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11.秋崎 叶

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-10-06 20:13:30

 その後、俺は穂乃果を家まで送り届けた。

 本人は最後まで「大丈夫」と言い張っていたが、どう見ても大丈夫ではなかった。歩きながら何度も目を擦っていたし、玄関先で別れる時には、返事の語尾が半分眠りに溶けていた。

 それにも関わらず穂乃果は、祖父の書斎から当時の新聞をいくつも引っ張り出してきて、俺に渡してくれた。

「古いから、破かないようにね」

 そう念を押す声だけは、妙にしっかりしていた。

 そして現在。

 俺は自室の机に向かい、借り受けた新聞を一枚ずつ広げている。

 貴重な二十年前の新聞だ。紙は黄ばんでいて、端は少し脆くなっている。印刷の色も薄れかけているが、文字はまだ読めた。

 古い紙の匂いが、部屋にじわりと広がる。

 スマホで検索すれば一瞬で済むようなものとは違う。指先で紙をめくり、日付を追い、見出しを拾っていく作業は、妙に時間がかかった。

 俺は一月、二月、三月と、順番に新聞を確認していく。

 地方欄。事故。事件。小さな町の行事。商店街の特売。どこかの小学校の運動会。知らない誰かの暮らしの断片が、薄い紙の上にまだ残っている。

 確か、あのあたりの地区の名前は――。

「|稲穂町《いなほまち》……だったか」

 小さく呟きながら、記事の中にその地名を探す。

 今は田んぼばかりの場所だ。けれど、古い記事の中に出てくる稲穂町は、俺が知っている景色とは少し違う。

 田園の中を、線路が通っている。

 夕方になると、電車の窓から金色に揺れる稲穂が見えたらしい。地元の人間にとっては、ありふれた景色で、同時に少しだけ誇らしい景色だったのだろう。

 記事の端に載った小さな写真には、線路脇に広がる田んぼが写っていた。

 夕日を反射した水田。

 細い線路。

 遠くの山。

 そこに、今の自販機はない。

 当たり前だ。

 けれど、そう思った瞬間、昨日の白い光が脳裏に浮かんだ。

 女が立っていた場所。

 濡れた足音。

 指輪を返して、という声。

 俺は新聞をめくる手を早めた。

 四月、五月、六月。

 そして、七月。

 地方欄の隅に、その記事はあった。

「……これだ」

 見出しは大きくない。

 けれど、そこには確かに人身事故の記載がある。

 稲穂町。旧線路付近。若い女性が列車にはねられ死亡。

 俺は記事の下にある記者名へ視線を落とす。

「|白石《しらいし》|孝之《たかゆき》……」

 穂乃果の祖父の名前だった。

「やっぱり、取材してたんだな」

 白石孝之。

 穂乃果の祖父は、地元ではかなり有名なジャーナリストだった。

 扱う題材は広かった。事件、事故、経済、土地の歴史。時には都市伝説めいた噂や、古い文献に残る奇妙な記録まで掘り起こしていたらしい。

 ジャーナリストでありながら、逆に取材を受けることすらあったというのだから、相当な人物だったのだろう。

 ただ――。

「孝之さんは、ある事件をきっかけに心霊ものと都市伝説ばかり追うようになったんだったな」

 その”ある事件”について、俺は詳しく知らない。

 穂乃果からも、断片的にしか聞いたことがなかった。本人も小さい頃の話だから、詳しい事情までは分からないのだろう。

 そして、今となっては直接聞くこともできない。

 白石孝之は、穂乃果が四歳の頃に亡くなっている。

 死因は──|変《・》|死《・》、だった。

 確か、自宅の書斎で倒れているのを穂乃果の母親が発見し、そのまま死亡と判定された。

 穂乃果の祖父の書斎。

 そこに残された新聞。

 二十年前の人身事故。

 そして、その事故を追っていた記者の死。

 偶然と言えば、偶然で済む。

 けれど、今の俺には、その言葉だけで片づける気にはなれなかった。

 俺は記事をもう一度読み返そうとして――。

 その時、机の上のスマホが震えた。

 静かな部屋の中では、それだけで妙に大きく聞こえる。

 画面を見る。

 表示されていた名前は、穂乃果だった。

「……穂乃果?」

 壁の時計へ目を向ける。

 針は一時を回っていた。

 俺は小さく息を吐いてから、通話ボタンを押す。

「もしもし」

『あっ、出た。輝流、今大丈夫?』

「大丈夫だけど……って、そうじゃない」

 俺は椅子にもたれながら、眉間を押さえた。

「寝ないと駄目だろ。お前、昨日も相当夜更かししたんだから」

『えへへ……』

「えへへ、じゃない」

『ちょっと私も、また調べ物してたらね。熱が入っちゃって』

 電話越しの声は、明るい。

 けれど、その奥に眠気が混じっているのが分かった。

 まったく。

 やっぱり、しっかりジャーナリストの血が混ざっている。

 穂乃果は穂乃果で、怖がりながらも止まれないのだろう。何が起きているのか分からないままではいられない。分からないものを、そのまま暗闇に置いておけない。

 その性分は、たぶん白石孝之の血だ。

「それで」

 俺は新聞の上に視線を落とした。

「何か分かったのか?」

『うん。実はね、その人の家が分かったの。あと、名前も』

「なんだって?」

 思わず背筋が起きた。

 穂乃果の声が、少しだけ慎重になる。

『輝流が見たっていう人。その人の名前は、|秋崎叶《あきざきかなえ》さん』

 秋崎叶。

 俺は頭の中で、その名前を反芻する。

 血まみれの女。

 折れ曲がった手足。

 返して、と唇を動かしていた人。

 ようやく、それがただの”霊”ではなくなった。

 ちゃんと名前のある、ひとりの人間になった。

『それでね』

 穂乃果は、少しだけ声を落とした。

『叶さん、実は婚約してたみたいなの。結婚間際に、電車に轢かれちゃったみたいなんだ……』

 婚約。

 結婚間際。

 その言葉が、静かに胸の奥へ落ちる。

 指輪。

 あの女が求めていたものの意味が、少しだけ形を帯びた。

 俺は机の上の新聞を見下ろした。

 黄ばんだ紙の上で、二十年前の事故の記事だけが、やけに暗く浮かび上がって見えた。

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