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第19話

Author: 藤原 白乃介
数分後、佳奈は社長室のドアをノックした。

顔には先ほどの強気な表情はなく、代わりに職場でよく見かける、自然で温和な女性の微笑みが浮かんでいた。

「高橋社長、お呼びでしょうか?」

智哉は彼女が手ぶらでいるのを見て、眉を少しひそめた。「朝食は?」

以前、彼が朝食を食べる時間がないとき、いつも佳奈が朝食を作り、それを保温箱に入れて会社に持ってきてくれた。

佳奈は穏やかに笑いながら、彼に敬意を込めて言った。「高橋社長、ご希望の朝食は和食ですか、それとも洋食ですか?今すぐに注文します」

「俺の分は作ってないのか?」

佳奈は少し困ったように笑って言った。「高橋社長、私が結んだ契約には、この内容は含まれていなかったようです」

智哉は一瞬も目を離さず、佳奈を見つめた。

彼は以前の彼女の面影を、彼女の顔に探そうとした。かつて彼女が自分を見つめるとき、目の中には星のような光が輝いていた。

だが今の彼女は、公式的な微笑み以外、感情を全く感じさせない。

智哉の胸の中は空っぽになったように感じた。

まるで手のひらの中でずっと握っていたものが、気づかぬうちに消えていっているかのようだった。

その感覚は、彼にとってとても不思議なものだった。

彼は突然、佳奈を抱き寄せ、彼女のあごをつかんで冷笑を浮かべながら言った。「それなら、契約に含まれている内容を実行しよう」

そう言って、彼は彼女の柔らかな唇を奪った。

彼は彼女を強く抱きしめ、何度も何度も貪るようにキスをした。

彼は彼女を自分の中に飲み込んでしまいたいと思った。このようにすれば、彼女は素直に従い、二度と離れようと思わないだろう。

佳奈はそのキスに頭が痺れるような感覚を覚え、両手で彼のネクタイを強く握りしめた。

彼女はもう覚悟していた。戻ってきたら、智哉は以前よりもさらに遊び心を持って接してくるだろうと。

このようなオフィスでの激情は、毎日のように繰り返されるだろうと思っていた。

智哉は佳奈が興奮していないことに気づき、突然動きを止めた。

熱い眼差しで彼女を見つめ、鼻先で彼女の鼻を軽く擦り、挑発的な動きだった。

その声はかすれて、まるで抑えきれない欲望が滲み出ていた。

「会議の前に、昨晩の借りを返してもらう」

佳奈が反応する間もなく、彼は再び低く頭を下げて、彼女の唇を奪った。

今回は前よりもさら
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