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第403話

Author: 藤原 白乃介
佳奈を案内していたスタッフは床に倒れており、佳奈の姿はすでにどこにもなかった。

智哉はすぐに佳奈に電話をかけたが、流れてきたのは「おかけになった電話番号は電源が入っていない……」という冷たい音声だった。

握りしめたスマホを通して、指先は血の気が引き、目には獰猛な怒りが宿る。

まさか婚礼用のドレスショップにまで、やつらの手が伸びているとは思わなかった。

自宅には厳重な警備を敷き、車移動中も前後に屈強なボディガードをつけていた。

それで完璧なはずだった。

だが、相手の手口を甘く見ていた。

彼のドレス注文先まで突き止めるとは――。

智哉はすぐさま高木に電話をかけた。

「佳奈がいない。今すぐ人を中に入れろ」

その十秒後、十数名のボディガードが更衣室に駆け込んでくる。

そのとき、誰かが叫んだ。

「高橋社長!この仕切りの裏に抜け道があります!高橋夫人は気絶させられて、ここから連れ出されたようです!」

「すぐに追え!」

一同は次々にその抜け道へと飛び込んだ。

このドレスショップはB市でも屈指の繁華街にあり、左右には大型商業施設が並んでいた。

抜け道は幾度も曲がりくねり、最終的に商業施設の地下駐車場へとつながっていた。

駐車場に立ち尽くし、車が行き交う様子を見ながら、智哉は拳をぎゅっと握りしめた。

佳奈はすでに車に乗せられ、連れ去られたのだ。

しかも、妊娠している彼女が犯人ともみ合いになった可能性を考えると、赤ん坊の無事さえ危うい。

智哉の胸は、見えない鉄の爪に引き裂かれるような痛みに襲われていた。

心の奥底から、熱く赤い血が噴き出すような感覚。

その声はまるで地獄の底から響く悪魔の咆哮だった。

「美桜……もし佳奈に何かあったら、貴様をバラバラにしてやる!」

すぐさま、高橋家、橘家、遠山家、藤崎家の四家合同で、捜索チームが結成された。

そこに加わるのは、名探偵・晴臣。

全員が高橋家本邸に集まり、誰の顔にも緊張が浮かんでいた。

「高橋社長、高橋夫人の携帯の最後の信号は商業施設の地下駐車場で途絶えました。ゴミ箱の中で発見されています」

智哉はリビングに立ち尽くし、拳を強く握ったまま動かない。

背中にじっとり浮いた冷汗が、シャツをしっとりと濡らしていた。

その冷たさだけが、唯一の冷静さを保たせてくれている。

自分に言い聞かせた
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