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ワンナイトと婚約

Auteur: 伊桜らな
last update Date de publication: 2025-08-13 22:17:07

翌日の夕方、私は薄暗くなりかけた街路を歩きながら、軽く波打つ吐き気に耐えていた。腹の奥がきゅっと締め付けられるような感覚と、体のだるさがまだ残っている。母子手帳とエコー写真を握りしめたバッグの中で、紙の感触が手のひらに伝わってくるたび、現実感が胸の奥にじわりと広がった。

 カフェのドアを押して店内に入ると、すぐに名前を呼ぶ声が響いた。

「花耶!」

 声のする方を見ると、優仁が笑顔で手を振っている。あの夜とは打って変わって、いつもの柔らかい表情だ。私も自然に肩の力を抜き、彼が座るテーブルに近づき、軽くお辞儀をして隣に座った。

「久しぶりだな、花耶」

「うん、そうだね」

 席に座った瞬間、胸の奥がきゅっと縮まる。あの夜以来、二人の関係は微妙に変わってしまった。けれども、今日ここに座っている自分は、まだ少しほっとしている自分がいることを認めたくなかった。

「あの夜ぶりだな……なんか注文するだろう? 花耶はいつもフレンチトーストかな」

 メニューを手に取り、ページをめくる。写真の中のフレンチトーストやケーキ、プリンに目を走らせながら、ふと目に入ったかぼちゃのプリンに指を置いた。

「かぼちゃプリンにする」

「かぼちゃプリン? 珍しいな……飲み物はカプチーノかな」

「いや……ルイボスティーにする」

「今日は控えめだな」

 優仁が店員を呼び、注文をしている間、私は目を伏せ、胃の奥のむかつきと戦いながら、あの夜のことを思い出していた。

 まだ私が社会人になったばかりで、仕事に少しずつ慣れ始めた頃。同期であり、高校時代からの親友の桃花に誘われ、恋活イベントに一緒に行ったときのことだった。あの場で優仁と出会った。

 初対面の印象は「チャラそうな人だな」というものだった。派手な髪型、軽い笑顔、友人たちと冗談を言い合う姿。だけど話を重ねるうちに、その裏に誠実な人柄や気遣いのある性格が垣間見えた。連絡先を交換し、互いの仕事の愚痴を言い合う日々の中で、友人としての距離はすぐに縮まった。

 けれど、好きだという気持ちは言葉にできず、関係を壊すのが怖くて、ずっと胸の奥に秘めていた。だからこそ、今まで通り「友人」として過ごしていたのだ。

 ──あの夜までは。

 月に一度、自分へのご褒美として行く、フランス料理の美味しいホテルレストラン。いつものように、心躍らせながらその夜もディナーを楽しんだはずだった。

 でも、ワインを一杯、二杯と重ねるうちに、身体の熱が上がり、感覚が少しずつ鈍くなっていった。気づけば手を握られ、目を見つめられ、ホテルの一室で優仁と二人きりになっていた。

 あの時の彼の艶めいた表情。手が触れ合うたびに心が揺れ、理性がすっと消えていく感覚。私は抑えてきた想いを一瞬で開放し、彼に身体を委ねた。理性の鎖が解けたように、全てを投げ出してしまった瞬間。あの夜の記憶は、甘く、でも少し切なく、今でも胸の奥で光っている。

 注文したかぼちゃプリンとルイボスティーがテーブルに運ばれてくる。香りを嗅ぐと少しだけ落ち着く。優仁も同じように自分の飲み物に手を伸ばす。お互い、緊張を隠すように自然な笑顔を作っているけれど、空気は少し重い。

「――で、話って何だった?」

 食べ終わり、カップを手で包むように持ちながら、優仁が声を発した。私の心臓は再び早鐘を打つ。ゆっくりと息を整え、覚悟を決めるように口を開く。

「あ……えっと、あのね、私、赤ちゃんできたの」

 空気が一瞬止まったように感じる。テーブルの上のプリンの存在も忘れるほど、心臓が耳の奥で響く。優仁の目が一瞬、驚きに大きく開き、その後ゆっくりと柔らかい表情に変わる。

「えっ」

「優仁と私の子、だよ」

 言い終えた瞬間、私は視線を逸らす。反応が怖くて、まっすぐ見られない。心臓が早くなり、手のひらが自然に膝の上で握りしめられる。

「……赤ちゃん、俺たちの子……」

 小さく呟く彼の声に、思わず胸がぎゅっとなる。驚き、戸惑い、でも確かな喜びも混じっている。その表情を見て、涙がほんの少し目頭に滲む。

「ゆ、優仁?」

 震える声で呼ぶと、彼は優しく微笑んだ。

「ありがとう、花耶。嬉しいよ、とても嬉しい」

「本当に?」

「あぁ……花耶。順番が逆になってしまったけど、結婚しよう」

 まさかの言葉。プロポーズだ。心の中で何かが弾け、涙が溢れそうになるのを必死に堪える。胸の奥にあった不安が、一気に暖かさに変わった瞬間だった。私は震える手で微かに頷く。

 その後、私は優仁の実家に向かった。

 彼の実家は、高級医薬品メーカーTAKANASHIを経営しており、社長は彼の父親。高級住宅街に立つ立派な屋敷の前に車が停まると、胸の奥が不安でぎゅっと締め付けられた。

「大丈夫かな、本当に……」

 そう小さく呟くと、優仁は手を握って安心させてくれる。

「花耶、心配しないでいい。俺がいるから」

 その言葉に少しだけ勇気をもらい、ドアを押す。高級感のある玄関に一歩足を踏み入れると、気が引き締まる。ワンピースの裾を整え、手土産を握る手が少し震えているのを感じた。

 やがて出迎えたのは、優仁の両親。特に母親の上品さは目を見張るものがあった。生粋のお嬢様の佇まい、洗練された立ち居振る舞い、落ち着いた声のトーン。

「あなたが、花耶さん?」

 緊張で声が小さくなる。私は深く頭を下げる。

「はい。望月花耶といいます」

 しかし、母親は正直に言った。

「私は、あなたと優仁の結婚は正直反対よ。一般人の娘となんて、優くんの相手には相応しくないわ」

 予想通りの言葉。胸がぎゅっと締め付けられ、目に涙が浮かぶ。反論したい気持ちもあるけれど、ここで争う意味はない。

「どうやって優くんを誑かしたか知らないけれど、でも、お腹に赤ちゃんがいるなら認めて上げましょう。お腹の子に罪はないですからね」

 言葉の一つひとつに重みを感じる。感謝の気持ちを込めて、私は頭を深く下げた。

「……ありがとうございます、よろしくお願いします」

 緊張と不安が混ざった心の中で、ほんの少しだけ安堵が芽生えた。赤ちゃんが生まれる未来、優仁と共に歩む日々、そしてこれから始まる新しい生活。その全てがまだ未知で、怖さもあるけれど、胸の奥で確かに希望が光っていた。

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