Se connecter午前十時、会議室のモニターに灯火書房の担当者が映し出された。
マイクの音量を確認し、簡単な挨拶が済むと、オルビット側の説明が始まる。梨香子が画面共有をしながら、資料を順に送っていった。 起用予定の俳優のプロフィール。SNSでの投稿計画。都内でのイベント案。インフルエンサーを三十名招く先行体験会。 「投稿は公開の一週間前から段階的に出していきます。ハッシュタグはこちらで統一して、トレンド入りを狙います」 スライドが切り替わるたびに、数字が並ぶ。想定リーチ数、拡散率、想定インプレッション。 モニターの中の担当者は、口を挟まずに最後まで聞いていた。目立った表情の変化もない。ただ、時折手元に視線を落として何かを書き留めている。 一通りの説明が終わり、梨香子が「以上になります」と締めくくった。短い間の後、担当者が口を開いた。
「ありがとうございます。ひとつだけ、確認させてください」 穏やかな声だった。 「読書支援システムのご説明は、どちらで土曜日の午後、いつもの時間に灯が来た。 玄関で靴を脱ぎ、手を洗うと、書棚の前へ向かう。何冊か背表紙を眺めてから一冊を抜き出し、いつもの席に腰を下ろした。栞を抜いて本の間に挟み直すところまで、いつもと変わらない。 瑠衣は台所で湯を沸かしながら、その様子を横目で見ていた。先週までなら何も考えずに済んだはずなのに、今日は少しだけ視線がそちらへ向いてしまう。法事のことも、父が灯火書房へ来たことも、古い写真のことも、まだ頭の隅に残っていた。 灯はいつも通りだった。本を開く前に眼鏡を掛ける。テーブルの端へ手を置き、最初のページから静かに読み始める。瑠衣が何度か様子を見ても、こちらを気にする様子はない。「何か食べますか?」「お願いします」 返事も変わらない。瑠衣は小さく息を吐き、冷蔵庫から作っておいたものを取り出した。考えすぎていたのかもしれない。そう思いながら皿を並べると、灯が本から顔を上げた。「瑠衣さん」「はい?」「この本、続きが出ていたんですね」「この前買ったんです。まだ読んでなかったんですか?」「途中まで読んでいました」 その答えに瑠衣は少し笑った。いつもの灯だった。 昼食を終えたあとも、灯は本を読んでいた。瑠衣は向かいの席で資料を整理しながら、何気なく口を開く。法事の話をする気にはならなかった。古い写真についても、今日はまだ聞かなくていい気がした。その代わり、目の前にいる灯を見ていると別のことが気になった。「灯さんって、社長なんですよね」「はい」「なんだか、あまり社長っぽくないですよね」 灯が本から目を上げた。「そうですか?」「だって、この前も御厨さんに資料の場所を聞いてましたよね」「御厨さんの方が詳しいので」「社長なのに?」「社長でも知らないことはあります」 あまりにも普通の顔で返されて、瑠衣はまた笑った。「じゃあ、会社では皆さんに頼られてるんですね」「そうでしょうか」「そこは自分で分からないんですか?」「分かりません」 灯は本当
同窓会の会場は駅から少し歩いたところにある店だった。入口には案内板が置かれ、階段を上がると受付の机が見えた。店の中からは人の話し声が重なって聞こえている。受付で名前を書こうとしていると、後ろから声がした。「瑠衣?」 振り返ると、昔の友人が立っていた。髪型は変わっていたけれど、笑うときに少しだけ目を細める癖は昔のままだった。 「久しぶり」 「本当に久しぶり。何年ぶり?」 「十年くらい?」 「そんなになる?」 二人で顔を見合わせて笑った。瑠衣は受付で書きかけていた名前を最後まで記入し、ペンを戻した。店の奥から別の声が飛んでくる。知っている名前がいくつか聞こえた。 席へ案内されると、すでに何人かが集まっていた。結婚した人もいれば、子どもを連れている人もいる。転職したという話もあったし、まだ独身だという人もいた。昔は同じ教室にいたのに、今はそれぞれ違う場所で暮らしているらしい。 「瑠衣、こっちこっち」 手を振られて、瑠衣は空いている席へ腰を下ろした。テーブルの上には料理が並び、飲み物を注文する声が行き交っている。最初は誰の名前だったか思い出せない人もいたが、話しているうちに当時の呼び方が戻ってきた。 「そういえば、あの先生まだ学校にいるらしいよ」 「本当?」 「去年見かけたって」 「ええ……まだいるんだ」 笑い声が起きる。瑠衣も笑った。昔の話をしていると、覚えていなかったことまで少しずつ出てくる。教室の窓際の席や、放課後に寄った店の名前まで、誰かが口にするたびに思い出した。 「瑠衣は? 今どうしてるの?」 料理を取り分けながら聞かれて、瑠衣は少しだけ箸を止めた。 「仕事は辞めたの」 「え?」 「去年。いろいろあって」 詳しく聞かれたので、瑠衣は会社で関わっていた企画のことを簡単に話した。別の社員が途中から強く意見を出すようになったこと。話がまとまらなくなり、最終的には自分にも責任があるような形になったこと。そして退職したこと。 「それで、今は?」 「別のところで働いてる」 「転職したんだ」 「うん。資料整理みたいな仕事
土曜日の昼前になると、玄関の呼び鈴が鳴った。瑠衣が扉を開けると、灯がいつものように立っている。手には薄い紙袋が一つあった。「こんにちは」「こんにちは」 灯は靴を脱ぎ、揃えてから廊下へ上がった。洗面所で手を洗い、戻ってくると鞄から本を一冊取り出す。いつもの場所へ座る前に書棚の前で少し迷い、そこから別の一冊を抜いた。 瑠衣はその様子をキッチンから見ていた。先週のことが頭に残っていたせいか、灯の一つ一つの動作に目が向く。けれど灯は特に変わった様子もなく、椅子に座ると本を開いた。 ページをめくる音が聞こえる。 瑠衣は冷蔵庫から食材を取り出した。「何か食べますか?」「お願いします」 返事もいつも通りだった。瑠衣は包丁を取り出し、まな板の上へ置く。しばらくすると、肩に入っていた力が少し抜けた。 昼食を終えたあと、灯はまた本を読んでいた。瑠衣は向かいの席で食器を片づけながら、ふと思いついたことを口にした。「灯さんって、社員さんにはどんな感じなんですか?」「普通だと思います」「本当に?」「はい」 灯は本から顔を上げた。真面目に答えているらしい。その顔を見ていると、瑠衣は少しだけ笑ってしまった。「藤堂さん、そう思ってない気がします」「そうですか?」「この前も、灯さんに仕事を頼んでましたし」「社長なので」「社長なのに、御厨さんに資料の場所を聞いてましたよね」「御厨さんの方が詳しいので」 灯は当然のように答えた。 瑠衣は食器を重ねながら、先日の資料整理を思い出した。御厨は資料の棚をほとんど迷わず案内していた。氷川は紙の種類まで覚えている。藤堂も各部署の動きを把握している。「灯さんって、分からないことは普通に聞くんですね」「知っている人に聞いた方が早いですから」「社長なのに?」「社長でも分からないことはあります」 その答えがあまりにも平然としていて、瑠衣はまた笑った。 灯は不思議そうに瑠衣を見る。それから何事もなかったように本へ視線を戻した。 午後になって、瑠衣がコーヒーを淹れていると、背後から小さな息の音が聞こえた。振り返ると、灯が本を片手にしたまま口元を押さえている。「今、笑いました?」「……はい」「珍しいですね」「面白かったので」 灯は本のページを指で押さえたまま、もう一度そこを読み返している。瑠衣が近づいて表
午前中、瑠衣は資料室で古い契約書の整理をしていた。年度ごとに分けられたファイルを棚から取り出し、保存するものと確認が必要なものを机の上で分けていく。紙の端が揃っていない束を見つけるたびに、瑠衣は日付を確かめてから順番を直した。 棚の奥から取り出したファイルには、古い付箋が何枚も貼られていた。書かれている文字を確認しながら一枚ずつ剥がし、必要なものだけ新しい付箋へ書き直す。作業を始めてからしばらく経ったところで、受付の方から人の話し声が聞こえた。 瑠衣は手を止めなかった。 資料の束を揃え、ファイルを閉じる。次の箱へ手を伸ばした。 その頃、灯火書房の受付には見覚えのある男性が立っていた。「相沢灯社長にお取次ぎいただけますか」 藤堂が顔を上げる。「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」「江品です」 藤堂は一度だけ相手の顔を確認した。「承知しました。社長がお話ししますので、少々お待ちください」「お願いします」 藤堂は内線を取り、来客があることを灯へ伝えた。ほどなくして応接室の準備が整い、父は案内されていった。 資料室には、そのことを知らない瑠衣がいる。 応接室では、灯が向かいの席に座っていた。「ご無沙汰しています」「こちらこそ」 父が持参した資料を机の上へ置く。灯はそれを受け取り、表紙を確認してから中を開いた。「こちらの件ですね」「ええ。先方から確認がありまして」「分かりました。担当に確認しておきます」 父が資料の一箇所を指差す。「この数字なんですが、先方では前回のものと違うと言っていまして」 灯はページを一枚戻した。「前回はこちらです。今回の数字は契約条件が変わった後のものですね」「ああ……そうでしたか」「念のため、担当から改めて説明させます」「お願いします」 父が頷く。 仕事の話だけなら、二人の間に特別な違和感はなかった。資料のページがめくられ、日付と案件名が確認される。必要なことだけが短く交わされていく。「では、こちらは後ほどご連絡します」「助かります」 父が資料を閉じた。 そこで、ほんの少し間が空いた。「……親父も、最後までお前のことを気にしてたよ」 灯の指が、閉じた資料の端に触れた。「そうですか」「あの人は昔から面倒見がよかったからな」 父は椅子の背へ体を預けた。懐かしむような口調だっ
午前中、瑠衣は資料室の奥で古い段ボール箱を開けていた。 表面は日に焼けて茶色く変色し、テープの跡がいくつも重なっている。角が少し潰れ、持ち上げるとかすかに軋む音がした。蓋を開けると、埃っぽい紙の匂いが立ちのぼった。奥の棚の隙間から、長年動かされていなかったことが分かる薄い埃の層が見えた。窓から差し込む光の中に、埃が細かく舞うのが見えた。 中には、灯火書房の創業当時のものらしい書類が詰まっていた。 手書きの帳簿。角の擦り切れたパンフレット。インクの色が薄くなった契約書の控え。表紙に書かれた年号は、瑠衣が生まれるよりも前のものだった。ひとつひとつを丁寧に取り出しながら分類していく。紙は乾いていて、扱うたびにかすかな音を立てた。 帳簿のページをめくると、几帳面な数字の並びが目に入った。誰の字なのか、瑠衣には分からなかった。パンフレットの隅には、今とは違う古いロゴマークが印刷されていた。 書類の束の下に、封筒に入った写真が何枚か重なっていた。封筒の紙はすでに黄ばみ、端が少し丸まっている。瑠衣はその封筒を手に取り、中身を確認しようとした指を止めた。何が入っているのか分からないまま、しばらく手のひらの上で重さを確かめていた。封筒の隅には、消えかけた鉛筆書きで日付らしき数字が記されていた。 封筒の口を開け、一枚を取り出す。 写真は全体的に色が褪せ、赤みがかった色調になっていた。小さな事務所らしき場所に、数人の男女が並んで写っている。机の上には古いタイプライターが置かれ、壁には手描きの案内板のようなものが掛かっていた。今の灯火書房とは違う、狭く簡素な部屋だった。段ボール箱が壁際に積まれ、床には配線コードがむき出しのまま這っている。窓には今はもう使われていないタイプのカーテンが掛かっていた。 端のほうに、まだ若い灯が写っていた。今よりも髪が長く、表情も硬い。少し緊張したような立ち姿で、カメラのほうをまっすぐ見ていた。 その隣に立つ人物の顔に、瑠衣は目を留めた。目尻の皺の寄り方、少し傾いた立ち方に、見覚えがあった。「......おじいちゃん」 声に出してから、瑠衣は思わず周囲を見渡した。資料室には誰も気づいた様子がない。御厨は棚の前で資料を確認しており、氷川は隅の机で別の作業に没頭していた。窓の外を、鳥の影が一羽横切っていった。 瑠衣はもう一度、写真に視
午後の資料整理をしていた瑠衣のスマートフォンが机の上で震えた。画面には母の名前が表示されている。手を止めて確認すると祖父の法事についての連絡だった。日時と場所を確かめてから短く返信する。しばらく画面を見ていたが、追加の連絡が来る様子はなかった。瑠衣はスマートフォンを伏せ、開いていた資料へ手を戻した。「ご家族の用事ですか?」 向かいの机から藤堂が顔を上げている。「祖父の法事です」「それは行かないとですね」「はい」 瑠衣はスマートフォンを鞄へしまった。資料の端を揃えてから、途中だった数字の確認を続ける。藤堂もそれ以上は聞かなかった。隣の机では御厨が画面を見たまま作業を続けている。いつもの午後だった。 法事の日は朝から曇っていた。駅から歩いていくと寺の門が見えてくる。境内にはすでに何台か車が停まっていて、親族らしい人たちが本堂へ向かっていた。見覚えのある顔もあれば、名前の分からない人もいる。瑠衣は軽く頭を下げながら、その中を通った。 靴を脱いで中へ入ると、父がすぐに気づいた。「せっかくの会社を辞めて、今はどうしてるんだ」「働いてる」「どこで?」「出版社」 父は一度瑠衣の顔を見てから、隣にいた親戚へ視線を移した。「出版社か。前よりはいいのか?」「普通」 母が横から口を挟む。「お給料は大丈夫なの?」「大丈夫」「そう」 母はそれ以上聞かなかった。瑠衣が座布団へ座ると、少し離れたところにいた真衣がこちらを見る。以前より大きくなったお腹を抱えるようにして座っていた。「お姉ちゃん、仕事辞めたんだっけ?」「うん」「ああ、そう」 真衣はそれ以上何も言わず、お腹へ手を添えた。瑠衣も正面へ向き直る。母が親戚の誰かと話し始め、父は別の人に呼ばれて席を
金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ
目が覚めた瞬間、ここが自分の家ではないことを思い出した。 天井が違う。染みがない。高い。白い。 ソファで寝ていた。ベッドは二階にあったが、昨夜は上がる気力がなかった。体を起こすと、リビングの壁一面の本が目に入った。昨日からそこにあった本が、今朝もそこにあった。当たり前だった。 スマホを見た。会社からの着信が二件入っていた。上司の番号だった。折り返した。 「無理して来なくていいぞ」 「出ます」 少し間があった。 「そうか」 それだけだった。電話が切れた。シャワーを浴びて、スーツに着替えた。 株式会社オルビット・コミュニケーションズ。広告代理店。勤続六
駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もい