เข้าสู่ระบบ金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。
なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。 灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。 「こんばんは」 「こんばんは」 それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。
先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたのを思い出した。本が読みたい頻度が、週一ということなのか。
食事の準備ができた頃、地下から灯が上がってきた。手ぶらだった。今日は探し物が見つからなかったらしい。
テーブルについて、食べ始めてから聞いた。 「毎週来るんですか」 「本が読みたいので」 家に来るのではなく、本に来る。即答だった。迷いがなかった。 「そうですか」 「はい」 それ以上の説明はなかった。灯は味噌汁を一口飲んで、特に何も言わなかった。食後、灯は地下に戻った。
手伝えることもないので、瑠衣は台所を片付けてから地下書庫の扉を開けた。完全に入るつもりはなかったが、先週より少し踏み込んだ。 灯は別の棚の前にいた。背表紙を一冊ずつ指でなぞっていた。 「全部読んだんですか、ここにある本」 「覚えていません」 「覚えていない」 「昔読んだ本は、内容よりどこに置いたかの方を忘れます」 意味がわからなかった。内容を覚えていてどこに置いたか忘れるなら理解できる。どこに置いたかを忘れるのに内容は覚えているということか。それとも両方忘れるということか。 「内容は覚えているんですか」 「だいたいは」 「じゃあ何が問題なんですか」 「場所です」 数万冊あって、場所がわからない。それで毎週来て梯子に乗って探している。 「ラベルとか、管理する方法はないんですか」 「考えたことがありません」 本当になかったらしい。考えたことすらなかった顔をしていた。一階に戻った。
リビングのテーブルに、灯が持ち込んだ本が何冊か積んであった。地下から持ち上げてきたものらしかった。今日は探し物が見つからなかったのに、別の本は持ってきていた。 一冊手に取った。薄い本だった。タイトルは横文字で、読めなかった。 「これ面白いんですか」灯が地下から戻ってきた。瑠衣が持っている本を見た。
「面白いです」 「どんな話ですか」 そこから始まった。 「チェコの作家で、一九三〇年代に書かれた短編集です。当時チェコでは政治的な検閲が厳しくて、この作家は直接的な批判を避けるために全部寓話の形式で書いていました。チェコ語の原文はリズムが特徴的なんですが、最初に翻訳されたドイツ語版でそのリズムが完全に失われてしまって、その後の各国語訳はドイツ語版を底本にしているものが多いので——」 「少し待ってください」 「はい」 「今どこまで話しましたか」 「チェコ語です」 即答だった。どこまで話したかを、正確に把握していた。 「続けますか」 聞いてきた。本人は続けるつもりでいた。 「どうぞ」 「チェコ語のリズムを日本語で再現しようとすると、文体がかなり特殊になります。この翻訳を手がけた人が当時かなり高齢で、翻訳のスタイルが今の読者に少し読みにくいと言われているんですが、私はこの読みにくさがチェコ語のリズムの残響だと思っていて。もし今の読みやすい文体で翻訳し直したら、たぶん別の本になります。出版社がなかなか新訳を出さないのは採算の問題だと思いますが、個人的には出してほしくない気持ちもあります。本の紙質もこの時代の翻訳書は独特で、触った感じが今の本と全然違います。この本は昭和四十年代の印刷なんですが——」 「また待ってください」 「はい」 「今どこまで話しましたか」 「紙です」 また即答だった。 瑠衣は少し考えた。チェコの政治から始まって、翻訳理論を経由して、紙質の話になっていた。どこで止めるべきかの判断が灯の中にはないらしかった。本の話が始まると、止まる地点がなかった。 「本当に好きなんですね」 「そうですね」今度は即答ではなかった。少し考えてから答えた。自分でも確認したような間だった。
灯がソファに座って、持ってきた本のうちの一冊を開いた。読み始めた。 瑠衣はテーブルの向かいに座って、さっきまで灯が話していた薄い本を眺めた。読めない横文字のタイトル。チェコの作家。一九三〇年代。検閲。寓話。 正直なところ、最初は退屈だと思っていた。知らない国の知らない作家の話を、知らない出版事情と一緒に延々と聞かされても、面白いかどうかわからなかった。 でも灯は楽しそうだった。 あの人が一番喋っていた。今日これまでの会話で、本の話以外に発した言葉の三倍は喋っていた。声のトーンが変わっていた。普段は言葉を選んで最小限だけ出すような話し方をするのに、本の話になると選ぶ前に出てくる感じだった。 「叔父さんって変な人ですね」 口から出てから、失礼だったかもしれないと思った。 沈黙があった。 「よく言われます」 真顔だった。 吹き出した。 笑うつもりはなかったが、出てしまった。声が出た。今日初めて声を出して笑った。 灯は首を少し傾けていた。何が可笑しいのかわからないらしかった。その顔がまた可笑しくて、もう少し笑った。 「何がおかしいんですか」 「よく言われますって」 「事実なので」 「そうですね」 「はい」 また笑えた。灯は本に視線を戻した。本人は笑っていなかった。ただ静かに本を読んでいた。しばらくして、灯が帰る準備を始めた。本を鞄にしまって、立ち上がった。
玄関まで来て、靴を履いた。 「また来るんですか」 聞いてから、引き留めたみたいだと思った。そういうつもりではなかった。ただ確認したかっただけだった。 「本がありますので」 やっぱり本だった。 扉が閉まった。 ソファに戻った。 静かだった。でも先週と違って、静かなだけではなかった。さっきまで誰かが喋っていた部屋の静かさだった。チェコ語のリズムの話と、紙質の話の残りがどこかにある感じだった。 スマホを確認した。 家族からの連絡はなかった。 会社の案件メールが二件。明日返信すればいい内容だった。 それでいいと思った。 ソファに深く座って、天井を見た。 そういえば聞くのを忘れていたことがあった。家賃はどうするのか、光熱費とか水道代とか。灯にお礼を言う事すら忘れていた。 チェコの出版事情の話が長すぎたからだと思った。 瑠衣は少し笑った。 変な人だな、と思った。 でもそれだけだった。それ以上でも、以下でもなかった ただ、また来週も革靴があったら、今日みたいに少し安心するんだろうと思った。仕事帰りの電車の中で、今日の案件を頭の中で整理していた。 クライアントへの確認事項が二点残っていた。明日の午前中に連絡すれば間に合う。企画書の修正は夜にやろうと思っていたが、帰宅してから考えることにした。最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。 門を開けて、玄関の鍵を差した。扉を開けた瞬間、足が止まった。 革靴があった。 揃えて置かれていた。見覚えのある、状態の良い革靴だった。 口元が少し緩みかけた。気づいて、止めた。 鞄を持ち直して、リビングへ向かった。 気配は地下からした。 書庫の扉が開いていた。明かりがついていた。降りると、灯が脚立の上にいた。白いシャツに黒いパンツ。袖を肘までまくって、上段の本を一冊ずつ取り出して並べ替えていた。 脚立の高さは天井近くまであった。「危なくありませんか」 灯が少し首を傾けた。脚立の上で、手は本棚に向けたまま、こちらを見た。「落ちたことはありません」「そういう問題じゃなくて」「ありがとうございます」 それだけ言って、また本棚に向いた。礼だけ受け取って、心配の続きは受け取らなかった。脚立を降りる動作を横から見ていた。 無駄がなかった。ゆっくりでも速くでもなく、必要な動きだけで降りてきた。四十代だとは思っているが、動きに年齢を感じなかった。「整理しているんですか」「順番が気になったので」「どんな順番ですか」「出版年です。著者別にすると探すとき分かりやすいですが、出版年順にすると時代の流れが見えます」「両方あった方が良くないですか」「どちらかを選ぶ必要があります」 そう言って、また脚立を上った。今日は出版年順を選んだらしかった。 出版年順。著者別より不便に思えたが、灯がそう決めたなら理由があるのだろうと思った。この家の本棚の順番を、自分ではなく灯が決めている。そのことを、おかしいとは思わなかった。 夕食は冷蔵庫にあった残り物に、帰りに買ってきたコンビニの惣菜を足した。大した食事ではなかった。 灯は「いただきま
朝、玄関を見た。 革靴がなかった。当たり前だった。灯は昨夜帰っていた。わかっていたのに、一瞬だけ確認してしまった。 台所へ行くと、流しにコップが一つ置いてあった。灯が使ったものだった。洗われていなかった。洗おうとしたのかもしれないし、そのままにしていったのかもしれない。どちらかは分からなかった。 リビングを見た。椅子がきちんと元の位置に戻されていた。灯が座っていた椅子だった。食事のあと、立ち上がる前に押し込んでいった。そういう人だった。 昨夜誰かがここにいた証拠は、流しのコップと、戻された椅子だけだった。 瑠衣はコップを洗って、支度をして、会社へ向かった。 第一営業局は朝から忙しかった。 メールを開くと昨夜のうちに三件来ていた。一件はクライアントからの修正依頼、一件は社内の会議日程の調整、一件は別案件の納期確認だった。順番に返信した。 電話が鳴った。「江品さん、お世話になっております」メーカーの担当者だった。先週入稿した素材に差し替えが出たという話だった。「分かりました。こちらで対応可能な日程をお調べしますのでお待ちください」 すぐにPCの画面を開く。内容を確認して、対応可能な日程を伝えた。「ありがとうございます。またその日に改めてご連絡させていただきます」 電話が切れた。瑠衣はひとつ息を吐いて、先ほどのやりとりの要点をまとめるためにキーボードに手を置いた。 午前中はそのまま終わった。 昼休みに弁当を食べながら、午後の会議の資料を見直した。修正が必要な箇所が二か所あった。「お疲れ様です、江品さん」 隣のデスクの男性社員、正木が座って来た。「今日も弁当ですか」「はい。確認したいことが多すぎて、外に出る暇がないので」 言葉にしたあと瑠衣はハッとした。正木はランチを終えた後だった。彼は瑠衣の気まずそうに小さく『すみません』と呟いた言葉を聞き逃さなかった。軽く笑った。「江品さんはきっちりした性格なんですね。俺も自分の仕事の進捗が気にならない訳ではないですけど、外に出てリフレッシュするのも大事かなと思って」 正木は紙の資料を整理を始めた。「最近、江品さんなんか頑張りすぎのような気がして。無理しないで下さいね。息抜きとかされてます?」「まぁほどほどには」「なら良かった」 独身とは聞いていたが、正木の笑顔は本心のものだろう
その夜、灯は手ぶらで来た。 革靴はあった。しかし地下書庫へ向かわなかった。鞄もいつもより小さかった。本が入っている鞄の重さを、いつの間にか判別できるようになっていた。今日は入っていなかった。「読むものがなくなったんですか」「そういうわけではないです」 それだけだった。説明はなかった。なぜ来たのかも言わなかった。靴を脱いで、いつものようにリビングへ向かった。 夕食は豚汁と焼き魚だった。 二人分作る方が自然になっていた。それが習慣になったのがいつからなのか、正確には覚えていなかった。灯が来なければ、翌日の朝食に回せばいいだけの話だった。 テーブルについた。食べ始めた。静かだった。 今日は本の話も出なかった。地下書庫の話も出なかった。灯は豚汁を一口飲んで、特に何も言わなかった。瑠衣も特に話題を作らなかった。沈黙が気まずいわけではなかった。ただ静かな食卓だった。 半分ほど食べたところで、灯が口を開いた。「実家には行きましたか」「先週行きました」「どうでしたか」少し考えた。「変わっていなかったです」「そうですか」「帰りたい場所じゃないとわかりました」 灯は頷いた。焼き魚に箸をつけた。 感想も評価もなかった。同情もなかった。ただ聞いて、受け取った。それだけだった。 食事が終わった。灯が皿を重ねた。「いいです、置いておいてください」「そうですか」 本当に置いた。いつもと同じだった。 しばらくソファで本を読んでいたが、今日はいつもより早く帰り支度を始めた。鞄を持って、玄関へ来た。靴を履いた。「ごちそうさまでした」「いえ」 扉が閉まった。 今日、何しに来たのかわからなかった。 本を読みに来たわけでも、探し物があったわけでも、用事があったわけでもなかった。ただ来て、食事をして、少し話して、帰った。 不思議な人だった。 台所を片付けながら、今日の食卓を思い返した。変わっていなかった、と言ったとき、灯は何も言わなかった。帰りたい場所じゃないとわかった、と言ったときも、何も言わなかった。ただ「そうですか」と言った。 それで十分だった。 ソファに戻った。静かだった。 いい夜だと思った。 スマホを手に取った。 画面が光っていた。 真衣からの通知が十七件来ていた。 開いた。写真が大量に送られてきていた。 ホテルのロビー
電車の窓の外に、見慣れた景色が流れていた。 子供のころから何百回と見てきた風景だった。駅のホーム、踏切、団地、川。昔は実家に帰るたびに、この景色が見え始めると少し安心した。もうすぐ帰れる、という感覚があった。 今は何も感じなかった。 それでも電車に乗っていた。本当は来たくなかった。ただもう一度だけ確認したかった。自分の目で見て、肌で感じて、それでも同じ答えが出るなら、次からは迷わなくて済む。そのために来た。 乗り換えが一回あった。乗り換えのホームで、学生のころよく買っていたパン屋が閉まっているのに気づいた。シャッターが降りていた。跡地に別の店が入っていた。 何年前に閉まったのか、知らなかった。 実家の前に立った。 インターホンを押す前に、鍵を持っていることを思い出した。ただ勝手に開けて入る気にはなれなかった。ボタンを押した。「はーい」 母の声がして、ドアが開いた。「久しぶり」「そうですね」「元気そうじゃないか」 父が廊下の奥から顔を出した。 まるで何事もなかったような空気だった。少し拍子抜けした。怒鳴られるとも思っていなかったし、責められるとも思っていなかったが、もう少し何かあるかと思っていた。ただの久しぶりの帰宅として処理されていた。 リビングに通された。 テーブルの上に、カタログが何冊も広げてあった。ベビーベッド、ベビーカー、チャイルドシート。付箋が貼ってあって、母の字でメモが書き込んであった。テレビ台の横にベビー用品の箱が積んであった。部屋の中心が変わっていた。 真衣がソファから立ち上がった。「お姉ちゃん久しぶりー」 いつも通りだった。何も変わっていなかった。声のトーンも、笑い方も、こちらに近づいてくる足取りも、全部あの頃のままだった。「久しぶり」「どこに住んでるの、ちゃんとした家?」「ちゃんとしてます」「良かった。心配してたんだよ」 本当に心配していたらしかった。その顔で分かった。悪意がなかった。何かを演じているわけでもなかった。ただ、心配の中身が少し違う
休日の昼、スマホが鳴った。 母からだった。しばらく画面を見てから出た。「元気?」「まあ、そこそこは」「今どこに住んでるの」「知り合いのところです」 少し間が空いた。「そう」 住所は聞いてこなかった。聞かれても答えるつもりはなかったので、ちょうどよかった。「そろそろ帰ってきなさい」 真衣の出産準備が始まった。手伝いが必要だ。家族なんだから。家族は助け合うべきだ。 母の言い方はいつも同じだった。同じフレーズが何度も続く。瑠衣が口を挟む余地は与えない。 父に代わった。「いつまでも意地張るな」「意地を張っているつもりはないんですが。それに出て行ってくれと言ったのはそちらですよね?」「お前の部屋も空いてる」 (駄目だ、こいつら人の話を聞いちゃいねぇ) 瑠衣は聞こえないように軽く息を吐いた。「赤ちゃんの部屋じゃなかったんですか」 沈黙があった。「なんとかなる」 本気の声だった。なんとかなる、と言いながら、なんとかするのが瑠衣だという前提がすでにあった。「考えておきます」 電話を切った。 ソファに座って、天井を見た。染みのない、均一に白い天井。見慣れてきていた。 帰るかどうか。答えは電話を切った瞬間にはもう出ていた。 別のことを思い出していた。あの夜、父に呼ばれてリビングに行ったら、父の顔が妙に真剣だった。「しばらく家を出てくれ」と言った。理由を聞く前に、自分でわかった。怒りより先に、妙に冷静だった。出ていったのは自分だった。頼まれたから出たのか、自分で決めたのか、今でもよくわからなかった。 本を開いて、読まなかった。灯が地下書庫に置いていった植物学者の随筆だった。ページの上に視線を置いたまま、一行も進まなかった。窓の外で風が木を揺らして、影が床を横切った。それだけ見ていた。母の声でも父の声でもなく、あの夜のリビングの静けさだけが、ずっと耳の奥に残っていた。 夕方、玄関に革靴があった。 珍しく早い時間だった。台所に向かうと
灯が来る日に規則性はなかった。 三日続けて来ることもあれば、十日以上来ないこともあった。本人は「本が読みたい時に来ます」と言っていた。どうやら本当らしかった。来る理由が本で、来ない理由は本が読みたくないから、それだけだった。 今日は玄関に革靴があった。それだけでわかるようになっていた。- 夕食の支度を始めると、灯がスーパーの袋を台所に置いた。珍しかった。持ってきたのは初めてだった。 受け取って中を確認した。 値引きシールの貼られた総菜が一つ。豆腐が一丁。卵が六個入り。全部特売か見切り品だった。 豪邸の主が持ってきた買い物袋の中身とは思えなかった。服も同じだった。くたびれたスーツ。長く使い込まれた革鞄。ブランド品は何一つ見当たらなかった。財布も先週チラリと見えたが、量販店で売っているような黒い二つ折りだった。 三階建ての豪邸に数万冊の本を持っている人間が、見切り品の総菜を買ってくる。 噛み合わなかった。 食事中、灯が箸を置く動きが目に入った。 静かだった。音がしなかった。グラスを持つ指先も、食器を扱う所作も、妙に整っていた。意識してやっているようには見えなかった。むしろ無意識だった。だから余計に目についた。安物のスーツを着ていて、見切り品を買ってきて、それなのに所作だけが場違いなほど洗練されていた。 「叔父さんって、昔お金持ちだったんですか」 「違います」 即答だった。 「じゃあどこで覚えたんですか、そういうの」 灯は少し考えた。 「忘れました」 本当に覚えていないらしかった。 どこで身につけたかを忘れるくらい、長い間そうしてきたということなのか。それとも本当に記憶にないのか。どちらなのか判断できなかった。 「忘れるものですか、そういうのって」 「そうでもないですか」 「普通は覚えてると思います」
駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もい
「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女