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5話「広すぎる静寂」

ผู้เขียน: 団紡るう
last update วันที่เผยแพร่: 2026-06-20 07:00:02

 目が覚めた瞬間、ここが自分の家ではないことを思い出した。

 天井が違う。染みがない。高い。白い。

 ソファで寝ていた。ベッドは二階にあったが、昨夜は上がる気力がなかった。体を起こすと、リビングの壁一面の本が目に入った。昨日からそこにあった本が、今朝もそこにあった。当たり前だった。

 スマホを見た。会社からの着信が二件入っていた。上司の番号だった。折り返した。

「無理して来なくていいぞ」

「出ます」

 少し間があった。

「そうか」

 それだけだった。電話が切れた。シャワーを浴びて、スーツに着替えた。

 株式会社オルビット・コミュニケーションズ。広告代理店。勤続六年。

 オフィスに入ると、いくつかの視線が来た。気づかないふりをして席へ向かった。

「大丈夫?」

 隣の席の同僚が声をかけてきた。三十二歳、既婚、去年子供が生まれた。いい人だった。

「聞いたよ……ひどいよね、本当に」

「ありがとうございます」

 後輩も来た。入社三年目の女性で、普段は仕事の話しかしない子だった。

「ひどすぎますよね。信じられないです」

「ありがとうございます」

 全員が知っていた。結婚式のことを、婚約破棄のことを、妹のことを。誰から聞いたのかはわからなかったが、オフィスの中でその話が広まっていることは、席についた瞬間にわかった。

 優しかった。本当に優しかった。だからこそ、今日一日ずっとこの顔で過ごさなければいけないことがわかって、少しだけ疲れた。

 営業スマイルは得意だった。六年で鍛えた。

 午前中は電話が続いた。

 メーカーの担当者から素材の修正依頼が来た。入稿データの形式が変わったという連絡が来た。別の案件で納期の確認をした。予算の調整で先方と三十分話した。

 仕事は待ってくれなかった。

 ありがたかった。画面を見ている間は、結婚式のことを考えなくて済んだ。数字は正直だった。修正依頼は明確だった。納期は動かなかった。裏切り方がわかっている分、人間より扱いやすかった。

 午前中に三件片付けた。上司が通りがかりに「無理するなよ」と声をかけた。「大丈夫です」と返した。嘘ではなかった。仕事は本当に大丈夫だった。

 昼休み、スマホを開いた。

 雅之からメッセージが来ていた。

『慰謝料は勘弁してくれ。真衣も体調が不安定で、今はとても払える状況じゃない』

 読んだ。もう一度読んだ。

 請求していなかった。そもそも婚約破棄以来、雅之に一度も連絡していなかった。弁護士を立てたわけでも、内容証明を送ったわけでもなかった。何もしていなかった。

 誰と会話しているんだろう、この人は。

 返信しなかった。既読だけつけて、画面を閉じた。

 疲れた。

 結婚式より、親族控室より、手紙より、このメッセージが一番疲れた。

 実害がない分、対処のしようがなかった。怒鳴り込んでくるとか、お金を請求してくるとか、そういう方向なら動きようがあった。被害者のふりをして先回りしてくる人間への対応を、瑠衣は知らなかった。

 夕方、残った仕事を片付けて退社した。

 電車に乗りながら、今日一日を振り返った。仕事はこなせた。人間関係は消耗した。差し引きすると、来て良かったと思った。家にいたら何もできなかった。何もできないまま広い部屋で座っていたら、それはそれで別の消耗をしていた。

 最寄り駅で降りた。

 コンビニに寄った。弁当を一つ、ペットボトルの水を二本、明日の朝ごはんになりそうなものを適当に選んだ。レジで「温めますか」と聞かれた。「お願いします」と答えた。袋を受け取って、豪邸に向かって歩いた。

 鍵を開けて、中に入った。

「ただいま」

 言ってから、返事がないことを思い出した。

 わかっていたのに、口から出た。癖だった。

 実家でも、帰ってきたら言っていた。誰かが「おかえり」と返してくれた。それが習慣になっていた。

 もっとも、実家にはもう帰らない。帰る場所が変わったのだから、癖も変えればいい。そう思った。思ったが、次に帰ってきたときも言う気がした。

 電気をつけた。リビングが明るくなった。広かった。静かだった。

 テーブルにコンビニ袋を置いて、冷蔵庫を開けた。水を入れた。缶ビールがまだ一本、昨日と同じ場所にあった。誰のものかは今日もわからなかった。触らなかった。

 弁当を温め直して、テーブルで一人で食べた。テレビをつけようかと思ったが、リモコンの場所がわからなかった。探す気力もなかった。静かなまま食べた。

 味はした。昨日の披露宴の料理よりは、ちゃんと味がした。

 食べ終わって、ぼんやりとリビングを見渡した。

 ふと思った。

 家賃、いくらなんだろう。

 この家の家賃を、考えていなかった。いや、考えかけて、やめていた。怖かったから。高級住宅街の三階建て、地下書庫付き、庭付き。相場など想像もできなかった。

 しかも契約書がなかった。説明もなかった。請求もなかった。連絡先すら知らなかった。

 普通に考えたら、おかしかった。家を貸す側が連絡先を渡さないのはおかしかった。何かあったときにどうするつもりなのか。水道が壊れたら。鍵を失くしたら。

 考えても答えが出なかった。あの人の行動に、普通の基準が当てはまらなかった。

 ソファに座った。

 壁の本を眺めた。今日も知らないタイトルが並んでいた。一冊だけ抜き取って表紙を見た。自然科学の本だった。著者の名前に見覚えがなかった。戻した。

 静かだった。

 豪邸に住んで、何日か経った。日常の輪郭は戻ってきた。仕事には行けた。弁当も食べられた。シャワーも浴びた。生活はできていた。

 ただ、誰も来なかった。

 灯から連絡がなかった。そもそも連絡先を知らなかった。メモには住所だけあって、電話番号もメールアドレスも書いていなかった。家を貸して、それで終わりだった。何を考えているのかわからなかった。

 変な人、という結論は最初から出ていた。

 でも。

 玄関の方を見た。

 音がした気がした。鍵の音か、風の音か、判断する前に静かになった。立って確認しに行くと、誰もいなかった。当たり前だった。

 自分で苦笑した。

 何を期待していたのかは、あまり考えないことにした。ただ、次にここに来るのはいつなんだろうと、ソファに戻りながら思った。来ると決まっているわけでもなかった。来ると言っていたわけでもなかった。

 でも来ると思っていた。

 なぜかは、わからなかった。

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