だが、男が佳奈に向かって駆け寄るより早く、背後で「バン」と銃声が響いた。男はその場に倒れ、背中から流れ出た血が床を赤く染めていった。智哉はすぐに佳奈の目を手で覆い、優しく声をかけた。「怖がらないで、大丈夫だ。もう終わった。行こう」そう言って、佳奈を抱き上げ、高木に数言指示を伝えると、そのまま現場を後にした。つい先ほどまで犯人と対峙していた佳奈は、今や力が抜けたように智哉の腕の中にぐったりと身を預けていた。冷たい両手で彼のシャツをぎゅっと掴み、歯は震え、声もか細い。潤んだ瞳で智哉を見つめながら、弱々しく口を開いた。「智哉……奈津子おばさんは大丈夫?」智哉は彼女の唇にそっと口づけし、穏やかな声で答えた。「背中を何針か縫ったけど、もう大丈夫だよ。安心して」佳奈は智哉の、晴臣によく似た瞳を見つめながら、柔らかく言った。「普通、女の人って危ないときにまず叫ぶでしょ?でも奈津子おばさんは、ためらわずに飛びかかっていった……あれ、ちょっとおかしくない?」智哉は視線を落としながら問い返した。「父さんのこと、好きだったって思ってるのか?」「ただの好きじゃないと思う。きっと、骨の髄まで愛してるの。だから、あんなふうに無我夢中で突っ込んでいったんだと思う。もし危ないのが智哉だったら、私も同じことしたと思う」「でも父さんは、自分の女遊びはその場限りだって言ってた。ほかの女とは何もなかったって」「それでも、女の人が勝手に好きになるのは止められないでしょ?高橋叔父さんって、昔はすごい人だったんでしょ?見た目も魅力的で、きっと多くの女性の憧れだったと思う。奈津子おばさんとも、昔どこかで何かあったんじゃないかな。ただ、本人が気づいてなかっただけで」智哉の目がわずかに陰った。脳裏に、晴臣から聞いた言葉がよぎる。——母さんはクズ男に裏切られて、命を狙われたことがある。あの「クズ男」は父親のことなのか、それとも別の誰かなのか。この件はちゃんと調べる必要がある。智哉はそう思った。一方の佳奈は、極度の緊張からようやく解放されたのか、帰宅後は智哉にしばらく慰められた末、やっと浅い眠りに落ちた。智哉が階下に降りると、高木たちがリビングで待っていた。「高橋社長。あの男はホテルに入り込んで、スタッフのふりをしてました
晴臣の胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。「何か思い出したんですか?」「まだはっきりとは……でも、あのシャンデリアが落ちてきた瞬間、頭の中に私と彼が一緒にいる場面が一瞬浮かんだの。ほんの一瞬だったけど、間違いなく、あの男は征爾さんだった」その言葉に、晴臣は母の手をぎゅっと握りしめた。「母さん……あなた、彼のことが好きだったんですね?」息子からあまりにも率直に問われ、奈津子は返答に詰まった。十数秒黙り込んだあと、ようやくか細い声で口を開いた。「そうかもしれない。じゃなきゃ、あんなふうに体が勝手に動くわけないもの。晴臣、昔の私は、悪い女だったのかな。家庭がある人だって分かってて、惹かれてしまった。それに……あなたもしかして、彼の子どもじゃないかって」晴臣は、その問いがいつか母の口から出てくると分かっていた。まさに言おうとした瞬間——コンコンとノックの音が鳴った。彼が扉を開けると、そこには征爾の深く静かな瞳があった。「晴臣、お母さんの容体はどうだ?ちょっと見舞いに来た」征爾の腕にはフルーツバスケット、もう片方の腕には花束が抱えられていた。穏やかな微笑を浮かべながら、晴臣を見つめている。晴臣は無意識に拳を強く握りしめた。眼差しには、複雑な光が揺れていた。じっと征爾を見つめ、数秒の沈黙の後に口を開いた。「目を覚ましました。どうぞ、お入りください」彼は背を向けて、母に向かって低く言った。「母さん、高橋叔父さんが会いに来ました」征爾の姿を見た奈津子の表情に、わずかな緊張が走る。髪を軽く整え、ぎこちなく微笑んだ。「どうぞ、入ってください」征爾はベッドに近づき、フルーツバスケットをナイトテーブルに置き、花束を奈津子に差し出した。そして、丁寧に腰を折って頭を下げた。「瀬名夫人、本当にありがとうございました。あなたが庇ってくれなければ、あのシャンデリアは私に直撃してた。下手すりゃ、今ごろ息子が私の葬式をしてたかもしれない」征爾のその深みある瞳を見つめると、奈津子の胸はさっきより早く鼓動を打っていた。頬がほんのり赤く染まり、布団の中で握られた両手がぎゅっと縮こまる。彼と再び顔を合わせた今、奈津子は確信した。——やっぱり、私たちには過去がある。でなければ、こんなに心が乱れる
その名前を聞いた瞬間、征爾の瞳が一瞬揺れた。佐藤さん――彼は高橋家の執事であり、あの火事の唯一の犠牲者だった。奈津子が彼を知っているはずがない。ましてや、その火災にここまで強い印象を持っているとは……。征爾は驚きの眼差しで奈津子を見つめた。「佐藤さん以外に、何か思い出せることはありますか?」奈津子は首を振った。「彼に関しては何の記憶もありません。ただ、悪夢を見るとき、いつも彼の名前を呼んでるんです。きっと彼が私を助けてくれたんだと思います。しかも、あの火事の中で」「でも、当時の火災現場には佐藤さんしかいなかった。監視カメラにも、彼が一人で入っていくところしか映っていない」征爾は思わず動揺を覚えた。もし、あの火事に奈津子も巻き込まれていたとしたら、それは単なる事故ではなく、誰かによって仕組まれたものだ。そのとき、傍らの晴臣が口を開いた。「当日の映像は確かに、佐藤さんしか映っていません。でも、一週間前の映像に十数分の空白があるんです。午後二時ごろ、誰かに編集されていました」征爾は眉をひそめて彼を見た。「そのときに君の母親が閉じ込められた可能性があると?」「ないとは言い切れません」「でも、あのとき高橋家は大混乱の真っ只中だった。智哉たち母子三人が誘拐されて、我々は必死で救出に動いていた。もし本当にそうなら、家の者がやったとは考えにくい」その言葉に、晴臣の瞳がすっと冷えた光を宿した。「陽動って可能性もあります。この件は私が調べます。もし、母が受けた仕打ちに高橋家が関わっていたなら、絶対に許しません」彼の中ではもう確信が芽生えていた。母は、あの火事で命を落としかけた。そして、その背後にいるのは、本当に玲子なのか、それとも……一方。佳奈はあまりの衝撃で、一晩中うなされていた。夢の中では、血まみれの智哉や、父の死が繰り返される。たった一日で、奈津子がシャンデリアに巻き込まれ、自分は誘拐され、そして目の前で男が血まみれで倒れるのを見た。妊娠していなくても、耐えがたい出来事ばかりだった。目を開けたとき、目の前に映ったのは、智哉の凛々しい顔。ちょうど風呂上がりなのか、体からはボディソープの香りが漂い、濡れた髪の水滴が引き締まった顎を伝い、鎖骨を越えて、逞しい胸筋の間へと消えて
あの夜の感覚は、あまりにも甘くて蕩けそうで、もう一度味わえば、今日はきっと外に出られなくなる。そう思った佳奈は、慌てて智哉を押しのけて、ベッドから身を起こした。「今日、奈津子おばさんのところに行かなきゃいけないの!」だが、ちょうどベッドを降りようとしたそのとき、彼女の腰に腕が回された。耳元で男の低くて甘い囁きが落ちてくる。「そんなに急がなくてもいいだろ。行く前に、ちょっとキスしてからでも遅くない」そう言って、佳奈はベッドに押し倒された。優しくて濃厚なキスが、まるで波のように彼女を飲み込んでいく。智哉がいつからこんなに上手くなったのかは分からない。ただのキスなのに、こんなにも胸が高鳴るなんて。思わず、佳奈の口から甘い声が漏れた。二人が夢中になってキスを交わしているそのとき、部屋のドアがノックされた。外から清司の声が聞こえる。「佳奈、橘おばあさんが来てくれたよ。二人とも、降りてご挨拶しなさい」佳奈は慌てて智哉を押し返し、声にまだ名残の熱を含みながら答えた。「お父さん、すぐ行きます」息が少し乱れていて、頬もほんのり紅い。それに加えて、「お父さん」と呼んだときの声がどこか弱々しく、智哉は思わずくすっと笑った。佳奈は恥ずかしくなって、智哉の胸をぽかっと叩いた。「もう、智哉のせいだから。キスが長すぎるのよ」智哉は笑いながら、彼女の頬に何度もキスを落とした。「じゃあ、赤ちゃんにキスしたら、支度しようか」「赤ちゃんだけよ。他のとこはダメ」智哉はいたずらっぽく笑った。「ねえ、他のとこって、どこのことか詳しく教えてくれる?」佳奈の顔は一層真っ赤になり、「智哉……このスケベ!」「そう、スケベだよ」そう言いながら、彼は彼女のお腹にキスを数回落とし、大きな手でそっと撫でながら言った。「赤ちゃん、お利口にしててな。ママを困らせたら、出てきたときにお尻ぺんぺんだぞ」その声には微笑みが混じり、瞳にはあふれんばかりの愛情と父性が宿っていた。そんな智哉を見て、佳奈の胸は幸福でいっぱいになる。心の奥から、優しいぬくもりが満ちていくようだった。そして、二人が階下に降りていくと、橘おばあさんがソファに座っていた。佳奈の姿を見た瞬間、すぐに立ち上がって駆け寄ってきた。心配の色が顔
佳奈は少し戸惑っていた。裕子が橘おばあさんと知り合いだったなんて、考えたこともなかった。それに、裕子はもともと甘いものが苦手で、むしろアレルギーに近い反応を見せていた。そんな人が、どうして橘おばあさんの作るお菓子が好きなんて言えるのか。二人の会話に、その場の空気が一瞬凍りついた。結翔がすぐさま近づいて、橘おばあさんの手をそっと取った。「おばあさま、また人違いしてますよ。この子は佳奈です。あなたの外孫じゃありません」その言葉に、橘おばあさんはようやく自分の失言に気づいた。涙に潤んだ目で佳奈を見つめながら、こう言った。「美桜がいなくなってから、体調を崩してね……治った頃には、よく人を間違えるようになってしまったの。綾乃を抱いて美智子って呼んだりもして。佳奈、どうか責めないでおくれね」その言葉を聞いた佳奈の胸に、ずしんと重い痛みが走った。橘おばあさんの悲しみと、その境遇が痛いほど伝わってくる。二十年以上も大切に育てた孫が裏切り者で、母親がその死の元凶かもしれない。佳奈は小さく微笑んで、そっと首を振った。「大丈夫ですよ。おばあさまの体が元気になってくれれば、それでいいんです」佳奈が何も疑わなかったことで、橘おばあさんは内心ひどく安堵した。目元を少し赤くしながら、佳奈の手をぎゅっと握った。「佳奈、これから私にいっぱい甘えてくれないか?」そのまっすぐで温かい眼差しに、佳奈は断ることができなかった。もしそれでおばあさんの心が少しでも癒えるなら、彼女は喜んで応じるつもりだった。佳奈はにっこりと微笑んでうなずいた。「小さい頃から外祖母がいなくて、祖母にもあまり好かれてなかったんです。だから、祖父母と孫の特別なって、よく分からないの。もしおばあさまが私を好きでいてくれるなら、それは私にとって、すごく幸せなことです」その言葉を聞いた橘おばあさんの目から、とうとう抑えきれない涙がこぼれ落ちた。佳奈のこれまでの人生を思って、胸が締めつけられる。本来なら、大切に大切に育てられるはずの子だったのに。母に冷たくされ、藤崎家でも居場所がなくて……橘おばあさんは佳奈をぎゅっと抱きしめ、その頭を何度も撫でながら、声を震わせて言った。「もう大丈夫。これからは私がついてる。何も怖くない。赤ちゃんを産ん
彼の問い詰めに対し、橘お婆さんは悔しそうに歯を食いしばった。「彼女が誰だろうと、あんたには関係ないわ。私がどれだけ甘やかそうが、あんたに口出しされる筋合いはないの。あんたが結翔の父親ってことで今回は大目に見てるけど、美智子にあんなことしておいて、橘家が簡単に許すと思ってんの?」「ここはあんたを歓迎してないわ。さっさと出ていきなさい。出ていかないなら、今すぐ警備員呼んで叩き出すわよ!」清司も怒り心頭で箒を手にし、聖人に向かって振りかざした。「前にも言ったよな。うちの娘を悪く言ったら、俺は黙ってないって!俺が大事に育てたお姫様を、あんたごときが口汚く罵るなんて許せるか!」そう言い放つと、清司の箒が聖人の背中に当たった。痛みはさほどでもなかったが、屈辱感は半端じゃない。聖人は反撃しようとしたが、智哉の冷たい視線に圧され、思わず怯んだ。拳を握りしめながら、清司を睨みつけて言った。「覚えてろ!お前、俺の手にかかったらただじゃおかねぇからな!」それを聞いた智哉が冷ややかに言い放つ。「やれるもんならやってみろよ。生きて帰れたらな」聖人は歯ぎしりするほど悔しがりながら、結翔を指差して怒鳴った。「親父がぶたれてるってのに、一言も発さないとはな、結翔……あんたはほんっと親孝行だよ智哉と一緒になって、母親を監禁しやがって、今度は俺を閉じ込める気か?」結翔は無表情のまま言った。「佳奈に手を出すなら、その可能性もあるな」「はっ、また佳奈か。佳奈がそんなに大事かよ!智哉はあいつのために母親を閉じ込めて、お前も同じことをしようとしてる。いいさ……見てろ、いつか絶対に後悔させてやる!」そう吐き捨てて、聖人は一度も振り返らずにその場を去った。清司は怒りのあまり、肩で息をしていた。何度も何度も佳奈を罵倒され、そのたびに堪えるのは限界だった。そしてハクに向かって叫んだ。「ハク!あいつ、ママをいじめたんだ。少しこらしめてやれ」ハクはその言葉を聞くやいなや、ピンと立ち上がり猛ダッシュ。吠えながら聖人に突進していった。ズボンの裾にガブッと噛みつき、思いっきり引っ張る。聖人は驚いて慌てて逃げ出すが、走れば走るほど、ハクはますます勢いづいて追いかける。時折ジャンプして胸元に飛びつき、シャツに食らいついてはビ
橘お婆さまは嬉しそうに顔をほころばせた。「うちの佳奈は私の好みを覚えててくれたのね。なんて親孝行な子なの。さ、ちょっと注いでちょうだい」佳奈はお婆さまに一杯注いだ。その後、テーブルの他の人たちにも順番に注いでいく。最後に智哉に差し出そうとしたとき、よだれが出そうになって思わずごくりと喉を鳴らした。小声で囁く。「ねえ、智哉……ちょっとだけ、ほんの一口だけ飲んじゃダメ?」智哉は即座に却下した。「ダメだよ。妊婦はお酒飲んじゃいけないって、忘れたの?そんなことしたら生まれてくる子が小さな酒飲みになるぞ」「一口くらい平気だってば。舐めるだけでもいいし、梅酒だよ?酔っ払うほどじゃないって」そう言いながら、彼女は舌で唇をぺろりと舐めた。その様子に、智哉は苦笑いして彼女の鼻を軽くつまんだ。そして酒を持ったグラスを彼女の唇の前に差し出した。「舐めるだけだぞ。一口でも多かったらお尻ぺんぺんだからな」佳奈は目を細めて嬉しそうに何度も頷いた。まず香りを嗅いでみる。どこか懐かしい匂い。まるで昔、どこかで飲んだことがあるような気がする。そして、舌先でひと舐め。芳醇な甘さと淡い酒の香りが舌を包み込んで、味覚を優しく刺激した。たった一口で、幼いころの記憶が一気に蘇った。彼女は驚いたようにグラスを見つめ、智哉の制止も聞かず、もう一口だけ飲んでしまった。冷たい酒が喉を滑り落ち、あとに残るのは深く香ばしい梅の香り。これは、彼女がずっと忘れられなかった、あの味。大切に心の中でしまい込んでいた、あの頃の思い出の味だった。佳奈の胸がぎゅっと締めつけられる。彼女は震える手で酒を清司に差し出し、目には抑えきれない感情がにじんでいた。「お父さん、このお酒、お兄ちゃんのお母さんが作ったやつだよ!」清司もすぐにピンときて、グラスを傾けて一口飲んだ。そして目を見開いて言った。「この味、間違いない!佳奈、晴臣って、まさか……あの九くんか?」晴臣が佳奈にしてきた数々の気遣いを思い出し、清司の中でその確信はどんどん強くなっていく。佳奈の目には涙が溢れた。「やっぱり、やっぱりお兄ちゃんと叔母さんは生きてたんだ……あんなに優しい人たちが、死んでるわけないよ。今すぐ病院に行って、ちゃんと聞いてくる!」そ
佳奈は一刻も早く晴臣親子に会って、真相を確かめたかったため、軽く返事をした。「はいはい、あなたが一番好きよ。早く行こう」そう言うと、智哉の手を引いて急いで車の方へ向かった。佳奈の慌てぶりを見て、智哉の目にはさらに深い嫉妬が浮かぶ。佳奈がドアを開けようとした瞬間、彼は彼女の身体をドアに押しつけた。端正な顔がすっと近づき、鼻先で頬を軽くなぞった。低く甘い声に、どこか拗ねた響きが混ざっている。「でもさ……今の君の頭の中は、あの幼なじみのお兄ちゃんでいっぱいなんだろう? 俺のことなんて、入る隙間もないんじゃないか?」智哉がそんな拗ねた表情を見せるので、佳奈はつま先立ちして、そっと彼の唇にキスをした。そして優しく囁いてなだめる。「彼のことはただの兄だと思ってる。私が愛してるのはあなただけ。ねぇ、旦那様、もうヤキモチ焼かないで、ね?」「旦那様」という一言が、まるで魔法のように智哉の体温を急激に上げた。彼の目から嫉妬の色は一瞬で消え去り、代わりに抑え切れない情熱が浮かぶ。唇の端を軽く持ち上げ、喉の奥で低く笑った。「ヤキモチを消すには、こんなキスじゃ足りないよ」そう言うと、彼はゆっくりと佳奈の柔らかな髪に指を差し入れ、後頭部を包み込むように引き寄せて、彼女の唇を深く奪った。一見甘く優しいキスだが、その中には明らかな強引さと独占欲が入り混じっていた。冷たい彼の唇が熱を帯びながら佳奈を圧倒し、彼女の唇を簡単にこじ開けていく。佳奈の意識はだんだん薄れて、杏色の瞳には次第に潤んだ水気が広がった。彼女は甘く掠れた声でつぶやいた。「智哉……」ようやく智哉が唇を放し、冷えた指先で佳奈の唇を撫でる。「いい子だから、もう一回『旦那様』って呼んで?」佳奈は目尻を赤く染め、子猫のような声で答えた。「旦那様……これでいい?」智哉はごくりと喉を鳴らし、彼女の唇にもう一度軽くキスを落とした。そして笑みを浮かべながら冗談めかして言った。「君がこんなに可愛いから、今すぐ食べたくなったんだけど、どうしよう?」佳奈は慌てて口を覆い、必死に首を横に振った。「もうダメだってば。みんなが見てるよ」智哉が振り返ると、確かに家族全員が映画でも見るように窓に張り付いて、二人をじっと見ていた。智哉は苦笑した。「気にす
その言葉を聞いた瞬間、晴臣は一切の迷いなく拒絶した。「俺は反対です!そんなこと、間違ってると思いませんか?あなたには妻も子供もいる。そんな状態で母さんに付き添うなんて、母さんを“愛人”の立場に置くのと同じです。当時もそのことで、母さんは散々な目に遭ったんです。だったら俺は、母さんが一生このままでも構いません。絶対に、あなたには任せません」征爾は真っ直ぐな目で晴臣を見返し、はっきりと言った。「玲子との結婚は、もう何年も前に終わってる。俺たちは二十年以上も別居してるし、法的にも婚姻破綻の条件は十分にある。ただ、彼女が俺の母の命を救ってくれた恩義があって、離婚を先延ばしにしてきただけなんだ」そう言って、今度は佳奈を見つめた。「佳奈、俺は玲子と離婚する。その裁判、勝たせてくれ」佳奈は少し困った顔をした。「高橋叔父さん、裁判に勝つのは難しくないと思います。今回の件で玲子さんが高橋家に与えた損害も大きいですし……でも、それをやることで奈津子おばさんの気持ちを傷つけませんか?」「離婚が終わってから、奈津子さんに気持ちを伝えるよ。うまくいくかどうかは関係ない。少しでも病気の回復に繋がるなら、それでいい。俺はただ、彼女に記憶を取り戻してほしいんだ」奈津子の記憶のどこかに、自分の存在がある気がしてならなかった。彼女は一体、どんな存在だったのか。なぜ、自分には何一つ記憶が残っていないのか。 その理由を知りたい。それだけだった。智哉は佳奈をそっと引き寄せ、きっぱりと断った。「親父、離婚したいなら、他の弁護士を紹介するよ。雅浩も優秀だから。佳奈は妊娠してて、法廷に立つには向かない。それに、玲子は佳奈に強い敵意を持ってる。出廷中に何をするか分からない」その言葉で征爾はハッとした。玲子はいつも佳奈の出自を利用して揺さぶろうとしていた。彼は苦笑しながら言った。「俺もすっかり忘れてたな……雅浩に連絡するよ。すべて片付いたら、奈津子にも話す。今はまだ、黙っておく」そう言い残すと、晴臣の反応も待たずにスマホを取り出し、電話をかけながら部屋を出ていった。父の浮き立つような背中を見送りながら、智哉は思わず首を横に振った。「こんな顔、何年も見てなかった。玲子との結婚生活は、もうずっと死んだようなもんだった。道徳という名の鎖に縛られて、身
智哉は低く笑った。「残念だったな。俺が佳奈と出会ったのは、あいつが生まれる前だ。あいつは子供の頃から、俺がずっと嫁にするって決めてた相手なんだ。お前じゃ、一生かかっても敵わないよ」得意げに言い放ったその瞬間、彼は深く後悔することになる。佳奈の驚いた視線に気づいて、舌を噛み切りたくなるほどだった。佳奈は不思議そうに智哉を見上げた。「それって、美桜さんのことじゃないの?正確には遠山家が失った子供、私じゃないでしょ?」彼女の目に疑念が浮かんだのを見て、智哉は慌てて話題をそらすように、彼女の小さな鼻をつまんだ。「うちのアホな嫁、俺の作ったウソ、あっさり見破るなよ。お前、まさかアイツの味方か?」佳奈はあまり気に留めず、顔を上げて智哉を見た。「じゃあ、どうする? 高橋叔父さんと奈津子おばさんに話す?」晴臣が真っ先に否定した。「まだ事実が分かってないうちは、知らせたくない。余計な混乱を避けたいんだ。母さんが略奪者なんて言われるのは、絶対に嫌だから」それだけは、どうしても信じられなかった。彼は真実を突き止め、母親の名誉を取り戻すと心に誓っていた。智哉もうなずいて賛同した。「当時、お前たちを殺そうとしたのは、玲子じゃないかもしれない。その背後に本当の黒幕がいる。万が一、あの人にお前たちが生きてるとバレたら、危険かもしれない」その言葉を聞いて、佳奈は急に不安そうな顔になった。「でも、さっきエレベーターの中で、玲子は奈津子おばさんの顔を見てた。おばさんもすごく動揺してたから、もしかして、もう何か気づいたかも」「俺が人をつけて守らせる。真相もすぐに調べる。お前は心配するな、赤ちゃんによくない」智哉は彼女の頭を優しく撫で、軽く唇にキスを落とすと微笑んだ。「安心して、子供を産めばいい。俺の花嫁になる準備だけしてればいいんだ、分かった?」その声は風のように柔らかく、瞳には深い愛情が溢れていた。ビジネス界で冷酷非情と呼ばれる男とは思えないほど。佳奈にだって、それがわからないはずがない。頬を赤らめて彼を押しのけた。「智哉、人前でキスするなって、何回言えば気がすむの?」智哉は低く笑った。「人前じゃないよ。アイツは俺の弟だから」「だからってダメ!それにまだ兄さんって認められてないでしょ!」「は
智哉の口調は問いかけではなく、断定だった。その深く澄んだ瞳が、晴臣をじっと見つめている。部屋の空気は異様なほど静まり返り、お互いの呼吸音さえも聞こえるほどだった。十数秒の沈黙のあと、晴臣がふっと笑った。「いつ気づいた?」その一言に、智哉の胸がズシンと重くなった。この世に突然、自分と同じ血を引く兄弟が現れた。どう言葉にすればいいか分からない、複雑な感情が渦巻いていた。智哉はずっと晴臣に警戒心を抱いていた。彼の素性が謎に包まれていたこと、そして佳奈への感情――。いろんな可能性を考えたが、まさか異母弟だったとは夢にも思わなかった。数秒の沈黙ののち、智哉がようやく口を開いた。「俺がいつ気づいたかは重要じゃない。問題はお前はもう知ってたってことだ。玲子が母親をハメた犯人かもしれないって、ずっと調べてたんだろう?」晴臣は隠そうともしなかった。「そうだ。お前と初めて会ったとき、お前の持ち物を使ってDNA鑑定した。征爾が俺の母親を捨てたクズだってことも、とっくに分かってた。もし佳奈がいなければ、あいつに手出ししないでいられるわけないだろ?」その言葉に、智哉は眉をぴくりと動かした。「奈津子おばさんはこのことを知ってるのか?」「知らない。でも、あの人がお前の父親に特別な感情を持ってるのは、見りゃ分かるだろ」「それでも、お前の父親でもあるんだ」「違う。あいつがいなけりゃ、うちの母さんは傷つかなかった。俺たちも、ずっと追われるような生活を送らずに済んだんだ。全部あいつのせいだ。お前が父親って呼べるのは、あいつがお前に裕福で穏やかな生活を与えたからだろ? でも、俺がもらったのは、何度も死にかける日々だった。うちの母さんは、他人に家庭があるのを知ってて付き合うような人じゃない。きっと、あいつに騙されて子供ができたのに、あいつは一切関わろうとしなかった。母さんを見捨てたんだ」穏やかで上品な印象だった晴臣が、過去を語る今、その顔には確かな感情が滲んでいた。あの深い瞳も、どこか紅く揺れていた。征爾への憎しみが、無いはずがなかった。ひとりで妊娠し、大火で命を落としかけた母親。薬を使わず、子供を守ろうと必死に痛みに耐えた――その姿を想像するたび、心が引き裂かれるようだった。智哉は晴臣をじっと見つめ、かすかにか
彼はあまりの痛みに、呼吸すら忘れそうになった。眉をひそめながら奈津子を見つめ、できる限り優しい声で言った。「安心してください。絶対に誰にも彼を傷つけさせない」その言葉を聞いた奈津子は、ようやく彼の腕をそっと離し、少しずつ落ち着きを取り戻していった。晴臣は彼女を抱きしめ、目には何とも言えない感情が滲んでいた。その様子を見て、智哉は強く布団を握りしめた。晴臣と奈津子が、過去にどれだけ命を狙われてきたか。想像するだけで胸が痛んだ。そして、その命を狙った人物が誰なのか、彼にはもうほとんど見当がついていた。きっと、それは母・玲子——だから奈津子はあんなにも激しく反応したのだ。智哉の胸がずきんと痛んだ。晴臣を見つめ、低い声で問いかけた。「カウンセラーを呼んだ方がいいんじゃないか?」晴臣は首を振った。「大丈夫。今は落ち着いてる。ただ、毎回発作があると体力が消耗して、半日はぐったりしちゃうんだ」佳奈がすぐに奈津子を支えて言った。「おばさん、ベッドで横になりましょう」奈津子はふらふらと歩きながらベッドへ向かい、ゆっくりと身体を横たえた。佳奈は布団をかけてやりながら、そっと声をかけた。「私たちがそばにいます。誰にもおばさんやお兄ちゃんを傷つけさせません」奈津子は涙ぐんだ目で佳奈を見つめた。「佳奈、晴臣は小さい頃からたくさん苦労してきたの。あの子を捨てないで、ちゃんと幸せにしてやって……お願い」その言葉を聞いて、佳奈の目に一気に涙が溢れた。彼女は何度も何度もうなずいた。「晴臣は私にとって一番大切な兄です。絶対に離れません。安心してください」そう言って、彼女はそっと奈津子の額を撫で、柔らかくささやいた。「少し眠ってください。私がここにいます」奈津子はゆっくり目を閉じ、やがて穏やかな寝息を立て始めた。佳奈はその手を最後まで握りしめ、片時も離れようとしなかった。征爾はベッドのそばで静かに立ち尽くし、奈津子の顔をじっと見つめていた。なぜだろう、この女性にどこか見覚えがあるような——心の奥を、まっすぐ射抜くようなこの感覚は何なのか。まさか、本当に過去に付き合っていて、その記憶を失っているだけなのか?けど、当時自分が好きだったのは玲子だったはず……そ
晴臣はすぐさま駆け寄り、母を抱きしめて宥めた。「お母さん、怖がらなくていいよ。俺が絶対に守るから」奈津子は必死に首を振り、完全に取り乱していた。口の中ではずっと繰り返していた。「彼女がうちの子を殺すって、早く助けて、殺されちゃう、まだあんなに小さいのに……」征爾はそんな奈津子の姿を見て、胸が締めつけられるような痛みを感じた。彼は玲子の膝に思いきり蹴りを入れ、氷のように冷たい声で言い放った。「死にたいのか」玲子は数歩よろめき、車椅子に尻もちをついた。奈津子の顔を見つめながら、彼女の口にした言葉を思い出し、悔しそうに歯を食いしばった。「征爾、あんた他の女のために私を殴るなんて、あんまりじゃない?いくら私が悪くたって、子供まで産んで育てたのよ?そんな仕打ちってある?」征爾は彼女の言葉に怒りでこめかみに青筋を立てた。VIP病棟のフロアに到着すると、彼は奈津子と佳奈を庇いながらエレベーターから降りた。そして冷たく命じた。「このイカれた女を連れて帰れ。俺の許可があるまで、絶対に外に出すな」「征爾、どうして他の女は私の子に会えるのに、私には会わせてくれないの?もうあの女とできてるんでしょ?だから私と離婚したいのね」征爾は、奈津子が恐怖で震えているのを見て、なおも追い詰めてくる玲子に怒りを爆発させた。手を振り上げて、彼女を平手で打った。「玲子、いい加減なことを言うんじゃねぇ。今すぐ黙れ、さもないと、殺すぞ」玲子はその一撃で目が回るほどの衝撃を受けた。ちょうどその時、もう一台のエレベーターから佳奈が降りてきた。手には薬の入った袋を持っている。この場の様子を見た瞬間、佳奈は思わず立ち止まった。無意識に両手でお腹を庇う。玲子が暴れたら、お腹の子に何かあるかもしれないと恐れたのだ。しかし、その仕草を玲子は見逃さなかった。彼女の目に陰険な光が宿り、すぐに泣き顔を作って佳奈にすがりついた。「佳奈、お願い、智哉に会わせて。ほんの一目でいいの。あの子、まだ目を覚まさないのよ。心配で眠れないの」佳奈は玲子が近づいてくるのを見て、驚いて身を引いた。冷たい目で彼女を睨みつけながら言った。「智哉がどうしてケガしたか、あなたは分かってるでしょ?目を覚ましてたとしても、一番会いたくないのはあなただと
晴臣はどこか余裕のある笑みを浮かべた。「俺の記憶が正しければ、お前と佳奈ってまだ籍入れてないよな?彼女は法的にはまだ独身のはずだ」「お前、何が言いたい?まさか佳奈を俺から奪うつもりか?忘れるなよ、佳奈が好きなのは俺だ。お前なんて、子供の頃のただの遊び相手にすぎない」「気持ちは変わるもんだ。俺がその気になれば、佳奈はいつだって俺の元に戻ってくる」「晴臣、貴様……!」「俺にその気があれば、って話だ。お前が少しでも佳奈を不幸にするようなことがあれば、俺はいつだって彼女を連れて行く。信じないなら、見ていればいい」晴臣は電話をベランダで受けていたため、部屋の中にいた人間は、二人のやり取りをまったく知らなかった。電話を切った後、彼はしばらく静かに外の景色を見つめていた。佳奈は、自分が子供の頃から守ってやりたかった人だ。彼女にはずっと、幸せでいてほしかった。でも今、智哉が彼女に与えているのは、傷ばかりだ。美桜に玲子、どっちも彼女にとっては爆弾のような存在。もし本当に玲子が美智子を殺した犯人だったとしたら——佳奈はそれを受け止めきれるのか。そんな時、背後から奈津子の声が聞こえた。「晴臣、私たちも佳奈について智哉の様子を見に行きましょう」晴臣はすぐに立ち上がり、クローゼットから上着を取り出して奈津子に着せ、彼女の腕をそっと支えた。「お母さん、まだ傷が治ってないんだから、ゆっくり歩いてください」数人で歩きながらエレベーターに乗り込む。エレベーターが十階に到着した時、誰かが車椅子を押して入ってきた。奈津子は反射的に後ろへ下がろうとしたが、足が車椅子の車輪に引っかかり、体が前のめりにエレベーターの壁へと倒れかけた。その瞬間、征爾が素早く腕を伸ばし、奈津子をしっかりと抱きとめた。おかげで傷口がぶつかることもなく、事なきを得た。奈津子は彼の体から漂う、懐かしい匂いに胸が詰まり、目に涙が浮かんだ。彼のことを、ずっと求めていた。もっと近づきたかった。もっと、彼を感じたかった。征爾は奈津子のうるんだ目尻を見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。しかも、それだけではなかった。ずっともう機能しないと思っていた部分が、明らかに反応しているのを感じた。征爾は驚いて奈津子を見つめた
智哉は落ち着き払った表情で言った。「餌を撒け。大物が食いつくのを待とう」四大家族を動かして高橋グループに挑んでくる奴が、果たして何者か、見せてもらおうじゃないか。そう思いながら通話を切った智哉は、佳奈が病室のドアに手をかけていることに気づく。「どこ行くの?」そう声をかけると、佳奈は振り返って優しく笑った。「奈津子おばさんの様子を見に行ってくるわ。あなたは高橋叔父さんと会社の話してて」智哉は彼女をじっと見つめ、どこか寂しげに口を開いた。「高橋夫人……旦那は今、植物状態なんだよ?介護が必要なんだ。そんな俺を一人にして、他の男に会いに行くのか?」佳奈はふっと笑みを深めた。「あなたと高橋叔父さんは会社の話中でしょ?私がいたら邪魔でしょ。すぐ戻るわ」智哉が返事をする前に、佳奈はスタスタと部屋を出て行った。征爾も立ち上がり、にべもなく言い放った。「お前に介護されるようなもん、特にないだろ。一人で大人しくしてろ。俺も佳奈と一緒に奈津子を見てくる」そして彼は、急ぎ足で佳奈の後を追って出ていった。智哉はベッドの上で歯ぎしりしながら、その背中を睨んだ。——父さんの目つき……あれは絶対、奈津子に気がある。最近、病院に来てるくせに、自分の病室にはちょっと顔を出すだけで、あとは奈津子の病室に入り浸ってる。どう考えても、昔から何かあったとしか思えない。智哉はすぐにスマホを取り出し、高木にメッセージを送る。【父さんと晴臣のDNA鑑定、急ぎで】10分が経過しても、佳奈は戻ってこない。我慢できなくなった智哉は電話をかけた。その頃、佳奈はソファに腰掛け、晴臣が作ったストロベリーアイスケーキを食べていた。スマホの画面に智哉の名前が表示されると、急いで応答ボタンを押す。電話の向こうから、掠れたような低い声が聞こえてきた。「佳奈、奈津子おばさんの具合はどう?傷は順調に治ってる?」佳奈は口元のクリームも拭かず、急いで答えた。「順調よ。お医者さんもあと2、3日で退院できるって」智哉は意味ありげに「へぇ」と声を漏らす。「何かあったのかと思ったよ。君と父さん、なかなか戻ってこないからさ」佳奈は時計を見て笑った。「まだ10分も経ってないわよ?」「そっか。俺にはすごく長く感じたけどね。きっ
征爾は一切容赦なく玲子の襟元を掴み、そのまま床へ叩きつけた。その瞳には、憎しみ以外の感情は一切浮かんでいなかった。「玲子、よく聞け。お前は智哉が目を覚ますことだけを願ってろ。もし彼が死んだら、お前も無事じゃ済まねぇからな!」玲子は怯えきった顔で首を振り、涙を流しながら懇願した。「征爾、ごめんなさい、全部私が悪かったの、ちょっと脅かすつもりだっただけで、あんなに火が回るとは思わなかったの。智哉が私を助けようとするなんて、本当にごめんなさい。お願い、せめて一目だけでも会わせて。あの子は私の体から生まれたんだから、あの子が病院で昏睡してるなんて、私の心は針で刺されるように痛むのよ」だが、征爾は彼女の首をがっしりと掴み、怒りに満ちた声で唸った。「心が痛むだと?自責で狂いそうだと?それでいい。俺の息子は重傷を負って生死の境をさまよってるんだ。お前だけが楽になれると思うな。智哉が昏睡してる間、俺は毎日お前を苦しめてやる。死ぬより辛くしてやるよ!」玲子は呼吸ができなくなり、顔が紫色に染まっていく。喉が潰れそうになる中、彼女はこれまで見たことのない征爾の怒りを目の当たりにした。ああ、やっぱり本当に智哉は植物人になったんだと、内心でほくそ笑んだ。だが同時に、彼女の目からは自然と涙がこぼれていた。征爾は彼女が本当に死にかけているのを見て、ようやく手を離し、力任せに床へ放り投げた。そのまま踵を返して、智哉の病室へと向かった。病室のドアを開けた瞬間——さっきまでの怒気がすっかり消え、顔には柔らかな表情が戻っていた。佳奈を見るその目は、どこまでも優しい。「佳奈、君のおばあちゃんが鶏スープを作ってくれた。熱いうちに飲んでください」そう言って、自らお椀によそい、佳奈の手元にそっと渡した。ベッドで横たわる智哉は、溜息混じりにぼやいた。「父さん、俺、まだ生死不明の状態なんだけど、もうちょっと気遣ってくれてもいいんじゃない?」征爾は彼をちらっと見て、あっさりと言った。「お前はもう植物人間だ。今さら心配しても仕方ないだろう。高橋家の血筋を守るためには、佳奈と子どもを大事にしないとな」「なるほど。じゃあ、俺が早く死んだ方が都合いいってことか。俺が死ねば、佳奈がそのまま家督を継げるわけだ」「まあ、そういうことだな。お
知里は目を大きく見開き、しばらく固まっていた。十数秒ののち、ようやく我に返った彼女は、今自分が何をされたのかを理解した。あのクソ男にキスされた……しかも、ディープに。舌まで入れてきやがった。これはあたしの初キスだったのに!怒りが込み上げた知里は、思い切り誠健の唇に噛みついた。「いってぇ!」誠健は苦痛に顔をしかめ、すぐさま口を離した。「知里、お前犬かよ!」知里は怒りで目を吊り上げた。「こっちのセリフよ!なんでキスすんのよ!?さっきのクズ野郎とやってること変わらないじゃない!」誠健は唇の血を指で拭いながら、ニヤリと笑った。「助けてやったんだから、ちょっとくらい報酬あってもよくね?」「報酬もくそもない!緑影メディアの御曹司だかなんだか知らないけど、私があんたなんか怖がると思ってんの?警察に突き出してやろうか、わいせつ行為で!」「恩を仇で返すとか、まじでお前……図々しいにもほどがある。もういい、家に連れて帰る」そう言うと、彼女の手首を掴み、強引に出口へと引っ張っていった。しかし、まだ数歩も行かないうちに、玲央が慌てて駆け寄ってきた。「知里、ちょっとトイレ行くだけって言ってたのに、全然戻ってこないから心配したじゃん。何かあったの?」彼は誠健を睨みつけながら指をさす。「お前、知里に何かしたのか?」誠健は余裕の笑みを浮かべながら、知里としっかり手を繋いだ手を高く掲げた。「カップルがイチャついてただけだ。見苦しいから、さっさと消えろ」玲央は目を見開いて驚いた。「知里、この人が君の彼氏?」知里は否定しようとしたその瞬間、誠健が先に口を出した。彼は彼女の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。「否定してみろ?そしたらこの男、今すぐ業界から消してやるよ。試してみるか?」知里は歯を食いしばり、ぼそりと呟いた。「卑怯者!」「男が少しぐらい卑怯なのは、スパイスってもんだろ。知らなかったか?」「なにがスパイスだよ?!絶対認めるもんか、そんな彼氏なんて!」そう言い放ち、彼女は玲央の方を向いた。「ただの友達よ、玲央さん。もう行きましょう。あとで記者会見があるから」彼女は一切振り返ることなく、まっすぐ会場の方へと歩き出した。その背中を見つめながら、誠健は苦笑混じりに悪態をついた。