡してほしいって、君のお母さんが言っていたんです」遥はそのブローチを襟に留めると、指先で少しだけ触れ、ふわりと笑った。「ありがとうございます」遥が顔を上げると、雪の中に佇む人影が目に入った。やはり、それは朔だった。スーツ姿ではなく黒の長めのコートを纏い、肩に雪を積もらせている。まるで東都からずっと凍えながら来たかのように見えた。視線を追った修司は何も言わず、ただ鍵を遥の手に渡した。「自分で決めた方がいいと思います。扉を開けるにせよ、開けないにせよ、今の君には断る権利だってあるんですから」鍵を握りしめ、遥はドアへと歩み寄った。一枚のガラス扉を隔て、朔と数秒間だけ視線を合わせた。そして、遥は扉を開く。冷たい風が、一気に室内へと吹き込んできた。遥を見つめる朔の喉元が動く。「これを
神宮寺家の一件が世間を騒がせると、勲はようやく事態の重さに気づき、動かざるを得なくなった。彼は当初、神宮寺家との政略結婚の威光にすがって、いくつかのプロジェクトを繋ぎ止めようと画策していたが、会議の結果を受け、多くの取引先が北条家の帳簿を厳しく精査し始めた。さらに困ったことに、遥が香織の遺した資産の流れを徹底的に調査し、勲が裏で資金を横領していた証拠まで突き止めていたのだ。勲は遥と直接会い、話をするしかなかった。待ち合わせ場所は、静かな料亭だった。遥が着いた時には、もう勲が待っていた。前回会った時よりも随分老け込んでいるような気がした。「まあ、座れ」と、勲は言った。「俺たちは親子なんだから、こんな争いをする必要はないだろう?」遥は勲を見て、何だか滑稽な気分になった。「親子?前に電話で怒鳴った時とは、随分違うみたいだけど」そう言い返され、勲は言葉に詰まった。それでも強気な態度を保つ。「香織が遺した仕立屋と株はもうお前のものになったんだ。それでもう文句はないだろ?だから、会社の帳簿まで調べるのはやめてくれ」「なんで?」遥は腰を下ろすと、静かに問いかけた。「このまま調べ続けると、あなたの愛人と、その子供たちにまで火の粉が飛ぶから?」勲の瞳に険しさが走る。「遥!」しかし、遥は淡々と一枚の書類を突き出した。中身は、あの愛人がペーパーカンパニーを使って何年も資金を搾り取っていた詳細なリストだった。「今日来たのは、話し合うためじゃないから。北条家を助けるつもりはないし、お母さんから奪ったものは全部取り返すよって言いにきただけ。それと、もう二度と父親っていう立場で私を呼び出さないでね」席を立つ前に、遥は最後にもう一度だけ勲を見た。「昔、私が目障りだって言ったよね?だから、願い通り、いなくなってあげる。これからは北条家の尻拭いなんて一切、するつもりはないから。後悔しないでね」遥はそれだけ言うと、部屋を出た。後ろから勲が何度も名前を呼んでいたが、遥が振り返ることはなかった。外に出ると、東都の冷たい夜風が顔を撫でた。何だかか、胸のつかえがスッと取れたのを感じた。別れがたい訳ではない。ただ今まで、相手のことをちゃんと理解していなかっただけなのだ。少し離れた車の中で、朔は窓越し