LOGIN俺には、はっきりと見えていた。
自販機の白い光の端に立つ、女の姿。 折れ曲がった手足。濡れた髪。血に染まった服。歩くたびに揺れる、もう身体としての形を保てていない輪郭。 けれど――。 「あ、足音が……止まったけど……」 隣で、穂乃果が震える声を出した。 「どうなったの……?」 俺は穂乃果を見る。 彼女の目は、自販機の前を必死に探っていた。俺が見ている場所と同じ方を向いている。なのに、その瞳は女の姿を捉えていない。 見えていないのか。 俺には、こんなにも鮮明に見えているのに。 女は俺を見ていた。 いや、見ているというより、縋っているのかもしれない。血の気のない唇が、ゆっくりと動く。 『痛ァい……もう……解放されたい……』 声が聞こえた。 耳に届いたというより、頭の内側を直接撫でられたような声だった。掠れて、濡れて、どこかで途切れかけている。 穂乃果には、聞こえていないらしい。 彼女はただ、不安そうに俺の横顔を見上げている。 俺は一歩、前に出た。 「あなたは、なぜこの世に留まっているんですか?」 「えっ……」 穂乃果が息を呑む。 「も、もしかして……目の前にいるの……?」 「ああ」 俺は女から目を逸らさずに答えた。 「酷い怪我だ。いや、もう怪我とかそういう次元じゃないか。手足は折れ曲がってるし――」 「ひっ……! い、言わなくていいよ……!」 穂乃果が俺の袖をぎゅっと掴む。 その指が震えていた。 俺はそこで口を閉じた。たしかに、見えていない相手に細かく説明する必要はない。穂乃果の想像力に余計なものを渡すだけだ。 女は、こちらの会話など聞こえていないみたいだった。 『痛い……苦しい……なんで……どうして私がこんな目に……』 同じ場所で、同じ苦痛をなぞり続けている。 二十年。 穂乃果が調べた通りなら、この人は二十年近く、この道に縛られている。 死んだ瞬間の痛みを、何度も、何度も。 終わったはずの身体で、まだ終われないまま。 「……俺に、何かできることはありますか?」 聞くと、女の首がわずかに傾いた。 ぎしり、と骨の軋むような音がした気がした。 そして、濡れた唇が動く。 『指輪……』 「指輪?」 『指輪を……返して……』 その声が、夜の中に薄く滲んだ。 次の瞬間、女の輪郭がぼやけ始める。 血に濡れた服も、折れ曲がった腕も、白い足も、自販機の光に溶けるみたいに透けていく。 「……! 待ってくれ!」 俺は思わず手を伸ばした。 「まだ――」 「なに……? 何が起きてるの……?」 穂乃果が不安げに俺と暗がりを見比べる。 けれど、女の姿はもうほとんど消えかけていた。 最後に残ったのは、こちらを見つめる目だけだった。 恨みなのか、悲しみなのか、それともただ助けを求めているだけなのか。 判別する前に、それも夜へ溶けた。 ぺちゃ、という足音も。 濡れた匂いも。 全部、なかったことみたいに消えていく。 「……消えちまった」 俺が呟くと、穂乃果は小さく息を吐いた。 張り詰めていたものが抜けたのか、膝から力が落ちかける。俺は反射的に腕を伸ばし、彼女の背中を支えた。 「大丈夫か?」 「う、うん……大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ」 大丈夫、という声はまったく大丈夫そうではなかった。 それでも穂乃果は、俺の腕から離れると、暗がりをじっと見つめた。 「……何か、言ってたの?」 「ああ」 俺は女が消えた場所を見る。 「指輪を返して、って言ってた」 「ゆ、指輪……?」 穂乃果が目を丸くする。 「輝流、指輪なんて拾ってないよね……?」 「拾ってない」 少なくとも、指輪は。 黒い石のことが頭をよぎったが、今それを同じものとして扱うには早い。あれは指輪ではなかった。ただ、無関係だと切り捨てるには、あまりにも気味が悪い。 「もしかすると」 俺は考えながら言った。 「電車に轢かれた時、身につけていた指輪がどこかへ飛んだ。あるいは……誰かに奪われた」 「奪われた……」 「それなら、返してって言葉も分からなくはない」 事故で失くしたのなら、探している。 誰かに奪われたのなら、取り戻したがっている。 どちらにせよ、彼女は指輪に縛られている。 いや。 指輪そのものに、かもしれない。 「彼女は、亡くなってからずっと、この道をさまよっているのかもしれないな」 言葉にすると、夜の湿度が少しだけ増した気がした。 穂乃果は自販機の前を見つめたまま、ぎゅっと両手を握る。 「……私たちに見えてなかっただけで、ずっと居たのかも」 「少なくとも、指輪が関係してるってことは分かったね」 「ああ」 穂乃果は小さく頷いた。 それから、俺の方を見る。 「なら、私、もう少しおじいちゃんの書斎を漁ってみる。何か分かるかもしれないし」 「それは助かるけど、無理しなくていいぞ」 今日の穂乃果は、ただでさえ寝不足だ。 目の下の隈はまだ消えていない。さっきまで隣で震えていたことも、忘れたわけじゃない。 けれど、穂乃果は首を横に振った。 「怖いよ。寝不足だし、正直、今すぐ帰って布団に潜りたいくらい怖い」 そこで一度、彼女は唇を結ぶ。 「でも、何が起きてるのか分からないままの方が、もっと怖い。中途半端は嫌だよ」 穂乃果は、俺の目をまっすぐ見た。 「それに、輝流がどうして霊を見えるようになったのか。それも知りたいから」 「それは……俺も知りたいな」 自分の声が、思ったより低く聞こえた。 本来、俺に霊感なんてものはない。 これまで幽霊を見たこともなければ、怪奇現象に巻き込まれたこともない。怖い話を聞いても、気味が悪いとは思っても、それ以上のことはなかった。 それが急に、こうだ。 昨日から、俺には彼女が見えている。 声まで聞こえた。 もちろん、あの女の人の想いが強すぎて、たまたま俺にだけ姿を見せているのかもしれない。波長が合ったとか、そういう話で片づけられる可能性もある。 でも。 それだけじゃない気がしていた。 もっと根の深いところに、原因がある。 少なくとも、禁忌とされる神鳴山に入ってから、俺は霊を見るようになった。 あの山。 あの社。 机の上に置いたはずの、黒い石。 指先に残る冷たさ。 その全部が、一本の細い糸で繋がりかけている。 まだ形は見えない。 けれど、何かがある。 「……智哉は」 ふと、口から名前が漏れた。 穂乃果が顔を上げる。 「智哉くん?」 「あいつは、大丈夫なのか」 俺だけが変わったのか。 それとも、神鳴山に入った俺たち全員が、もう何かに触れてしまったのか。 田んぼ道の向こうに、闇が広がっている。 さっきまで女が立っていた場所には、もう何もいない。 それなのに、俺にはまだ、濡れた足音が耳の奥に残っていた。静寂は、絶望によく似ていた。 病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。 そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。 その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。 ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。 ピッ、ピッ、ピッ。 無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」 喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。 悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。 だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。 無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。 知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。 知らなければならない。 何が起きたのか。 どうして、こんなことになったのか。 もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。 虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」 言葉を選ぶ。 薄氷を踏むみたいに、慎重に。 今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」 そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」 言葉の先が、嗚咽に変わる。 震えが強くなる。 俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。 何かを言ってやりたかった。 大丈夫だ、とか。 助かる、とか。 そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。 でも、言えなかった。 今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま
対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く
夕日は、秋崎邸の屋根を赤く照らしていた。 燃えているみたいだ、と思った。 もちろん、本当に火がついているわけじゃない。傾いた陽が瓦に反射しているだけだ。けれど、周りに家が一軒もないせいで、その赤だけが妙に浮いて見えた。 二階建ての、かなり大きな家だった。 古い。 だが、ただの廃屋という感じでもない。 庭がやけに広く、門から玄関までの距離もある。伸びた草が夕風に揺れていて、誰も住んでいないはずなのに、まるでここだけ時間の流れから取り残されているようだった。 「まさか、直接来ることになるなんてな」 俺がそう呟くと、隣で穂乃果が小さく肩を跳ねさせた。 「そ、そ、そう
その後、俺は穂乃果を家まで送り届けた。 本人は最後まで「大丈夫」と言い張っていたが、どう見ても大丈夫ではなかった。歩きながら何度も目を擦っていたし、玄関先で別れる時には、返事の語尾が半分眠りに溶けていた。 それにも関わらず穂乃果は、祖父の書斎から当時の新聞をいくつも引っ張り出してきて、俺に渡してくれた。 「古いから、破かないようにね」 そう念を押す声だけは、妙にしっかりしていた。 そして現在。 俺は自室の机に向かい、借り受けた新聞を一枚ずつ広げている。 貴重な二十年前の新聞だ。紙は黄ばんでいて、端は少し脆くなっている。印刷の色も薄れかけているが、文字はまだ読めた。
放課後。 俺たちは、昨日と同じ田んぼ道に来ていた。 昼間の熱をまだ抱えたアスファルトから、むっとした匂いが立ち上っている。遠くの山際に沈みかけた夕陽が、田んぼの水面を赤く染めていた。 蝉の声がすごい。 鳴いている、というより、空気そのものが蝉の声で埋め尽くされているみたいだった。 その中を、穂乃果が隣でゆっくり歩いている。 学校を出る時は「平気」と言い張っていたくせに、やっぱり少し足取りが重い。眠気のせいもあるだろうし、これから向かう場所のせいもあるのだろう。 俺は横目で穂乃果を見た。 「そういえば、穂乃果」 「んー?」 穂乃果がこちらを見る。 「俺のこ
展開は、俺が思っていたよりも早かった。 翌朝。教室に入って自分の席へ向かう途中、隣の席に突っ伏している見慣れた後ろ姿が目に入った。 穂乃果だ。 いつもなら俺より先に来て、誰かしらと話しているか、窓の外を眺めてぼんやりしているかのどちらかなのに、今日は机に頬を押しつけたまま動かない。 「おはよう」 声をかけると、穂乃果はゆっくり顔を上げた。 「おはよ〜……」 ふにゃ、と力の抜けた声が返ってくる。 その顔を見て、俺は少しだけ眉を寄せた。 「おはよう……って。その目の下の隈はどうした」 「これ?」 穂乃果は自分の目元を指で触ってから、困ったように笑った。 「これ