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第97話

Author: 藤原 白乃介
彼は拳を握り締め、血走った目で裕子を見つめた。

「精神病院に入れろ。しっかり見張らせろ」

そう言い捨てて、振り返ることなく立ち去った。

佳奈が朝起きると、白川先生から電話があった。孫が軍隊から除隊したばかりで、暇を持て余しているから、ボディガードとして雇ってはどうかと。

最近の騒がしい状況を考えて、佳奈は快く承諾した。

朝食を済ませ、一人で空港まで迎えに行こうとした。

だが建物を出たところで、見慣れた姿を目にした。

智哉が黒いシャツに黒いズボン姿で、まるで暗闇から現れた神のように、彼女を見つめていた。

佳奈は昨日の智哉の言葉を思い出した。

過去は水に流そう、もう一度やり直そう。

彼女は淡く口角を上げた。

鍵を手に、駐車場へ直行する。

「佳奈」

智哉が後ろから呼び止めた。

佳奈は足を止め、ゆっくりと振り返って智哉の陰鬱な表情を見た。

冷たい声で「高橋社長、何かご用でしょうか」

智哉の指先が少し震え、掠れた声で「近くに四川料理の店ができた。お前の好きな豌豆麺がある。食べに行かないか」

佳奈は軽く笑みを浮かべ、よそよそしく「ありがとうございます。もう食べました」

「どこかに行くなら送るよ」

「結構です。自分の車がありますから」

立ち去ろうとした彼女を、智哉は後ろから抱きしめた。

男の顎が彼女の肩に乗り、熱い息が首筋に掛かる。

掠れた声が耳元で響く。

「佳奈、裕子を精神病院に入れた。もう二度とお前を困らせることはない」

佳奈の目に苦笑いが浮かぶ。

パーティーの夜の真相を、智哉が突き止めたのだろう。

でも、それがどうした。

最も苦しく、助けを求めていた時に、彼は冷たく見捨てた。

心を刺すよりも深い、この痛みは一生忘れられない。

佳奈はじっと立ったまま、動かない。

感情のない声で。

「高橋社長、もう十分でしょうか?空港まで人を迎えに行かなければなりません。遅れそうです」

そう言って、智哉の腕を無理やり解き、振り返ることなく車に乗り込んだ。

彼女の去っていく姿を見つめながら、智哉はかつてない喪失感に襲われた。

今になってようやく、大切なものが静かに自分の傍らから離れていくのを実感していた。

その時、高橋お婆様から電話がかかってきた。

「智哉、お前の大伯父の孫の斗真くんが今日B市に来るの。こちらには住むところも
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