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10.苦悶の声

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-10-05 19:56:05

 俺には、はっきりと見えていた。

 自販機の白い光の端に立つ、女の姿。

 折れ曲がった手足。濡れた髪。血に染まった服。歩くたびに揺れる、もう身体としての形を保てていない輪郭。

 けれど――。

「あ、足音が……止まったけど……」

 隣で、穂乃果が震える声を出した。

「どうなったの……?」

 俺は穂乃果を見る。

 彼女の目は、自販機の前を必死に探っていた。俺が見ている場所と同じ方を向いている。なのに、その瞳は女の姿を捉えていない。

 見えていないのか。

 俺には、こんなにも鮮明に見えているのに。

 女は俺を見ていた。

 いや、見ているというより、縋っているのかもしれない。血の気のない唇が、ゆっくりと動く。

『痛ァい……もう……解放されたい……』

 声が聞こえた。

 耳に届いたというより、頭の内側を直接撫でられたような声だった。掠れて、濡れて、どこかで途切れかけている。

 穂乃果には、聞こえていないらしい。

 彼女はただ、不安そうに俺の横顔を見上げている。

 俺は一歩、前に出た。

「あなたは、なぜこの世に留まっているんですか?」

「えっ……」

 穂乃果が息を呑む。

「も、もしかして……目の前にいるの……?」

「ああ」

 俺は女から目を逸らさずに答えた。

「酷い怪我だ。いや、もう怪我とかそういう次元じゃないか。手足は折れ曲がってるし――」

「ひっ……! い、言わなくていいよ……!」

 穂乃果が俺の袖をぎゅっと掴む。

 その指が震えていた。

 俺はそこで口を閉じた。たしかに、見えていない相手に細かく説明する必要はない。穂乃果の想像力に余計なものを渡すだけだ。

 女は、こちらの会話など聞こえていないみたいだった。

『痛い……苦しい……なんで……どうして私がこんな目に……』

 同じ場所で、同じ苦痛をなぞり続けている。

 二十年。

 穂乃果が調べた通りなら、この人は二十年近く、この道に縛られている。

 死んだ瞬間の痛みを、何度も、何度も。

 終わったはずの身体で、まだ終われないまま。

「……俺に、何かできることはありますか?」

 聞くと、女の首がわずかに傾いた。

 ぎしり、と骨の軋むような音がした気がした。

 そして、濡れた唇が動く。

『指輪……』

「指輪?」

『指輪を……返して……』

 その声が、夜の中に薄く滲んだ。

 次の瞬間、女の輪郭がぼやけ始める。

 血に濡れた服も、折れ曲がった腕も、白い足も、自販機の光に溶けるみたいに透けていく。

「……! 待ってくれ!」

 俺は思わず手を伸ばした。

「まだ――」

「なに……? 何が起きてるの……?」

 穂乃果が不安げに俺と暗がりを見比べる。

 けれど、女の姿はもうほとんど消えかけていた。

 最後に残ったのは、こちらを見つめる目だけだった。

 恨みなのか、悲しみなのか、それともただ助けを求めているだけなのか。

 判別する前に、それも夜へ溶けた。

 ぺちゃ、という足音も。

 濡れた匂いも。

 全部、なかったことみたいに消えていく。

「……消えちまった」

 俺が呟くと、穂乃果は小さく息を吐いた。

 張り詰めていたものが抜けたのか、膝から力が落ちかける。俺は反射的に腕を伸ばし、彼女の背中を支えた。

「大丈夫か?」

「う、うん……大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ」

 大丈夫、という声はまったく大丈夫そうではなかった。

 それでも穂乃果は、俺の腕から離れると、暗がりをじっと見つめた。

「……何か、言ってたの?」

「ああ」

 俺は女が消えた場所を見る。

「指輪を返して、って言ってた」

「ゆ、指輪……?」

 穂乃果が目を丸くする。

「輝流、指輪なんて拾ってないよね……?」

「拾ってない」

 少なくとも、指輪は。

 黒い石のことが頭をよぎったが、今それを同じものとして扱うには早い。あれは指輪ではなかった。ただ、無関係だと切り捨てるには、あまりにも気味が悪い。

「もしかすると」

 俺は考えながら言った。

「電車に轢かれた時、身につけていた指輪がどこかへ飛んだ。あるいは……誰かに奪われた」

「奪われた……」

「それなら、返してって言葉も分からなくはない」

 事故で失くしたのなら、探している。

 誰かに奪われたのなら、取り戻したがっている。

 どちらにせよ、彼女は指輪に縛られている。

 いや。

 指輪そのものに、かもしれない。

「彼女は、亡くなってからずっと、この道をさまよっているのかもしれないな」

 言葉にすると、夜の湿度が少しだけ増した気がした。

 穂乃果は自販機の前を見つめたまま、ぎゅっと両手を握る。

「……私たちに見えてなかっただけで、ずっと居たのかも」

「少なくとも、指輪が関係してるってことは分かったね」

「ああ」

 穂乃果は小さく頷いた。

 それから、俺の方を見る。

「なら、私、もう少しおじいちゃんの書斎を漁ってみる。何か分かるかもしれないし」

「それは助かるけど、無理しなくていいぞ」

 今日の穂乃果は、ただでさえ寝不足だ。

 目の下の隈はまだ消えていない。さっきまで隣で震えていたことも、忘れたわけじゃない。

 けれど、穂乃果は首を横に振った。

「怖いよ。寝不足だし、正直、今すぐ帰って布団に潜りたいくらい怖い」

 そこで一度、彼女は唇を結ぶ。

「でも、何が起きてるのか分からないままの方が、もっと怖い。中途半端は嫌だよ」

 穂乃果は、俺の目をまっすぐ見た。

「それに、輝流がどうして霊を見えるようになったのか。それも知りたいから」

「それは……俺も知りたいな」

 自分の声が、思ったより低く聞こえた。

 本来、俺に霊感なんてものはない。

 これまで幽霊を見たこともなければ、怪奇現象に巻き込まれたこともない。怖い話を聞いても、気味が悪いとは思っても、それ以上のことはなかった。

 それが急に、こうだ。

 昨日から、俺には彼女が見えている。

 声まで聞こえた。

 もちろん、あの女の人の想いが強すぎて、たまたま俺にだけ姿を見せているのかもしれない。波長が合ったとか、そういう話で片づけられる可能性もある。

 でも。

 それだけじゃない気がしていた。

 もっと根の深いところに、原因がある。

 少なくとも、禁忌とされる神鳴山に入ってから、俺は霊を見るようになった。

 あの山。

 あの社。

 机の上に置いたはずの、黒い石。

 指先に残る冷たさ。

 その全部が、一本の細い糸で繋がりかけている。

 まだ形は見えない。

 けれど、何かがある。

「……智哉は」

 ふと、口から名前が漏れた。

 穂乃果が顔を上げる。

「智哉くん?」

「あいつは、大丈夫なのか」

 俺だけが変わったのか。

 それとも、神鳴山に入った俺たち全員が、もう何かに触れてしまったのか。

 田んぼ道の向こうに、闇が広がっている。

 さっきまで女が立っていた場所には、もう何もいない。

 それなのに、俺にはまだ、濡れた足音が耳の奥に残っていた。

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