Share

第十話:秋咲 叶

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-10-05 19:56:05

じりじりと肌を焼くような陽射しが、教室の窓ガラスを白く光らせている。外からは、空気を揺らすほどの蝉時雨。まるで世界の輪郭が、その音で溶けてしまいそうだった。

あぁ、また退屈な一日が始まる。

そんなことを考えていた俺の視界に、ひとつの空席が映り込む。いつもなら、馬鹿みたいにでかい声が聞こえてくるはずの、智哉の席だった。

昨日のアレが、よほど堪えたんだろうか。

机に頬杖をつきながら、ぼんやりとそんなことを思う。あいつのことだ、今頃部屋の隅で布団でも被っているのかもしれない。

「……何か、見舞いでも持っていくか」

誰に言うでもなく呟いた、その時だった。

「ねぇ、浅井くん」

ふわりと、シャンプーの匂いがした。すぐ隣の席の穂乃果が、俺の机を覗き込んでいる。

「どうした?」

「放課後、智哉くんに何か持って行ってあげない?」

……心でも読まれたかと思った。

「ああ、俺も考えてた。コンビニで適当に菓子でも買って、顔だけ見てくるか」

「うん! それがいいと思う!」

穂乃果は嬉しそうに頷くと、ふと真面目な顔つきになって声を潜めた。

「それで…ね。昨日二人が見たっていう、赤い服の女の人なんだけど…」

すっ、と目の前に差し出されたスマホの画面。そこに映っていたのは、一枚の古い写真だった。白いワンピースを着て、幸せそうに微笑む、知らない女。

「……この人、かもな」

喉の奥から、乾いた声が出た。

昨日見たあの顔は、ぐちゃぐちゃに潰れていて判別もつかなかった。けれど、この写真の女性が着ている服の形には、見覚えがあるような気がする。

俺が見たのは、赤。けれど、画面の中のそれは、白。

いや、あれは元々、白だったのかもしれない。何か、おびただしい量の液体を浴びて、ああなっただけで。

「名前は…」

俺は、写真の下に添えられた名前を、汗で湿った指先でなぞった。

──秋崎あきざき かなえ

「秋崎…叶さん、か」

「うん。おじいちゃんの資料にあったんだけど、裕福な家庭の人だったみたい。…それでね、夏祭りの夜、恋人と一緒に出かけた帰り道で、踏切に飛び込んだんだって」

穂乃果の言葉に、窓の外の蝉の声が、一瞬遠のいた気がした。

「えっ…恋人の、目の前でって事だよな?」

「うん…。その恋人さんも、叶さんに自殺するような素振りは全くなかったって、ひどく困惑してたみたい」

「そうか…。その人から、話は聞けないのか?」

そう尋ねると、穂乃果は痛ましげに眉を寄せた。

「…実はね。その恋人の方も、叶さんが亡くなった翌年に…同じように、命を絶ったんだって」

「…………」

「その人の友人が、妙なことを証言してたって資料には書いてあった。『化け物が見える』『何かに引き寄せられる感覚がある』…そう、漏らしてたらしいよ」

これは……ただの自殺、なんだろうか?

得体の知れない何かが、人の命に絡みついている。腹の底が、じわりと冷えていくような感覚。

『なんで…なんで私が…ぁ……』

昨夜の、あの悲痛な声が脳内で反響する。

恐怖を感じない俺だからこそ、してやれることはないのか。

「……ここまで聞いて、浅井君の気持ちは変わらない?」

心配そうに揺れる瞳が、俺を見つめている。

「ああ。変わらない。というか、俺くらいしかまともに動いてやれないだろ、こういうのは」

心臓が、静かに熱を帯びていく。昂り、というには静かで、けれど確かな熱だった。

その時、思考を断ち切るように、甲高い予鈴が鳴り響いた。現実への引き戻しを告げる、無機質な号令だ。穂乃果が慌てて自分の席に戻ると、入れ替わるように担任が教室へ入ってくる。退屈な一日が、ようやく幕を開けた。

***

授業が終わる頃には、あれだけうるさかった蝉の声も、どこか気だるげな響きに変わっていた。西陽が差し込む教室は、埃を金色にきらめかせている。

帰りの支度をしていると、また穂乃果が目の前に立った。

「ねぇ、浅井くん」

その呼び方に、俺は思わず動きを止めて、ため息をついた。

「…なあ。その『浅井くん』っての、やめないか」

「えっ……」

プライベートでは「輝流」、学校では「浅井くん」。彼女なりの線引きなのかもしれないが、呼ばれるたびに背中がむず痒くなる。

「…輝流でいいだろ」

「で、でも…昔は、輝流が嫌がったから…」

うっ、と喉が詰まる。

そういえば、そんなこともあったか。中学の頃だったか、クラスの連中にやけに囃し立てられて、鬱陶しくなった記憶がうっすらとある。

「…ああ、悪かった。ガキだったんだよ。今はもう気にする歳でもないだろ」

「ふふ、そうだね。すごく茶化されたもんね、あの時」

「だから、どっちかに統一してくれ」

穂乃果は、少し意地悪そうに笑った。

「えー、そこは『輝流って呼んで』って素直に言うところじゃないのかなぁ??」

「はぁ……分かったよ。輝流って、呼んでくれ」

「えへへ、うんっ!」

満面の笑みで頷く穂乃果。

こんなところを智哉が見たら、また面倒なことになりそうだな、と。俺はどこか他人事のように考えていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十六話:成仏

    俺たちの手のひらの上で、泥にまみれた指輪が、鈍く、けれど確かに輝いていた。 俺は、震える穂乃果の肩をそっと叩く。 「穂乃果、良くやったぞ……!」 「え、えへへ…」 穂乃果は、泥だらけの手で顔を拭って、力なく、けれど誇らしげに笑った。 俺はスマホを取り出し、時刻を確認する。液晶の光が、[21:13]という無機質な数字を映し出していた。もう、そんな時間か……。 「穂乃果、急ぐぞ」 「うん!」 俺たちは、彼女の元へ、全ての始まりとなったあの場所へと、夜道を急いで戻った。 *** 風が、ざわざわと田んぼの稲を揺らしている。 あの場所に戻ってきてから、もうどれくらい経っただろうか。俺たちが指輪を携えて待てども、彼女は現れない。ただ、虫の声だけが、俺たちの焦りを煽るように鳴り響いていた。 その時だった。 ふと、空気が揺らめいた。目の前の空間が、陽炎のように歪み、そこから、じわりと、赤い影が滲み出してくる。 空気が急速に冷えていく。虫の声が、ぴたりと止んだ。 やがて、影は、一体の女の姿になった。 血に濡れた赤い服。人間が本来、曲がってはならない方向に四肢が折れ曲がり、いくつかの場所では、皮膚を突き破って白く鋭利な骨の先端が覗いている。顔は、判別できないほどに潰れていた。あまりに痛々しい、絶望の形。 (指輪は持った。きっと大丈夫だ) 俺は、ごくりと喉を鳴らすと、一歩、前に出た。 「秋崎叶さん」 俺がその名を呼ぶと、女の体が、ビクッと大きく跳ねた。 「俺は、浅井輝流といいます」 俺は、できるだけ優しい声色を意識しながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。 「あなたの声が聞こえた。あなたが、何か大事なものを探しているんじゃないかって、そう感じたんです。」 「あなたの住んでいた家にも行きました。そこで、何かを訴えるお婆さんの姿があったんです」 「きっと…あなたのお母さんですよね?彼女が、あなたの大切な物を見つける手助けをしてくれました」 「だから…これを」 俺は、手のひらに握りしめていた指輪を、彼女の前にそっと差し出した。 「…指を、出してください」 その言葉に、叶さんはおどおどと、壊れた人形のようにぎこちなく、自身の左手を差し出した。指はあり得ない方向に折れ曲がり、痛々しく震えている。 俺は、その冷たい指をとり、泥を拭った指輪を、

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十五話:指輪

    俺は、日記の最後のページから、顔を上げることができなかった。 スマホのライトが照らす小さな文字の上に、ぽたり、と雫が落ちて染みを作る。隣で、穂乃果が鼻をすする音が聞こえた。 「こんな…こんな幸せなことの、すぐ後に…」 「ああ……亡くなるなんてな…」 『明日が、待ち遠しい』。 その、希望に満ちた言葉が、鉛のように重く胸にのしかかる。彼女が待ち望んだ明日は、永遠に来なかった。 脳裏に、あの踏切で見た女の姿が焼き付いている。 血に濡れたワンピース。ぐちゃぐちゃに潰れた顔。 そして…。 不自然なまでに、何もつけていない、白い指。 「……そういえば」 俺は、はっとしたように呟いた。 「…指輪…してなかったな…」 「え…? そ、そんなところまで見てたの…?」 穂乃果が、涙で濡れた瞳を丸くする。 「ああ…。もしかしたら…指輪を返したら、成仏するんじゃないか?」 幽霊が、未練を残した品に執着する。それは、どの世界にも通づるルールの一つだ。彼女にとって、道政から贈られた婚約指輪以上に、大切なものがあっただろうか。 「…怖いけど」 穂乃果が、ごしごしと目元を拭う。 「…返してあげたいね、その指輪」 「ああ。そうだな」 決まれば、早い。俺たちは、叶さんの最期の未練を見つけ出すために、再びこの混沌とした家の中を捜し始めた。 机の引き出し、散らばった本の間、倒れたタンスの裏。考えられる場所は、全て。 *** だが、数十分が経過しても、小さな光を放つはずのそれは、どこからも見つからなかった。時間だけが、無情に過ぎていく。 「どこにも、ないな…」 俺が諦めかけた、その時だった。 まただ。空気が、急速に温度を失っていく。 振り返った廊下の闇の中央に、いつの間にか、あの老婆が立っていた。 そして、初めて、その口が、動いた。 「…ユ……ビ……ワ……は…………」 まるで、喉の奥から空気が無理やり漏れ出てくるような、ひび割れた音。言葉になっていない、ただのノイズの塊。 「……ジ……コ……ノ……バ……ショ……チカク……ニ……」 聞き取れたのは、それだけだった。老婆の姿は、またしても、すぅ…、と闇に溶けて消えていく。 「事故の…場所…?」 俺が、老婆の言葉を反芻していると、隣で穂乃果が、はっと息を呑んだ。 「あっ……!!」 「どうし

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十四話:叶の日記

    老婆が消えた後の静寂は、やけに重く、耳に張り付くようだった。 俺は、手の中にあるノートの表紙を、指でなぞる。積もった埃を払うと、その下から現れたのは、何の変哲もない、ただの黒いノートだった。 唾を飲み込み、震える指で、最初のページを開く。 古ぼけた紙の上を、掠れた万年筆のインクが這っていた。 『──この地には古来より、山を鎮める守り神がいた』 「……守り神?」 思わず、声が漏れた。 その言葉に、背後で息を殺していた穂乃果が、びくりと肩を震わせる。恐怖よりも好奇心が勝ったのか、彼女はおそるおそる俺の肩越しに、ノートを覗き込んできた。 「えっ…」 俺たちは、顔を見合わせる。老婆は、これを俺たちに見せるために? 二人きりになったことで、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、改めて書庫全体を見渡した。スマホのライトが、無数の本の背表紙を照らし出す。そのほとんどは、色褪せてタイトルも読めない。 光の輪をゆっくりと動かしていくと、いくつかのタイトルが目に飛び込んできた。 『この地の歴史』『桜織市の伝説』…。 なるほど、この家の主は、郷土史家か何かだったのかもしれない。 さらに棚を照らしていくと、俺の指が、ふと止まった。 一冊だけ、他とは明らかに雰囲気の違う、新しい本。 『霊との向き合い方』 その下に書かれた著者名に、俺はなぜか目を奪われた。 『著:櫻井 悠斗』 知らない名前だ。だが、そのタイトルは、今の俺たちにとってあまりに直接的すぎた。 一瞬、その本に手が伸びかける。だが、俺は首を振り、もう一度『この地の歴史』と書かれた、分厚く古びた本へと向き直った。 今は、幽霊と戦う方法じゃない。そもそも、なぜ秋崎叶さんたちが死ななければならなかったのか。その根源を知る必要がある。 俺は、『この地の歴史』を本棚から引き抜いた。 「輝流、守り神なんて話、聞いたことある?」 「いや、初耳だ。神鳴山の神が荒ぶれたって話は、嫌というほど聞かされてきたが…」 「うちのおじいちゃんも、そんな話はしてなかったな…」 どうやら、この町の人間でも知らない、忘れられた歴史らしい。 俺たちは、比較的埃の少ない床に並んで腰を下ろすと、ノートと歴史書をライトの光で照らし、そのページを読み進め始めた。 俺は、分厚

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十三話:血濡れの老婆

    家が、鳴り始めた。 パキ…、と乾いた木材が軋む音。ドンッ、と壁の奥で何かが打ち付けられるような鈍い音。 ドッドッドッドッ…! まるで誰かが焦って階段を駆け上がっていくかのような、性急な足音までが家中から聞こえてくる。 「ひ…、輝流ぅ…これ…」 背後から、穂乃果の引き攣った声が聞こえる。 「大丈夫だ。俺がいる」 俺は、自分に言い聞かせるようにそう答えた。 おかしい。この音は、まるで家が生きているかのようだ。あるいは、今も誰かが、この廃墟で生前と変わらぬ暮らしを続けている、とでもいうように。 ここで時間を無駄にはできない。 窓の外は、もう夕闇に呑まれ始めている。 穂乃果が俺の服を掴む腕が、小刻みに震えているのが分かった。 ……あまり長居はできない。 「穂乃果。俺の背中に隠れて、周りを見るな」 「…うん…」 か細い声で返事をすると、穂乃果が俺の背中に額をこすりつけてくるのが気配で分かった。 俺はスマホのライトを点灯させ、その白い光で闇を切り裂くように前方を照らす。 玄関の壁には、ガラスの割れた家族写真。その先の和室からは、風もないのに、白いレースのカーテンがゆらり、ゆらりと幽霊のように揺れていた。 床に散らばるガラス片を踏まないよう、慎重に足を進める。目指すは、裏庭に面したガラス張りの扉だ。あそこからなら、外に出られるはずだ。 軋む床板に足音を殺しながら、リビングらしき部屋を抜ける。その奥に、目的のガラス戸はあった。薄汚れたガラスの向こうには、月明かりに照らされた、救いのように静かな夜の庭が見える。 「ここだ。ここを破れば…」 俺は、穂乃果を背中に庇ったまま、自分の学生服の上着を右肘に固く巻き付けた。 「少し離れてろ」 ドンッ! 体重を乗せ、ガラスの中心を肘で打つ。骨に響くような鈍い衝撃。だが、ガラスは砕けない。ひび一つ入らなかった。 「…くそっ!」 もう一度、今度はより強く、全体重を乗せて叩きつける。 ガンッ!!と、腕が痺れるほどの衝撃。しかし、ガラスはまるで分厚い鉄板でもあるかのように、沈黙を保っている。 何度、何度叩きつけても結果は同じだった。俺の荒い呼吸と、肉を打つ鈍い音だけが、不気味な家の中に響き渡る。 「輝流、もうやめて…! 無理だよ…!」

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十二話:招かれざる客

    俺は、目の前にある古びた玄関のドアノブに手をかけた。ひやりとした、錆の浮いた鉄の感触。 どうせ開かないだろう、という予感はあった。力を込めて捻り、引く。が、がちり、と硬い感触が手に伝わるだけで、扉はびくともしない。 「……まあ、そうだよな」 左腕に、穂乃果の指が食い込むのを感じる。ほとんど全体重を預けられているせいで、少し動きにくいな。 「裏手を見てみるか」 「うん…」 家の側面に回り込み、生い茂った雑草をかき分ける。建物の影になった場所は、ひどく空気が湿っていた。 裏庭へ抜けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 裏庭の、朽ちかけた縁側の下。そこに、黒く変色した染みが、べったりとこびりついていた。まるで、何か大きな獣でも引きずったかのような、おびただしい量の痕跡。 「なんだ、これは…」 声が、掠れた。隣で、穂乃果が俺の顔を不安そうに見上げる。 「ど、どうしたの…?」 穂乃果が首を傾げる。 「何か見えるの…?」 その言葉に、はっとする。俺の視線を追う穂乃果の瞳には、ただの不審だけが浮かんでいる。 ……まさか。この、おびただしい量の血痕が、こいつには見えていない、というのか? 「……いや、なんでもない」 今余計な事を言っても、こいつを不安にさせるだけだ。そう考えた俺はかぶりを振ると、その禍々しい痕跡から目を逸らし、穂乃果の腕を引いて再び玄関へと戻った。裏手の窓も、雨戸が固く閉ざされていて入れそうになかった。 「やっぱり、戸締りくらいはしてるよな…」 「うん……管理してる人がいるんだろうしね…」 穂乃果がそう呟き、諦めの空気が漂った、その時だった。 ──カチャリ。 乾いた金属音が、やけにクリアに響いた。二人同時に、音のした玄関の方を振り返る。 「今の音は……?」 俺が呟くと、穂乃果がごくりと喉を鳴らす。 「…げ、玄関……だよね」 「ああ、見てみよう」 俺は、まるで何かに引き寄せられるように玄関へ歩み寄ると、もう一度、冷たいドアノブに手をかけた。 さっきと同じように、捻って、引く。 すると、 キィィィィン……、 今までが嘘のように、重く、軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開いた。 中から、黴と埃が混じった、淀んだ空気がどっと溢れ出す。 おかしい。さ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第十一話:抜け落ちた記憶

    放課後の生ぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。太陽は少しだけ西に傾き、アスファルトに俺たちの長い影を落としていた。遠くからは、運動部の掛け声と、一日中鳴き続けた蝉の、どこか疲れたような声が聞こえてくる。 「ねぇ輝流」 「ん?なんだ穂乃果」 隣を歩く穂乃果が、ふと足を止めた。つられて俺も立ち止まる。 「この辺りがね、秋崎叶さんのお家があった場所なんだよ」 その声は、やけに静かだった。 「……なに?この辺りが?」 視線を巡らせても、見えるのはありふれた住宅街の風景だけだ。穂乃果は俺の返事を待たずに、どこか楽しんですらいるような横顔で続ける。 「うん。詳しい位置までは流石にわからないけど…探してみる? ちなみに、茶色い屋根に三階建ての、昔ながらの大きなお家だって。」 「そうおじいちゃんの資料に書いてあった」 ……やっぱりか。俺が「行く」と返事をすることを、こいつはとっくに見越していたらしい。 そしてなにより、おじいさんの情報力がいちばん怖い。 「……はぁ。助かるよ」 呆れたような、それでいて感心したような息が漏れた。 「えへへ、いいえ!それじゃ、いこ!」 穂乃果は、してやったりとでも言いたげに笑った。 *** 住宅街の細い路地を抜け、視界が拓ける。見渡す限りの青々とした田んぼが、夏の匂いを濃くしていた。 そこに、ぽつんと。まるで世界から忘れられることを望むように、一軒の家が建っていた。黒ずんだ茶色の屋根。三階建ての、古びた家。 「……穂乃果、これじゃないか?」 隣で、穂乃果が息を呑む音が聞こえた。俺のシャツの袖を、小さな手がきゅっと掴む。 一目で、廃墟だと分かった。壁のあちこちに黒い染みのような蔦が絡みつき、割れた窓ガラスが空虚な眼窩のようにこちらを見ている。人の営みが消えた建物は、こんなにも早く朽ちていくものだろうか。鼻につくのは、湿った土と黴の匂い。かつてここにあったはずの、生活の匂いなんてものは、欠片も残っていないようだった。 「…秋崎さんのご両親は?」 俺は、祖父の知恵を借りてすっかり物知りになった穂乃果に尋ねた。 「うーん…」 歯切れの悪い返事。何かを知っている人間のそれだった。 「なんだよ、その反応は」 「…ご家族の方も、不審な亡くなり方をしてるみたいなんだよね」 「それも…お父さんもお母さんも…そのど

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status