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第3話

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この時、暁がそう遠くないところに恐ろしいほど顔を不機嫌そうに歪めて立っていた。

琉花は一颯の懐から離れてしっかりと立ち、下を向いてドレスを整えた。それで一颯がこの時、暁を見た時に一瞬冷たい視線を送っていたことには気づかなかった。

暁は大股で彼女のほうへ近づき、バッと琉花の腕を掴んで自分の後ろに引き寄せた。

彼の目線が一颯に向いた瞬間、彼は急にその動きを止めた。そして口を開いた時にはさっきまでのあの偉そうな態度など微塵もなかった。「と……藤堂社長ですか?どうしてこちらに?」

一颯は微かに顔を傾げ、ゆったりと袖口を整えて視線をサッと暁が琉花を掴むその手に移した。

「東雲さん」彼は琉花のほうを向いて低い声でこう言った。「自分に合わないものは、早めに見切りをつけて、変えてしまったほうがいいですよ」

それを聞いて琉花は驚いていた。彼の向かう目線の先を確認すると、だらりと長く伸びたドレスだった。

このドレスは確かに美しいが、自分には合わないらしい。

暁の顔色はあまり優れなかった。ここ数年、彼はどこへいっても周りからちやほやされていたのに、この日初めて挨拶をして返事をもらえなかったのだ。

この藤堂一颯とかいう男も名家の出身であるという身分を笠に着て、何を偉そうに。

彼は無意識に手の力を強めていった。掴んでいる琉花の手首がすでに圧迫されて赤くなっていることに全く気付かなかった。

「藤堂社長、私の婚約者は見識が少なく、お恥ずかしいかぎりです」

一颯はこの時ようやく彼のほうへ視線を向け、礼儀正しくも距離を取った話しぶりで言った。「どうやら大崎社長はお仕事のほうがかなり忙しく、婚約者に一人でドレス選びをさせるしかないみたいですね」

この話を聞いて、暁は気まずそうにしていた。琉花は彼にものすごい力で手首を掴まれてその痛みに息を吸い、苦しそうに手を動かしてその束縛から逃れようとしていた。

その場の空気は張りつめていた。

「大崎社長」一颯の声は氷のように冷たく変わった。「愛する人には、やはり気遣って、優しくしてあげるべきですよ」

琉花はそれを聞いて心臓が跳ねた。

藤堂一颯は今自分のために言ってくれているのか?

彼はさっきの店員の会話を聞いていなかったのか、それとも……

すると暁の表情はさらに見苦しいものへと変わった。しかし、一颯に反抗することなどできるわけもなく、おとなしく不満そうに手を離した。

琉花は手首を揉みほぐしながら、一颯のほうへ顔を向けて彼の瞳をじっと見つめた。そこには自分が読み取れない感情が潜んでいるようだった。

その時、店のマネージャーが慌てた様子で駆けつけてきた。「藤堂様、ご注文いただいたものはご用意が整いました」

マネージャーは恭しい態度で一颯を店の奥へと案内していった。

一颯は二人に向かって軽く会釈をした。そして琉花の横を通り過ぎる時に、袖口が彼女の手のひらを軽くかすめていった。それはただの一瞬で、その触れた感覚はすぐに消えてしまった。

彼の姿は廊下の突き当りで消えてしまった。すると暁は琉花の肩を指が食い込むほど強く押さえ、不貞行為を疑うかのようにこう言った。「お前、一体いつ藤堂一颯と知り合いになったんだ?」

琉花はこの7年もの間愛してきた男を見つめ、突然知らない人間が目の前にいるかのような錯覚を覚えた。

彼のネクタイは歪み、スーツのジャケットにはうっかり見逃してしまいそうなくらい薄く口紅の跡が残っている。それはあの動画の中で望月凪咲がつけていたリップの色とまったく同じだった。

自分の語気がどこかおかしいことに気づいたらしく、彼は彼女の顔を撫でようと手を伸ばしてきた。「俺はただ君のことがとても心配だっただけで」

琉花は顔を背けてその手を躱した。「何か用があったんじゃないの?どうして急にここに来たわけ?」

暁の表情が少しこわばった。「君がドレスの試着をすることのほうが大事だろ、ちょっとしたサプライズをしようと思ってさ」

彼女をとても大切に思っているかのような演技をしている彼を見つめ、琉花は吐き気がするほど気持ち悪くなってきた。

一体いつからだろうか、嘘をまるで真実のように語るようになったのは。

「ドレスは決めた?これ君にとても似合ってるよ」暁は意味深に琉花の腰のあたりが露わになるようにカッティングされたウエストラインをちらりと見た。

この時、琉花は目を閉じた。きっと店内のライトが眩しすぎたせいだろう、目が痛くなってきて横を向き彼とのかかわりを避けようとした。

「疲れたわ」

「分かった、じゃあ、送ってくよ」

琉花はドレスを着替えて、店の入り口のほうへ歩いていった。

曲がり角にある鏡の前を通り過ぎる時、一颯が二階の手すりのところに立って彼女を目でしっかりと追っているのが見えた。彼は彼女にその視線を気づかれたことは全く意外に思っていないらしく、琉花に見られても薄い笑みを浮かべていた。

今日のひどい自分の有り様をすべて彼に見られたことを考え、琉花は失礼にならないように微笑みを浮かべて、速度を上げその場を去っていった。

ドレスショップを出た後、暁がご丁寧にも車の助手席側にあるドアを開けて優しそうにしていた。「乗って、送っていくから」

琉花はその場に立ったまま、この見慣れたポルシェ・カイエンを睨みつけていた。この時の頭の中には、さっき見たばかりの動画で彼と凪咲がこの車の中で激しく絡み合っているシーンが浮かんできた。

この男、よくもこんな真似ができるな!

この車はすでに汚れてしまった。その中の空気でさえも、吐き気を催すような雰囲気が漂っている。

琉花は深い愛情を持ち、誠実そうにしている彼を見つめながら、バッグを持つその手にぎりぎりと力を込めていた。この時の彼女は必死に自分の気持ちを抑え込むことで、この男の化けの皮を剥がさないで済んだ。

暁は彼女が車に乗らず呆然と突っ立っているのを見て、手を伸ばし彼女の手を引っ張った。「どうしたんだ?早く乗れよ」

琉花は一歩後ずさりした。「私、自分で運転できるから」

すると暁の顔色が少し変わり、すぐにまた愛おしそうにしている微笑みに変えた。「分かった、じゃあ、夜は新婚用の家で食事をしよう。君にあるサプライズを用意してるんだよ」

「サプライズ?」琉花は尋ねた。

ここ二日に起きた事よりも、さらに彼女を驚かせてくれることがあるというのか?

彼が顔に浮かべる偽りの優しさを見ていると、琉花は心臓を鋭いナイフでズタズタに切り裂かれるような思いだった。

7年。どうして彼女は今日やっと気づいたのだろう。彼のあの深い愛情は虚偽であり、何の価値もないものだったのだ!

二人はそれぞれ西ヶ岬へと帰っていった。

そこは彼女と暁が結婚した後に住もうと決めて購入した家があるのだ。

家に入ると、淡い薔薇の花の香りがした。

そしてすぐ、暁がモカフェローズで作った花束を彼女の目の前に差し出し、愛情深い眼差しで言った。「琉花、嬉しいかい?」

琉花は爪が手のひらに食い込むほど手を強く握りしめていた。

モカフェローズ。

7年前、暁が彼女に初めてプレゼントしたのはこの花だ。

当時、彼女の暁への気持ちはほとんどなかった。

その時彼は花を手に持ち、瞳に映るのは琉花、ただ一人だけだった。「琉花、君はこの世界で、俺にとって唯一無二の薔薇の花だ」

しかし今、この薔薇の花の鋭い棘が彼女の心に突き刺さるかのように、ズキズキと苦しかった。

唯一無二?

なら、あの望月凪咲とかいう女は一体なんだ?

動画の中で見たあの官能的なシーンは一体?

ドレスショップの店員からコソコソと可哀想な女扱いされた私は?

暁は「これが君の一番好きな花だって知ってるから、今日特別に花屋で買って来たんだよ」と言った。

琉花はその花を目の前にし、喉の奥が緊張してきた。目が熱くなり涙が湧き上がってきたが、どうにかそれが零れ落ちないように堪えていた。

花は確かに美しい。しかし、彼女は好きではなかった。

彼らが付き合い始めたばかりの一カ月目のこと、琉花は彼に自分が好きなのはピンク色の薔薇だと教えたのに。

しかし、その後記念日に彼が贈る花は永遠にあのアプリコット色をしたモカフェローズだった。

初めてもらった時、琉花は笑いながら彼に言った。「ちょっと忘れたの、私が好きなのはピンクローズよ」

当時、彼はこう言い訳をした。「ごめん、二つともよく似てるからさ、次は絶対に間違えないから」

しかし二度目も同じだった。

その時、琉花は心の中で、男だから花の種類なんて分からなくて当然だと、彼のためにそう自分を納得させていた。それにわざわざ彼を花屋まで連れて行って、その二つの違いを説明してあげたのだ。

そして三度目の記念日、あのモカフェローズが再び彼女の目の前に現れた。琉花はそれを黙って受け取っておいた。

四度目、五度目、六度目……

彼女はもう何か理由を付けて彼にその間違いを正すことはなかった。その気力すらなかったのだ。

すべてがどうでもよかった。別に彼がいなくなったとしても、自分で生きていくことはできるのだし。

琉花は深く息を吸った。「これがあなたが言ってたサプライズってやつ?」

暁は「可愛い琉花、気に入ってくれた?ここ最近会社のことで大変だっただろう。お疲れ様」と言った。

琉花はそれを聞いてあまりに腹が立って笑っていた。

以前はどうしてこの大崎暁がここまでふぜけた人間だと気づかなかったのだろうか?

今考えてみれば、毎回彼から薔薇の花と甘い言葉をもらうのは、自分が会社のプロジェクトを成功させた後だった。それがなんだというのか?

いわゆる飴と鞭というわけか?

中身が空っぽで偽りだらけの深い愛情とやらと、私の嫌いなモカフェローズ。それを与えて全身全霊で会社のために身を粉にして働けと?

暁は彼女がなんの反応も示さないのを見て、彼女が感動しているのだと勘違いしていた。そして笑ってその花を彼女の懐に押しやり、手を彼女の腰に回した。

彼は欲望を抑えられず琉花の体をじっくりと眺めていた。

さっきドレスショップで見た腰のラインが露わになったあの光景が彼の前に揺らめいていた。

暁は喉をゴクリと動かし、全身が熱くなるのを感じていた。

琉花は毎日あの「つまらない」真っ黒なビジネススーツに身を纏っているものだから、彼は琉花が非常に美しい女性だということをすっかり忘れてしまうところだった。

凪咲のあの艶やかな明るい美しさとはまた違う味がある。琉花は冷たいから、うっかり見落としてしまいそうになるが、クールで力強い美しさを持っている。

ただ、あのカチッとしたスーツが彼女が本来持つ輝きを封印してしまっていたのだ。

7年前、彼は彼女のスカート姿に惹かれたのだ。ただ残念なことに……

独占欲と、普段と違う姿を見た新鮮感が湧き上がってくると、暁は親しげにその手で少し緊張してこわばった琉花の肩を抱き、指で意味深に彼女の耳をさすった。

彼は顔を彼女の耳元のほうへ向けて、その欲望を隠すことなく言った。「琉花、ドレス姿……すごく綺麗だったよ」

そう言い終わると少しだけ黙っていた。その時自分の懐の中にいる彼女が緊張して体をこわばらせていることになど、全く気づいていなかった。「今後はあんなダサいスーツなんて着るな。君のスカート姿のほうが好きだから」

彼の口調は軽やかで、まるで恩恵を与えるかのように言った。「君が綺麗に自分を飾り立てたらさ、見てる俺の気分もよくなるじゃん」

琉花「……」
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