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第449話

Author: 藤原 白乃介
その声を聞いた瞬間、忠義は思わず身を引いた。

濁ったその目が声の方向を見やると、黒ずくめの智哉が陰鬱な表情でゆっくりと歩み寄ってくる姿があった。

忠義はそのときようやく悟った。

――自分は智哉の罠に嵌められたのだ。

彼は冷静を装いながら答えた。

「人違いだ。私は佐藤なんて者じゃない」

しかし智哉は冷笑を浮かべながら、忠義の目の前に立ち、その顔に被せられていたマスクを容赦なく剥ぎ取った。

そこに現れたのは、見覚えのある顔だった。

智哉は鋭く深い黒い瞳でその顔を見据え、喉の奥から低く冷えた声を漏らした。

「佐藤さん。仮面を被っていれば、俺にバレないとでも思ったのか」

そのまま、彼は勢いよく忠義の腹を蹴りつけた。

忠義の身体は十数メートルほど吹き飛ばされ、柱に激突して地面に崩れ落ち、口から血を吐き出した。

智哉の全身からは、まるで凍てついた氷のような気配が漂っていた。

――この男が、自分の結婚式を台無しにし、佳奈と子どもを殺しかけた。

その怒りが、智哉の内側から噴き出すように膨れ上がっていた。

彼は忠義の元へゆっくりと歩み寄り、その首元に足を乗せて踏みつけながら、低く鋭い声で問いかけた。

「言え。あの火事はどういうことだったんだ」

忠義は呼吸も苦しそうで、顔を真っ赤に染めながらも、歯を食いしばり、何も言わなかった。

智哉は鼻で笑い、ゆっくりと足を離し、忠義のそばにしゃがみ込んだ。

「死んだふりで逃げられると思ってるのか?高橋家が何年もお前の妻子を養ってきたのは、ただの情けじゃない。ずっと会ってないなら、俺が再会の場を作ってやるよ。

お前の孫は今、小学校に通ってる。学校は俺が選んだ。B市で一番の小学校だ。

俺は思うよ。あの子は、かつて高橋家を守って死んだ祖父に会いたがってるんじゃないか」

そう言いながら、智哉はポケットからスマホを取り出し、児童が教室で音読している動画を忠義に見せた。

その映像を見た瞬間――

忠義の中で崩れるはずのなかった壁が、崩れていった。

彼はずっと、裏から家族の様子を見守ってきた。

孫が小学校に入学したのも知っていた。

一度、流浪者を装って学校の前で声をかけたこともある。

そのとき、孫は
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