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9.赤い服の女

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-10-02 20:08:00

 放課後。

 俺たちは、昨日と同じ田んぼ道に来ていた。

 昼間の熱をまだ抱えたアスファルトから、むっとした匂いが立ち上っている。遠くの山際に沈みかけた夕陽が、田んぼの水面を赤く染めていた。

 蝉の声がすごい。

 鳴いている、というより、空気そのものが蝉の声で埋め尽くされているみたいだった。

 その中を、穂乃果が隣でゆっくり歩いている。

 学校を出る時は「平気」と言い張っていたくせに、やっぱり少し足取りが重い。眠気のせいもあるだろうし、これから向かう場所のせいもあるのだろう。

 俺は横目で穂乃果を見た。

「そういえば、穂乃果」

「んー?」

 穂乃果がこちらを見る。

「俺のこと、二人きりの時は輝流って呼ぶくせに、学校とか他の奴らの前だと浅生くんって苗字呼びなのはなんでなんだ?」

 何気なく聞いたつもりだった。

 けれど、穂乃果はぴたりと足を止めた。

「えっ……?」

 そして、信じられないものを見るような顔で俺を見上げる。

「輝流、覚えてないの?」

「えっ」

 その反応に、こっちが一歩引いた。

 まずい。これは何かを踏んだ。

「むむむむっ……!」

 穂乃果の頬が、分かりやすく膨らんでいく。

「輝流が、小学生の頃に言ったんだよ。みんなの前で名前で呼ぶのやめてくれって」

「……」

 げ。

 そう言われてみれば。

 いや、確かにそんなことを言った気がする。小学生の頃。周りの男子にからかわれて、妙に恥ずかしくなって、それで――。

「そ、そうだったか?」

「そうだよぉ!」

 穂乃果が俺の腕を軽く叩いた。

「私はずっと、輝流って呼びそうになるのを我慢してたんだからね?」

「悪い」

 観念して謝る。

「ほら、俺も多感な時期だったんだよ。いくら幼馴染でも、その……そういうのが恥ずかしい時期があったんだ」

「ふーん」

 穂乃果はじっと俺を見る。

 目の下にはまだ隈があるのに、こういう時だけやたら鋭い。

「じゃあ、今は?」

「今は別に気にならねーよ。あくまで子供の頃の話だ」

「今もまだ子供だけどねっ」

 穂乃果が少しだけ得意げに笑う。

「……それもそうだな」

 否定できなかった。

 俺たちは、たぶんまだ子供だ。

 けれど、あの頃とまったく同じでもない。

 名前を呼ばれるだけで周りの目が気になった昔の俺と、穂乃果の声で自分の名前が呼ばれることに慣れきっている今の俺とでは、何かが違う。

 それが何なのか、わざわざ言葉にする気はなかった。

 穂乃果も、きっと分かっている。

 俺が穂乃果の気持ちに気づいていないわけじゃない。

 俺だって、穂乃果をただの幼馴染だと思っているわけじゃない。

 ただ、今さら何か名前をつけたところで、俺たちの距離が劇的に変わるとも思えなかった。付き合うとか、付き合わないとか。そういう言葉を置いたところで、明日も穂乃果は俺の隣にいて、俺はたぶん今と同じ顔で「おはよう」と返す。

 それくらいには、俺たちの距離はずっと前から近かった。

 そして、近すぎた。

 だからこそ、たまに扱い方が分からなくなる。

 そんなことを考えているうちに、日はほとんど沈んでいた。

 田んぼの赤は黒に変わり、畦道の境目が曖昧になっていく。さっきまでうるさいくらいだった蝉の声も、どこか遠くに沈んで聞こえた。

 自販機の白い光だけが、暗くなった道端に浮かび上がっている。

 昨日と同じ光。

 やけに人工的で、やけに冷たい。

「覚悟してたけど……やっぱり暗いね」

 穂乃果の声が、少しだけ小さくなった。

 俺は自販機の前で立ち止まり、周囲を見渡す。

 田んぼ。電柱。黒く沈んだ山の輪郭。どこまでも続く、誰もいない道。

 普通なら、嫌な場所だと思うのかもしれない。

 でも俺は、怖いより先に、目が冴えていくのを感じていた。

 夜が濃くなるほど、昨日の感覚が近づいてくる。

 濡れた足音。血の匂い。声にならない唇の動き。

 にも関わらず。俺の胸の奥は、妙に静かだった。

 退屈な日常の表面に、爪を立てられているような感覚。

 それが不快ではない時点で、俺はどこかおかしいのだろう。

「穂乃果」

「なに?」

「今ならまだ間に合う。帰ってもいいぞ」

 言った瞬間、ばしっと腕を叩かれた。

「いてっ」

「輝流のバカ」

 穂乃果は頬を膨らませて、俺を睨んでいた。

 その目には、怖さもある。

 暗闇に怯える普通の感覚が、ちゃんとある。

 それでも、彼女はここに立っている。

 俺が勝手にひとりで深い方へ進まないように、踏みとどまらせるみたいに。

「……なんで怒ってるんだよ」

 口ではそう言った。

 けれど、理由くらい分かっていた。

 分かっていて、言った。

 穂乃果は危ない場所に来るべきじゃない。

 けれど、穂乃果は俺をひとりで行かせるつもりがない。

 昔からそうだった。

 俺が何かを拾いに行こうとすれば、危ないよと言いながら隣に来る。俺が変なものに目を奪われていると、眉を下げて、それでも一緒に見ようとする。

 俺の異常を、否定しきらない。

 でも、飲み込まれないように腕を掴む。

 たぶん、それが穂乃果の強さだった。

「怖いなら、無理しなくていい」

「もちろん怖いよ」

 穂乃果はすぐに答えた。

 その素直さに、俺は少しだけ黙る。

「怖いけど……輝流を一人でここに置いて帰る方が、もっと嫌だから」

 自販機の光が、穂乃果の横顔を白く照らしていた。

 眠そうで、疲れていて、怖がっている。

 それなのに、彼女は俺から目を逸らさなかった。

「だから、帰らない」

「……そうか」

「うん」

 短い返事。

 それだけで十分だった。

 俺は自販機の横に視線を向ける。

 昨日、女が立っていた場所。

 何もいない。

 ただ、暗闇だけがそこにある。

 けれど、指先の奥に残った冷たさが、少しだけ強くなった気がした。

 その時だった。

 ぺちゃ。

 水を含んだ何かが、アスファルトを踏む音がした。

 穂乃果の肩が、隣で小さく跳ねる。

 ぺちゃ。

 また、鳴った。

 今度はさっきよりも近い。

 田んぼの方からではない。山の方からでもない。音は、闇の奥からまっすぐこちらへ向かってきている。

「……穂乃果」

 俺は自販機の横の暗がりを見たまま、声を落とした。

「来たみたいだ」

「……っ」

 穂乃果が息を呑む。

 返事はなかった。

 代わりに、制服の袖を掴まれる感触がした。指先に力が入りすぎて、布越しでも爪の硬さが分かる。

 ぺちゃ。

 ぺちゃ。

 濡れた足音は、遅い。

 けれど、止まらない。

 一歩ずつ。確実に。

 昨日、俺の背後をついてきた音と同じだった。

「こ、この音……本当に……」

 穂乃果の声が震えている。

 自販機の光が届かない闇の中で、何かが揺れた。

 最初に見えたのは、白く、血にまみれた足だった。

 裸足。

 濡れている。

 足の裏が地面を踏むたび、ぺちゃ、と水音が鳴る。けれど、その足は普通の形をしていなかった。足首が妙な角度に曲がり、膝も、本来なら曲がらない方向へ折れている。

 それでも、歩いていた。

 歩けるはずのない脚で。

 次に、血に濡れたスカートの裾が見えた。

 黒く乾いた部分と、まだ新しいみたいに湿った赤が、自販機の白い光を鈍く弾いている。

 そして、女の全身が月明かりの下に出た。

「……」

 喉の奥が、静かに詰まる。

 昨日は、顔だけだった。

 血まみれだということは分かった。濡れた髪も、青白い頬も、こちらを見ていた目も覚えている。

 けれど、全身は見えていなかった。

 今は違う。

 女は、そこに立っていた。

 両腕はだらりと垂れ下がっている。片方の肘は逆に折れ、もう片方の手首は力を失った人形みたいにぶら下がっていた。首は少し傾いている。胴は歪み、肩の高さが左右で違う。

 それでも、女の顔だけはまっすぐこちらを向いていた。

 長い髪から、ぽたり、と雫が落ちる。

 水なのか、血なのかは分からない。

 穂乃果の指が、俺の袖をさらに強く握った。

 痛いくらいだった。

 女は一歩、こちらへ近づく。

 ぺちゃ。

 白い足が、アスファルトに濡れた跡を残す。

 その唇が、ゆっくりと動いた。

 声はない。

 けれど、俺にはやはり、そう見えた。

 返して。

 女は、そう言っていた。

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