เข้าสู่ระบบ駅前のベンチに座った。
キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。 「……行くか」 独り言が出た。誰もいなかった。電車を二回乗り換えて、最寄り駅から地図を頼りに歩いた。住宅街に入ると街灯が減った。十分ほど歩いたところで、地図が止まった。
見上げた。 門があった。 鉄製の、重そうな門だった。その奥に、建物があった。三階建て。灯りは全部消えているが、外から見ても広さがわかった。 違う場所かと思った。メモをもう一度確認した。番地が合っている。もう一度建物を見た。 「いや違う」 声に出たが、地図は正しかった。何度見ても住所は一致していた。 高級住宅街という言葉が頭に浮かんだ。この道を歩いてくる間にも、それなりの家は並んでいた。しかし目の前の建物は、それとも違った。豪邸、という言葉以外が出てこなかった。 今日初めて会った、安物スーツの叔父の家が、豪邸だった。鍵を差し込んだ。回った。本物だった。
玄関を開けた。広かった。 電気をつけた。廊下が長かった。リビングのドアを開けた。広かった。天井が高かった。ソファがあった。テーブルがあった。 そして本があった。 壁一面、床から天井まで、本棚だった。リビングの壁が全部本棚だった。廊下に戻って改めて見ると、廊下の壁にも棚があって、本が並んでいた。 奥に扉があった。開けると階段があって、下に続いていた。降りた。 地下だった。 広い部屋があった。壁どころか、部屋の中心にも棚が並んでいた。本棚が島を作っていた。図書館の参考書コーナーのような配置で、本が詰まっていた。背表紙を眺めた。文学、歴史、自然科学、哲学、経済、児童書、洋書。ジャンルが混在していた。数えられる量ではなかった。 「図書館……?」 声が壁に吸い込まれた。一冊抜いてみた。ハードカバーの、分厚い本だった。奥付を見ると、二十年以上前の版だった。ページを開くと、余白に鉛筆の書き込みがあった。小さな字で、何か書いてあった。読もうとして、やめた。他人の本だった。棚に戻した。数万冊の中の一冊が、元の場所に収まった。
一階に戻った。
リビングのテーブルの上に封筒があった。名前は書いていなかった。開けると、小さなメモが一枚入っていた。 『ご自由にお使いください』 それだけだった。 連絡先がなかった。説明がなかった。ゴミの日もわからない。Wi-Fiのパスワードもわからない。緊急連絡先もわからない。普通、他人に家を貸すとき、何か書くのではないか。契約書とか、注意事項とか、最低限の案内とか。 メモをテーブルに戻した。 「何なのあの人」 誰に言うでもなかった。誰もいなかった。キャリーケースをリビングに置いて、とりあえず台所を確認した。
冷蔵庫を開けた。 缶ビールが一本あった。 他には何もなかった。冷蔵庫の中が、缶ビール一本だけだった。誰のものかわからなかった。灯が置いていったのか、元からあったのか、判断できなかった。閉めた。 棚を開けた。カップ麺が三つあった。インスタントコーヒーがあった。砂糖がなかった。 今日は何も食べたくなかった。披露宴の料理を少し食べたが、味を覚えていなかった。ソファに座った。
リビングは静かだった。時計の音だけがしていた。壁一面の本が、暗い部屋の中でただ並んでいた。誰かが読んでいるわけでも、読まれるために待っているわけでもなく、ただそこにあった。 スマホを見た。 通知が一件あった。母からの送金だった。金額を見た。 少し笑った。 子供のころから毎年お正月に渡していたお年玉を、母が通帳に積み立てていた。それと同じ額だった。ぴったり同じだった。計算したのか、偶然なのか、わからなかった。 泣かなかった。怒らなかった。 もう終わったことだと、体が知っていた。明かりを落として、窓の外を見た。
高級住宅街の夜は静かだった。車も通らなかった。隣の家との距離があるせいか、物音がしなかった。 今いるのは、今日初めて会った叔父の豪邸だった。 笑えるような、笑えないような、どちらとも言えなかった。 ソファで横になった。 スマホを手に取った。連絡先を開いた。友人の名前が並んでいた。今日の結婚式に「行かない」と返信してきた顔たちだった。心配しているだろうと思った。 連絡すれば来てくれる人間が、何人かはいると思った。しかし何も送らなかった。 今夜は誰の声も聞きたくなかった。聞いたら、何かが崩れる気がした。画面を閉じた。スマホを胸の上に置いた。 天井が高かった。見慣れない天井だった。自分の部屋の天井には染みがあって、それを見ながら眠る習慣があったが、ここにはなかった。均一に白かった。 一人だった。 家族も婚約者も友人も、そして今日この家の鍵をくれた男もいなかった。 豪邸だった。地下書庫があって、シアタールームらしき部屋も見えた。庭もあった。どう考えても、条件だけ見れば当たりだった。普通に考えれば当たりだった。 それでも、何かが足りなかった。 足りないものが何かはわかっていた。広さや設備の問題ではなかった。帰ってきたときに明かりがついていない。ただそれだけのことが、こんなに重いとは思わなかった。 帰る場所と、住む場所は、違うものだった。 起き上がって、壁の本棚を眺めた。 背表紙を端から順番に目で追った。知らないタイトルばかりだった。知っている作家の名前がたまに出てきたが、読んだことのない本だった。 どうしてこんな量の本があるのか。どうして今日会ったばかりの他人に鍵を渡したのか。 何もわからなかった。 父に聞けばわかるかもしれない。しかし父に連絡する気にはなれなかった。 席次表には「父の弟」と書いてあった。 窓の外は暗かった。 広い家に、瑠衣一人。時計だけが音を立てていた。求人票を見返す日が、何度か続いた。机の引き出しから取り出し、蛍光灯の下で文字をなぞり、また戻す。何度目かの夜、瑠衣は求人票の端がすでに柔らかくなっていることに気づいた。折り目の部分が、指の圧で白く筋になっている。手にするたび、同じ場所に視線が落ちる。その繰り返しの中で、瑠衣はある夜、パソコンを開いた。 応募フォームの画面には、いくつもの入力欄が並んでいた。氏名、経歴、志望動機。カーソルが点滅する志望動機の欄で、指の動きが止まった。エアコンの音だけが、静かな部屋の中で低く続いている。窓の外を、遠くの電車の音が一度だけ横切っていった。 しばらく考えてから、文字を打ち込んでいく。書いては消し、また書き直す。何度目かの文面で、ようやく手が止まった。 「広告代理店に勤務していた際、資料整理や企画業務に携わっていたため、貴社の業務に活かせると考えました」 打ち終えた文章を、もう一度読み返す。灯の名前は、どこにも書かなかった。個人的な関係を示す言葉は、一文字も入れなかった。文面を三度読み直し、誤字がないことを確かめてから、画面を見つめたまま、瑠衣はしばらく動かなかった。それから、送信ボタンにカーソルを合わせ、押した。画面が切り替わり、受付完了の表示が出る。それだけのことに、思ったより長く目を落としていた。パソコンを閉じたあとも、しばらく机の前に座ったままだった。 数日後、スマートフォンに着信が入った。灯火書房の採用担当者からだった。面接の日程を告げる声を、瑠衣はメモを取りながら聞いていた。通話を切った後、カレンダーアプリにその日付を入力する。予定の欄が、久しぶりに文字で埋まった。 面接当日、瑠衣は指定された住所へ向かった。ビルの入口に掲げられた社名を確認し、自動ドアをくぐる。ロビーはガラス張りで、朝の光が床のタイルに反射していた。受付で名前を告げると、案内の社員が奥へと導いてくれた。案内の社員は歩きながら、簡単にフロアの説明をしてくれたが、瑠衣の意識は半分、周囲の景色に向いていた。 廊下の両側には、ガラス張りの資料室がいくつも並んでいた。棚には古い書物と、電子端末が並列に置かれている。紙の匂いと、機械の静かな稼働音が混じり合っていた。ラベルの貼られた資料の背に、几帳面な文字で
午前、ハローワークの求人検索コーナーには、蛍光灯の白い光が均一に落ちていた。 壁際に据えられた棚には、透明なファイルに入った求人票がずらりと並んでいる。空調の音が低く響き、時折、順番を呼ぶアナウンスがそこに重なった。掲示板の隅には、季節外れのポスターが少し色あせたまま貼られている。床のタイルは、朝の混雑の名残でわずかに靴跡が残っていた。長椅子に座る人々の中には、スーツ姿の若者もいれば、瑠衣と同じくらいの年頃の人もいた。 瑠衣はファイルを一枚ずつ手に取り、めくっていった。紙の表面はどれも少し湿り気を帯びていて、指先に薄く貼りつくような感触がある。広告代理店での経験を活かせる仕事。事務職。広報補助。資料整理。見出しの文字を目で追い、給与、勤務時間、勤務地の欄を確認しては、次のファイルへ手を伸ばす。棚の前を数歩ずつ移動しながら、同じ動作を繰り返した。フォントの大きさも、紙の質も、それぞれ少しずつ違っている。会社によって、求人票の作り方にも差があるのだと、瑠衣はぼんやり思った。 なかなか、条件に合うものが見つからなかった。近くの窓口で相談していた別の求職者の声が、途切れ途切れに耳に入る。子どもを連れた女性が、隣のブースで担当者と何か話し込んでいた。瑠衣は担当者のいる窓口へ向かい、腰を下ろした。「前職の経験を活かしたいんですけど、なかなか難しくて」「これまでの経験は十分ありますよ」 担当者はそう言いながら、画面に表示された求人をいくつか印刷してくれた。プリンターの排出音が、静かなフロアに小さく響く。瑠衣はそれを受け取り、また棚の前へ戻った。求人票を一枚ずつ手に取りながら、ゆっくりと歩を進めていく。窓の外では、駐輪場に自転車を停める人
退職して数日が経った。瑠衣はハローワークの窓口で、渡された求人票に目を通していた。蛍光灯の下、順番待ちの番号札を握ったまま、掲示板に貼られた案内をひとつずつ確認していく。壁際の椅子には、同じように番号札を持った人が何人も座っていた。誰かの子どもが、母親の膝の上で退屈そうに靴を鳴らしている。 窓口に呼ばれ、担当者の前に座る。持参した職務経歴書を差し出すと、担当者はページをめくりながら、ところどころで小さく頷いた。マウスを操作し、画面に条件を打ち込んでいく手つきは慣れたものだった。「経験はありますね」 担当者はそう言いながら、別の紙をめくった。求人票の束の中から、条件に近いものをいくつか選び出していく。「ただ、希望条件が……」「もう少し若ければ、というところもあって」 瑠衣は求人票の給与欄と勤務地の欄に、順番に目を通した。どれも、これまでの経験とはどこかずれがあった。担当者はパソコンの画面をもう一度確認し、別の業種の求人をいくつか印刷して手渡してくれた。紙の温かさが、まだ機械から出たばかりであることを教えていた。「こちらも一度、見てみてください」 瑠衣は頷き、頭を下げた。「ありがとうございました」 窓口を出て、外の光の中に戻る。手にした求人票の束を鞄にしまい、そのまま次の面接会場へ向かった。何件か面接を受けたが、返事はどれも似たような形だった。担当者の視線が履歴書の生年月日の欄で少し止まる、という同じ動作を何度か見た。面接室を出るたびに、瑠衣はエレベーターの中で自分の姿を鏡に映し、スーツの襟を軽く整え直した。落ち込むより先に、当面の生活をどうするかを考える必要があった。 スマートフォンでフードデリバリーのアプリをダウンロードし、必要な情報を登録した。自転車の後ろに配達バッグを取り付け、街へ出る。最
瑠衣は靴を脱ぎ、廊下を歩いた。廊下の照明は控えめな明るさで灯り、壁に映る自分の影が、いつもよりゆっくり動いているように見えた。今朝、同じ廊下を出勤のために通ったときとは、足の運び方がまるで違っていた。リビングのドアを開けると、灯がソファの端に座り、本を読んでいた。顔は上げなかった。ページをめくる音だけが、部屋の中に静かに響いている。「ただいま帰りました」 「お帰りなさい」 灯はそう答えたが、視線は本から離れなかった。瑠衣は鞄を床に置き、灯の向かいに腰を下ろした。革張りのソファが、体の重みでわずかに沈む感触があった。照明の明かりが、灯の横顔に薄い陰影を作っている。窓の外はすでに暗く、庭の木々の輪郭がガラスに滲んでいた。 瑠衣はしばらく、ソファの背に体を預けたまま動かなかった。何かを話そうとして、言葉が出てこなかった。喉の奥に、言葉になる前の何かが止まっているような感覚があった。灯も何も聞かなかった。ページをめくる指の動きだけが、規則的に続いている。時計の音と、紙の擦れる音だけが部屋を満たしていた。壁時計の秒針が、静かな部屋の中でひときわ大きく聞こえた。棚に並んだ本の背表紙が、間接照明の光をわずかに反射していた。 テーブルの上でスマートフォンが震えた。画面を見ると、真衣からのメッセージだった。開くと、スクリーンショットが一枚添付されている。梨香子のSNS投稿だった。 「今日、先輩が辞めました〜 お疲れさまでした!」という文字の下に、花束の絵文字がいくつも並んでいる。コメント欄には「お疲れさまです」「新しい道、応援してます」という言葉が続いていた。投稿には、いつもの梨香子らしい明るいスタンプも添えられていた。 瑠衣はその画面をしばらく見ていた。特に表情は変わらなかった。指先で画面をスクロールし、いくつかのコメントを目で追ってから、また最初の投稿に戻った。誰かが「次のステージも応援してます!」と書き込んでいるのが目に入ったが、それ以上読み進める気にはならなかった。画面の明るさだけが、薄暗いリビングの中でやけにはっきりして見えた。 スマートフォンを、テーブルの上に伏せて置いた。 置いた直後、今度は着信音が鳴った。父からだった。出
朝、いつもより早くオフィスに着いた。エレベーターホールには、まだ数人しかいなかった。瑠衣は鞄の内ポケットから白い封筒を取り出し、もう一度指先で角を確かめてから、人事部へ向かった。 廊下を歩く足音が、いつもより大きく聞こえた。窓の外はまだ薄曇りで、ガラス越しの光が床にぼんやりとした線を描いていた。すれ違う社員に会釈をしながら、瑠衣は自分の歩調が普段より少し速いことに気づいた。 人事部のドアをノックする。中から返事があり、瑠衣は入室した。担当者はデスクの向こうで書類を整理していたが、顔を上げると笑顔で椅子を勧めた。 封筒を差し出す。担当者は中身を取り出し、目を通していく。ページをめくる指の動きが、途中で一瞬止まった。「そうですか……お疲れ様でした」 それ以上は聞かれなかった。担当者は表情をあまり変えないまま、手元のファイルを開いた。「最終出勤日は本日で、有給は残っている分すべて消化という形でよろしいですか」「はい」「社会保険の手続きについては、後日書類をお送りします。離職票の発送先は、今のご自宅で間違いありませんか」「はい、それで大丈夫です」 担当者はパソコンの画面に何かを入力しながら、次々と項目を確認していった。退職金の概算、貸与物の返却、最終給与の振込日。瑠衣はひとつずつ相槌を打ちながら、その声を聞いていた。窓の外で、誰かの話し声が遠く聞こえた。 説明が一通り終わると、担当者は手を差し出した。「社員証をお預かりします」 瑠衣は首から下げていた社員証のストラップに手をかけた。留め具を外す間、指先が少しだけ震えた。ケースから取り出し、担当者に手渡す。 担当者はそれを小さなトレイに置いた。カードの表面に印刷された自分の顔写真が、蛍光灯の光を反射している。入社したばかりの頃に撮った写真だった。今の自分より、少し硬い表情をしている。「では、これで手続きは以上です。長い間、お疲れ様でした」 瑠衣は椅子を
朝、いつもの時間に出社する。パソコンを立ち上げ、メールを確認する。新着はほとんどなかった。企画関連のフォルダを開いてみたが、更新は何もない。最終更新日の欄には、先週の日付がそのまま残っていた。 今日も、企画会議への招集はなかった。カレンダーには空白が続いている。瑠衣は自分のデスクの周りを見渡した。資料の山は昨日よりも減っていた。片付けるべきものが、もうあまり残っていない。引き出しの中を確認しても、急ぎで対応するべきものは見当たらなかった。フォルダのアイコンを一つずつクリックして、開いては閉じる作業を、しばらく繰り返した。デスクの端に置いたマグカップの底に、飲み残しの茶が薄く沈んでいた。 午前中は、後輩への引き継ぎ作業に充てられた。使っていたフォルダの整理方法、取引先とのやり取りのテンプレート、過去の資料の保管場所。ひとつずつ説明していく。後輩はメモを取りながら頷いていたが、途中から質問が減っていった。教えることがなくなっていくのが、自分でもわかった。最後に残っていたファイルの共有設定を変更し終えると、後輩は軽く頭を下げて自分の席へ戻っていった。 昼前、コピー機の前に立つ。頼まれた枚数を打ち込み、開始ボタンを押す。紙が排出される音を聞きながら、瑠衣は画面に映る自分の順番待ちの表示を見ていた。順番が来るまで、他にすることがなかった。排出トレイに積み重なっていく紙の枚数を、なんとなく目で数えていた。 自分の席に戻り、パソコンの画面を開く。カーソルが点滅するだけの、空白のドキュメントが表示されていた。キーボードに指を乗せたが、何も打たなかった。しばらくして、画面を閉じた。窓の外に目をやると、ビルの谷間を横切る雲が、ゆっくり形を変えていた。 昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、背後から声がした。 「先輩」 振り返ると、梨香子が立っていた。手にマグカップを持ち、いつもより明るい表情をしている。 「はい?」 「今回のことで思ったんですけど」 梨香子は少し笑って
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ
金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで