家に帰ると、綾瀬陽翔(あやせ はると)が花束を抱えて、笑顔で私を出迎えた。
「サプラーイズ!これ、君のために用意したプレゼントなんだ。気に入ってくれるといいな」
私は黙ってその花を受け取り、小さくうなずいた。
思ったよりも淡白な反応に、彼は少し驚いた様子だったけど、すぐに態度を切り替えて得意げに最後の料理をテーブルに運んできた。
……だけどその期待に満ちた視線を見て、私は自然と笑みを引っ込めた。
彼の元カノは、とにかく辛いものが好きだった。
私はずっと薄味派で、陽翔と付き合ってからは、彼もそれに合わせて辛い料理は避けてくれていた。
でも、最近はなぜか、無意識にこういう辛い料理ばかり作るようになった。
鍋の中から取り分けたモツを見つめながら、私は唇を引き結ぶ。
「……知ってるでしょ。私、辛いのダメなんだよ」
彼はあわててお皿を脇に避けながら、苦笑まじりに謝ってきた。
「ごめん、忘れてた。俺が悪い」
「今月で、もう九回目だけどね」
私の声に、彼の目にほんの少し罪悪感が浮かんだ。
「最近仕事が忙しくてさ……物忘れもひどくなってて。ちょっとだけ、許してくれないか」
そう言って彼はポケットから小さな箱を取り出し、中には細いブレスレットが入っていた。
それは、二年前に私がネットのカートに入れたまま放置していたやつだった。
「誕生日プレゼント。ずっと欲しがってたよね?」
だけど、遅れて届いたプレゼントは、もう心を動かす力を持っていなかった。
私はそのブレスレットに一瞥もくれず、横にぽいと置いた。
「ありがとう。でも、先に食べよう」
冷めきった私の態度に、彼の我慢も限界を迎えたらしい。
陽翔は苛立ったようにネクタイを引っ張りながら言った。
「もういい加減にしてくれよ。君を喜ばせるために、俺はこれ以上どうしたらいいんだよ?」
前なら、この一言で泣いてたと思う。
「なんでそんな言い方するの」って拗ねて、責めて――それが私だった。
でも今は違う。
あの日から私は、ひとりで全部、受け止めるようになった。
――彼が浮気していたという事実さえ。
二十七歳の誕生日のことだった。
サイドテーブルの引き出しを開けて見つけた、あの細くて上品なレディースリング。
胸の奥を叩き割られるような、眩しいほどの喜びが込み上げた。
きっと陽翔は、あの時プロポーズで指輪を用意できなかったことを、埋め合わせしようとしてくれたんだ。
あの頃の彼は、海辺で片膝をつき、真剣な眼差しで缶のプルタブを私の薬指に通した。
「もう少しだけ待ってて」って、
「いつか絶対に成功して、君に一番いい、一番高価な指輪を贈るから」って――そう言ってくれた。
あれから数年。
ふたりでたくさんのものを手に入れたのに、あの約束の指輪だけは、まだ私の元に来ていない。
その夜、私はうきうきしながら食卓を整えた。
人生初めての手作りケーキも頑張ってみた。
だけど――
料理は冷めて、ケーキのクリームは溶け出して、テーブルの上でぐしゃぐしゃに広がっていった。
その頃の彼は、荷物をまとめるので手一杯で、私に一度も目を向けなかった。
「急な出張だから、晩ご飯は好きにしてくれ」
それだけ言って、さっさと玄関のドアを閉めた。
……そのときの彼の背中からは、抑えきれない喜びと期待が滲み出ていた。
――彼は、あの指輪を持っていった。
つまり、それは私へのサプライズなんかじゃなかったんだ。
つまり、彼は――私の誕生日すら忘れていたんだ。
スマホを手に取り、なんとなくSNSを開いた。
そして、橘優奈(たちばな ゆうな)が投稿した写真を見つけた。
場所は隣町の高級ホテル。
花火の下で指を絡めるふたり。
彼女の指には、私が見つけたあのリングが――
【十八のときの約束、やっと叶ったね。ぐるっと回っても、ずっとあなたはそばにいてくれた】
キャプションがそう語っていた。
画面をなぞる指が、どんどん下に滑っていく。
過去の記録、思い出の数々。
私の身体から、温度がすうっと引いていった。
――ふたりは、ずっと前からまた繋がってたんだ。
橘が帰国した、あの日からずっと。
そして今、陽翔は橘と一緒に――
花火を見上げて、手をつなぎ、口づけを交わし、もしかしたらそれ以上のことまで……
自分に言い聞かせた。
――落ち着いて、冷静にならなきゃ。
誰かの裏切りで、自分まで壊れてしまうなんて、そんなの絶対にいやだ。
涙を拭いながら、私はリビングの大きな窓の前に座り込んだ。
夜の静けさに包まれたまま、ずっと、ただ時間が過ぎるのを待った。
そして朝――
顔に太陽の光が差し込んできたとき、不思議なほど心が穏やかになっていた。
……もしかしたら、あと少しで、本当に陽翔のことを手放せるかもしれない。
……
黙ったままの私に気づいたのか、彼は声のトーンを落として話しかけてきた。
「梅香(うめか)、夫婦ってさ、たまにはケンカするくらいがちょうどいいんだよ。行きすぎなければ、いいスパイスになる。だけど……君もちょっと、落ち着いた方がいい」
「……別にケンカしたいわけじゃない。ただ、いろいろ考えて、整理がついただけ」
そう言いながら、私は自分の食器を片付けて、玄関に向かった。
「もう行くのか?どれだけ準備したか知ってるのか?」
もちろん、知ってるよ。
だって私も、あの日、同じように用意してたから。
私は、もう笑ってごまかすことなんてできなかった。
だから淡々と伝えた。
「今日はおつかれさま。でも、私も仕事でちょっと忙しくて。ごめんね、一緒にはいられないの」
それは嘘じゃなかった。
本当に、大事な話があったから。
私は車を走らせ、上司に直接会いに行った。
本社での研修チャンス――それを、もう一度自分の手で掴みに行こうと決めたのだ。
書類に目を通していた上司は、思わず手を止めて顔を上げた。
声にも驚きが滲んでいた。
「……好井(よしい)くん、あの研修は二年間もかかるんだよ。本当にいいのか?君、前にも何度か断ってただろ?家庭のことを理由にして……今回の決意、本気なんだね?」
私は即答した。
「はい。じっくり考えました。今度こそ、自分のために行きたいんです。もう後悔はしたくありません」
半年前、本社から数人の研修枠が降りてきたとき、私は真っ先に候補に上がった。
上司はずっと私の能力を評価してくれていて、さりげなく何度も後押ししてくれた。
研修を終えれば、次期マネージャーは確実だとまで言われていた。
もちろん、それを断る理由なんて、本当はなかった。
でも、あのとき――
私はすぐに陽翔の顔を思い浮かべてしまった。
彼は幼い頃に両親を亡くし、祖母に育てられた。
ずっと、人一倍強くて、だけど……どこか脆い人だった。
愛されることにも、愛することにも、ずっと不器用で臆病だった。
私が彼を支えなければって、ずっと、そう思ってたんだ。
陽翔は、まだ幼い頃に両親を交通事故で亡くした。
それ以来、彼は祖母とふたり、細々と年金で暮らしていた。
彼と初めて出会ったのは、中学の頃。
席替えで彼が私の前の席に来た日から、なんとなく視線が彼に向くようになった。
みんなが楽しそうに「今日の給食なにかな~」なんて話している中、
彼だけは教室の隅っこで静かに問題集を開いて、冷たくなったパンをかじっていた。
その華奢な背中が、なぜだか胸に引っかかって、私は無性に声をかけたくなった。
彼の机の上に置かれた分厚い問題集を指さして、こう言った。
「ねえ、私の家庭教師、やってみたりする?」
彼はきょとんとして、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った瞬間、私は封筒を差し出した。
「返事がなければ、それでOKってことにするからね。今週分の授業料、入ってるよ。
……あ、でも言っとくけど、私、基礎ボロボロだから覚悟してね」
彼はしばらく黙ったあと、静かに封筒を受け取った。
それからというもの、私たちは毎週末を一緒に過ごした。
彼は私の隣で真面目に勉強を教えてくれて、私はその横顔をこっそり盗み見ていた。
次第に私たちは打ち解けて、彼を家に呼んで一緒にご飯を食べたり、
買い物ついでに彼のおばあちゃんを訪ねるのも習慣になった。
彼にとって一番つらい時期――
その日々を、私は傍で見守ってきた。
大学受験のあと、奇跡的に同じ都市の大学に通うことになったけど、
そこから私たちは、だんだんと疎遠になっていった。
「もともと、ただの同級生だったし」
そう自分に言い聞かせながら、なんとか気持ちを整理しようとしていた。
でも――
大学二年のある日、寮へ戻る道で、街灯の下に佇む陽翔の姿を見つけた。
あのすらりとした背中。
かすかに漂うアルコールの匂い。
それが昔の記憶と重なって、私の胸をぎゅっと締めつけた。
彼は私の方へ歩いてきて、まっすぐに見つめながら言った。
「梅香、久しぶりだね」
言葉を返そうとした瞬間、彼がふっと距離を詰めてきた。
「――俺の彼女になってくれない?」
一瞬、頭が真っ白になった。
返事をする前に、勝手に口が動いていた。
「……うん」
答えた途端、顔が真っ赤になって、
ああああ、もっと冷静に返事すればよかった……って、後悔でいっぱいになった。
陽翔は、笑っていた気がする。
それから、私をぎゅっと温かくてしっかりした腕の中に抱きしめてくれた。
そのまま、私たちは何年も付き合いを続けた。
だけど――私が「県外で仕事を探したい」と言い出したとき、すべてが変わり始めた。
陽翔は何も言わなかった。
ただ、私の家の下で一晩中、黙って酒を飲み続けていた。
見つけたとき、彼は木の枝を抱きしめたまま、目を閉じて離れようとしなかった。
口元から漏れる言葉は、まるで壊れたレコードのように繰り返していた。
「君まで俺を捨てるのか……?どこに行くとしても、俺も連れてってよ……お願いだから……」
私は、困ったように、そして愛しさに胸を締めつけられながら、彼の赤くなった目元に手を伸ばした。
「……行かないよ。もう、陽翔をひとりにはしないから」
あのとき、そう誓ったのに。
まさか今になって――彼が、私を去らせる理由になるなんて。
胸の奥が、ずきずきと痛む。
昨日から抑えていた感情が、じわじわと浮かび上がってきた。
顔色がどんどん悪くなっていたのか、上司が心配そうに声をかけてきた。
「好井くん、大丈夫?顔、真っ青だよ」
「……平気です。ちょっと疲れてるだけなので」
彼はうなずいて、「無理しないでね」と言ってくれた。
そのあとすぐ、スマホに通知が届いた。
上司からのメッセージ――
私は本社研修の枠に正式に入ったらしい。
フライトは、半月後。
その前に、私と陽翔の関係には、きちんと終止符を打たなければいけなかった。
……
家に戻ったとき、私は信じられない光景を目の当たりにした。
陽翔と橘が、まるで別れを惜しむかのように――激しくキスをしていた。
私は皮肉っぽく口角を上げ、少し距離を取りながら、その場面を静かに見つめた。
橘はわざとらしく切なそうな顔をして、陽翔の手をきゅっと握りしめる。
「……寂しいんだもん。ねえ、今夜は一緒にいてくれない?」
陽翔は困ったように微笑んで、優しく言った。
「梅香が家にいるんだ。今は無理だよ」
「じゃあ、彼女と別れてよ。そうすれば、もう誰にも邪魔されない」
「それは無理だ」
橘の顔が一瞬で凍りつく。
目の端に涙を浮かべながら、震える声で問いかけた。
「陽翔、まさか彼女のこと、本気で好きなの?
じゃあ、私は?私は何だったの?」
鼻で笑いそうになった。
あんた、自分の立場、本当に分かってる?
……明らかに、不倫相手じゃん。残念でしたね。
陽翔は小さくため息をついて、橘の顔をそっと両手で包み込むようにしながら言った。
「そんなわけないだろ。離婚って、簡単にできることじゃないんだ。ばあちゃんの体調も悪いし、あんまり騒がせたくないんだよ」
「それに……財産の半分は彼女に持ってかれるんだぞ?今まで頑張って築いたものが一気に半分になるなんて……優奈も、それは嫌だろ?」
私はゆっくりと首を振った。
その財産――本来なら、私の手に渡って当然のものだった。
彼がどん底のとき、私は一緒に地下室で暮らし、安いカップ麺で空腹を満たしていた。
彼の会社を起こすときに必要だった資金だって、私の持参金から出した。
だから、私は笑って言ってやった。
「そこまで好きなら、いっそ……ふたりのために、私が『慈悲』をかけてあげようか?」
そのままふたりのほうへ歩み寄ると、案の定、彼らの顔からサッと血の気が引いた。
さすがに商売の世界で生きてきた陽翔。
驚いたのは一瞬で、すぐに平然を装った。
「梅香、何言ってるんだよ、冗談だろ?」
私は肩をすくめて返す。
「とぼけるつもり?さっきまで、私に邪魔されたかわいそうな恋人同士の芝居してたじゃない」
陽翔が眉をひそめた横で、橘は顔を輝かせて私の近くまで駆け寄ってきた。
「ほんとに?やったー!約束だよ、後から反故にしないでね!」
「もちろん。でもさ……彼がそこまであんたを愛してるってわりには、『愛人』扱いで満足させてるの、ちょっと不思議じゃない?
たとえ今はあんたが特別でも、気をつけなよ?いつまた、もっと可愛い誰かに目移りするか分かんないし」
彼女の顔が一瞬で歪んで、怒りで震え始めた。
けれど、私がカバンからゆっくりと一枚の紙を取り出した瞬間、
彼女の怒気は見事に吹き飛び、目をきらきらと輝かせてそれを見つめた。
私はその視線を冷たく受け止めて、書類をちらつかせた。
「これにサインすれば、晴れてふたりは自由の身だよ」
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