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4話「書庫の家」

مؤلف: 団紡るう
last update تاريخ النشر: 2026-06-19 04:33:26

 駅前のベンチに座った。

 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。

 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。

 ポケットから鍵を出した。

 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。

 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。

「……行くか」

 独り言が出た。誰もいなかった。

 電車を二回乗り換えて、最寄り駅から地図を頼りに歩いた。住宅街に入ると街灯が減った。十分ほど歩いたところで、地図が止まった。

 見上げた。

 門があった。

 鉄製の、重そうな門だった。その奥に、建物があった。三階建て。灯りは全部消えているが、外から見ても広さがわかった。

 違う場所かと思った。メモをもう一度確認した。番地が合っている。もう一度建物を見た。

「いや違う」

 声に出たが、地図は正しかった。何度見ても住所は一致していた。

 高級住宅街という言葉が頭に浮かんだ。この道を歩いてくる間にも、それなりの家は並んでいた。しかし目の前の建物は、それとも違った。豪邸、という言葉以外が出てこなかった。

 今日初めて会った、安物スーツの叔父の家が、豪邸だった。

 鍵を差し込んだ。回った。本物だった。

 玄関を開けた。広かった。

 電気をつけた。廊下が長かった。リビングのドアを開けた。広かった。天井が高かった。ソファがあった。テーブルがあった。

そして本があった。

 壁一面、床から天井まで、本棚だった。リビングの壁が全部本棚だった。廊下に戻って改めて見ると、廊下の壁にも棚があって、本が並んでいた。

 奥に扉があった。開けると階段があって、下に続いていた。降りた。

 地下だった。

 広い部屋があった。壁どころか、部屋の中心にも棚が並んでいた。本棚が島を作っていた。図書館の参考書コーナーのような配置で、本が詰まっていた。背表紙を眺めた。文学、歴史、自然科学、哲学、経済、児童書、洋書。ジャンルが混在していた。数えられる量ではなかった。

「図書館……?」

 声が壁に吸い込まれた。

 一冊抜いてみた。ハードカバーの、分厚い本だった。奥付を見ると、二十年以上前の版だった。ページを開くと、余白に鉛筆の書き込みがあった。小さな字で、何か書いてあった。読もうとして、やめた。他人の本だった。棚に戻した。数万冊の中の一冊が、元の場所に収まった。

 一階に戻った。

 リビングのテーブルの上に封筒があった。名前は書いていなかった。開けると、小さなメモが一枚入っていた。

『ご自由にお使いください』

 それだけだった。

 連絡先がなかった。説明がなかった。ゴミの日もわからない。Wi-Fiのパスワードもわからない。緊急連絡先もわからない。普通、他人に家を貸すとき、何か書くのではないか。契約書とか、注意事項とか、最低限の案内とか。

 メモをテーブルに戻した。

「何なのあの人」

 誰に言うでもなかった。誰もいなかった。

 キャリーケースをリビングに置いて、とりあえず台所を確認した。

 冷蔵庫を開けた。

 缶ビールが一本あった。

 他には何もなかった。冷蔵庫の中が、缶ビール一本だけだった。誰のものかわからなかった。灯が置いていったのか、元からあったのか、判断できなかった。閉めた。

 棚を開けた。カップ麺が三つあった。インスタントコーヒーがあった。砂糖がなかった。

 今日は何も食べたくなかった。披露宴の料理を少し食べたが、味を覚えていなかった。

 ソファに座った。

 リビングは静かだった。時計の音だけがしていた。壁一面の本が、暗い部屋の中でただ並んでいた。誰かが読んでいるわけでも、読まれるために待っているわけでもなく、ただそこにあった。

 スマホを見た。

 通知が一件あった。母からの送金だった。金額を見た。

 少し笑った。

 子供のころから毎年お正月に渡していたお年玉を、母が通帳に積み立てていた。それと同じ額だった。ぴったり同じだった。計算したのか、偶然なのか、わからなかった。

 泣かなかった。怒らなかった。

 もう終わったことだと、体が知っていた。

 明かりを落として、窓の外を見た。

 高級住宅街の夜は静かだった。車も通らなかった。隣の家との距離があるせいか、物音がしなかった。

 今いるのは、今日初めて会った叔父の豪邸だった。

 笑えるような、笑えないような、どちらとも言えなかった。

 ソファで横になった。

 スマホを手に取った。連絡先を開いた。友人の名前が並んでいた。今日の結婚式に「行かない」と返信してきた顔たちだった。心配しているだろうと思った。

 連絡すれば来てくれる人間が、何人かはいると思った。しかし何も送らなかった。 今夜は誰の声も聞きたくなかった。聞いたら、何かが崩れる気がした。画面を閉じた。スマホを胸の上に置いた。

 天井が高かった。見慣れない天井だった。自分の部屋の天井には染みがあって、それを見ながら眠る習慣があったが、ここにはなかった。均一に白かった。

 一人だった。

 家族も婚約者も友人も、そして今日この家の鍵をくれた男もいなかった。

 豪邸だった。地下書庫があって、シアタールームらしき部屋も見えた。庭もあった。どう考えても、条件だけ見れば当たりだった。普通に考えれば当たりだった。

 それでも、何かが足りなかった。

 足りないものが何かはわかっていた。広さや設備の問題ではなかった。帰ってきたときに明かりがついていない。ただそれだけのことが、こんなに重いとは思わなかった。

 帰る場所と、住む場所は、違うものだった。

 起き上がって、壁の本棚を眺めた。

 背表紙を端から順番に目で追った。知らないタイトルばかりだった。知っている作家の名前がたまに出てきたが、読んだことのない本だった。

 どうしてこんな量の本があるのか。どうして今日会ったばかりの他人に鍵を渡したのか。

何もわからなかった。

父に聞けばわかるかもしれない。しかし父に連絡する気にはなれなかった。

席次表には「父の弟」と書いてあった。

 窓の外は暗かった。

 広い家に、瑠衣一人。時計だけが音を立てていた。

黙ったままその場に立ち尽くしていた。しばらくして、小さく息を吸い込み、浴室へ向かおうと振り返ったその時、ガチャリとドアの外で音がした。

心臓が跳ね上がった。

あの男だろうか。

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