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第756話

Author: 藤原 白乃介
彼女は思い切って目を閉じた。

心の中で、「犬に噛まれたと思えばいい」と呟く。

どれくらい経ったのか分からないが、やっと誠健がゆっくりと彼女を解放した。

おとなしくしている彼女の様子を見て、我慢できずにまた唇にキスを落とす。

「さとっち、これからもずっとこうやって素直でいてくれよな?」と笑いながら言った。

知里は瞬きを数回して、かすれた声で尋ねた。

「……もう終わったの?」

誠健はニヤリと笑い、「終わったかどうか、さとっちは感じなかったの?じゃあ、自分で確かめてみる?」

そう言って、ズボンを脱ぐ仕草をしようとした。

それを見た知里は慌てて目を手で覆い、「誠健!脱いだら本当に殺すわよ!」と怒鳴った。

誠健はズボンの手を離し、ふざけた笑みを浮かべた。

「さっきまであんなに素直だったのに、もう手のひら返し?」

「あんたのそれが壊れたら、私に責任押し付けられるのが嫌だから、仕方なくしてやったのよ」

「へぇ?それなら逆に壊れてほしいな。そしたら、ずっと君に甘えていられる理由になるだろ?」

そう言って、彼は犬のように知里の胸元に顔をすり寄せてきた。

知里は悲鳴を上げながら彼を突き飛ばし、そのままバスルームへ駆け込んだ。

逃げるように去る彼女の後ろ姿を眺めながら、誠健は口元を緩めた。

そのままベッドに横になり、布団に残る微かな花の香りを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。

やがて知里が洗面を終えて浴室から出てきた時、誠健はすでに眠っていた。

この瞬間になってようやく、彼が十数時間にも及ぶ手術をこなしたうえに、自分のことまで対応してくれていたことを思い出した。

ずっと休んでいなかったのだ。

彼女は少し罪悪感を感じながら、そっと彼に毛布をかけてやった。

それから静かに着替え、自分の部屋を出た。

そのまま会社へ向かい、マネージャーの田代を訪ねた。

知里が姿を現すと、田代は笑顔を浮かべて言った。

「知里、ちょうどよかった!今、良い台本がいくつかあるから見てくれない?」

知里は冷ややかな目で彼女を見て言った。

「田代さん、私たちはもう長い付き合いだよね。信頼関係もあったはず。でも、裏切られるとは思ってもいなかった」

その言葉を聞いた田代は驚いたように目を見開いた。

「何言ってる
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