مشاركة

9.赤い服の女

مؤلف: 渡瀬藍兵
last update تاريخ النشر: 2025-10-02 20:08:00

 放課後。

 俺たちは、昨日と同じ田んぼ道に来ていた。

 昼間の熱をまだ抱えたアスファルトから、むっとした匂いが立ち上っている。遠くの山際に沈みかけた夕陽が、田んぼの水面を赤く染めていた。

 蝉の声がすごい。

 鳴いている、というより、空気そのものが蝉の声で埋め尽くされているみたいだった。

 その中を、穂乃果が隣でゆっくり歩いている。

 学校を出る時は「平気」と言い張っていたくせに、やっぱり少し足取りが重い。眠気のせいもあるだろうし、これから向かう場所のせいもあるのだろう。

 俺は横目で穂乃果を見た。

「そういえば、穂乃果」

「んー?」

 穂乃果がこちらを見る。

「俺のこと、二人きりの時は輝流って呼ぶくせに、学校とか他の奴らの前だと浅生くんって苗字呼びなのはなんでなんだ?」

 何気なく聞いたつもりだった。

 けれど、穂乃果はぴたりと足を止めた。

「えっ……?」

 そして、信じられないものを見るような顔で俺を見上げる。

「輝流、覚えてないの?」

「えっ」

 その反応に、こっちが一歩引いた。

 まずい。これは何かを踏んだ。

「むむむむっ……!」

 穂乃果の頬が、分かりやすく膨らんでいく。

「輝流が、小学生の頃に言ったんだよ。みんなの前で名前で呼ぶのやめてくれって」

「……」

 げ。

 そう言われてみれば。

 いや、確かにそんなことを言った気がする。小学生の頃。周りの男子にからかわれて、妙に恥ずかしくなって、それで――。

「そ、そうだったか?」

「そうだよぉ!」

 穂乃果が俺の腕を軽く叩いた。

「私はずっと、輝流って呼びそうになるのを我慢してたんだからね?」

「悪い」

 観念して謝る。

「ほら、俺も多感な時期だったんだよ。いくら幼馴染でも、その……そういうのが恥ずかしい時期があったんだ」

「ふーん」

 穂乃果はじっと俺を見る。

 目の下にはまだ隈があるのに、こういう時だけやたら鋭い。

「じゃあ、今は?」

「今は別に気にならねーよ。あくまで子供の頃の話だ」

「今もまだ子供だけどねっ」

 穂乃果が少しだけ得意げに笑う。

「……それもそうだな」

 否定できなかった。

 俺たちは、たぶんまだ子供だ。

 けれど、あの頃とまったく同じでもない。

 名前を呼ばれるだけで周りの目が気になった昔の俺と、穂乃果の声で自分の名前が呼ばれることに慣れきっている今の俺とでは、何かが違う。

 それが何なのか、わざわざ言葉にする気はなかった。

 穂乃果も、きっと分かっている。

 俺が穂乃果の気持ちに気づいていないわけじゃない。

 俺だって、穂乃果をただの幼馴染だと思っているわけじゃない。

 ただ、今さら何か名前をつけたところで、俺たちの距離が劇的に変わるとも思えなかった。付き合うとか、付き合わないとか。そういう言葉を置いたところで、明日も穂乃果は俺の隣にいて、俺はたぶん今と同じ顔で「おはよう」と返す。

 それくらいには、俺たちの距離はずっと前から近かった。

 そして、近すぎた。

 だからこそ、たまに扱い方が分からなくなる。

 そんなことを考えているうちに、日はほとんど沈んでいた。

 田んぼの赤は黒に変わり、畦道の境目が曖昧になっていく。さっきまでうるさいくらいだった蝉の声も、どこか遠くに沈んで聞こえた。

 自販機の白い光だけが、暗くなった道端に浮かび上がっている。

 昨日と同じ光。

 やけに人工的で、やけに冷たい。

「覚悟してたけど……やっぱり暗いね」

 穂乃果の声が、少しだけ小さくなった。

 俺は自販機の前で立ち止まり、周囲を見渡す。

 田んぼ。電柱。黒く沈んだ山の輪郭。どこまでも続く、誰もいない道。

 普通なら、嫌な場所だと思うのかもしれない。

 でも俺は、怖いより先に、目が冴えていくのを感じていた。

 夜が濃くなるほど、昨日の感覚が近づいてくる。

 濡れた足音。血の匂い。声にならない唇の動き。

 にも関わらず。俺の胸の奥は、妙に静かだった。

 退屈な日常の表面に、爪を立てられているような感覚。

 それが不快ではない時点で、俺はどこかおかしいのだろう。

「穂乃果」

「なに?」

「今ならまだ間に合う。帰ってもいいぞ」

 言った瞬間、ばしっと腕を叩かれた。

「いてっ」

「輝流のバカ」

 穂乃果は頬を膨らませて、俺を睨んでいた。

 その目には、怖さもある。

 暗闇に怯える普通の感覚が、ちゃんとある。

 それでも、彼女はここに立っている。

 俺が勝手にひとりで深い方へ進まないように、踏みとどまらせるみたいに。

「……なんで怒ってるんだよ」

 口ではそう言った。

 けれど、理由くらい分かっていた。

 分かっていて、言った。

 穂乃果は危ない場所に来るべきじゃない。

 けれど、穂乃果は俺をひとりで行かせるつもりがない。

 昔からそうだった。

 俺が何かを拾いに行こうとすれば、危ないよと言いながら隣に来る。俺が変なものに目を奪われていると、眉を下げて、それでも一緒に見ようとする。

 俺の異常を、否定しきらない。

 でも、飲み込まれないように腕を掴む。

 たぶん、それが穂乃果の強さだった。

「怖いなら、無理しなくていい」

「もちろん怖いよ」

 穂乃果はすぐに答えた。

 その素直さに、俺は少しだけ黙る。

「怖いけど……輝流を一人でここに置いて帰る方が、もっと嫌だから」

 自販機の光が、穂乃果の横顔を白く照らしていた。

 眠そうで、疲れていて、怖がっている。

 それなのに、彼女は俺から目を逸らさなかった。

「だから、帰らない」

「……そうか」

「うん」

 短い返事。

 それだけで十分だった。

 俺は自販機の横に視線を向ける。

 昨日、女が立っていた場所。

 何もいない。

 ただ、暗闇だけがそこにある。

 けれど、指先の奥に残った冷たさが、少しだけ強くなった気がした。

 その時だった。

 ぺちゃ。

 水を含んだ何かが、アスファルトを踏む音がした。

 穂乃果の肩が、隣で小さく跳ねる。

 ぺちゃ。

 また、鳴った。

 今度はさっきよりも近い。

 田んぼの方からではない。山の方からでもない。音は、闇の奥からまっすぐこちらへ向かってきている。

「……穂乃果」

 俺は自販機の横の暗がりを見たまま、声を落とした。

「来たみたいだ」

「……っ」

 穂乃果が息を呑む。

 返事はなかった。

 代わりに、制服の袖を掴まれる感触がした。指先に力が入りすぎて、布越しでも爪の硬さが分かる。

 ぺちゃ。

 ぺちゃ。

 濡れた足音は、遅い。

 けれど、止まらない。

 一歩ずつ。確実に。

 昨日、俺の背後をついてきた音と同じだった。

「こ、この音……本当に……」

 穂乃果の声が震えている。

 自販機の光が届かない闇の中で、何かが揺れた。

 最初に見えたのは、白く、血にまみれた足だった。

 裸足。

 濡れている。

 足の裏が地面を踏むたび、ぺちゃ、と水音が鳴る。けれど、その足は普通の形をしていなかった。足首が妙な角度に曲がり、膝も、本来なら曲がらない方向へ折れている。

 それでも、歩いていた。

 歩けるはずのない脚で。

 次に、血に濡れたスカートの裾が見えた。

 黒く乾いた部分と、まだ新しいみたいに湿った赤が、自販機の白い光を鈍く弾いている。

 そして、女の全身が月明かりの下に出た。

「……」

 喉の奥が、静かに詰まる。

 昨日は、顔だけだった。

 血まみれだということは分かった。濡れた髪も、青白い頬も、こちらを見ていた目も覚えている。

 けれど、全身は見えていなかった。

 今は違う。

 女は、そこに立っていた。

 両腕はだらりと垂れ下がっている。片方の肘は逆に折れ、もう片方の手首は力を失った人形みたいにぶら下がっていた。首は少し傾いている。胴は歪み、肩の高さが左右で違う。

 それでも、女の顔だけはまっすぐこちらを向いていた。

 長い髪から、ぽたり、と雫が落ちる。

 水なのか、血なのかは分からない。

 穂乃果の指が、俺の袖をさらに強く握った。

 痛いくらいだった。

 女は一歩、こちらへ近づく。

 ぺちゃ。

 白い足が、アスファルトに濡れた跡を残す。

 その唇が、ゆっくりと動いた。

 声はない。

 けれど、俺にはやはり、そう見えた。

 返して。

 女は、そう言っていた。

استمر في قراءة هذا الكتاب مجانا
امسح الكود لتنزيل التطبيق

أحدث فصل

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十六話:か細い生命の灯火

    静寂は、絶望によく似ていた。  病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。  そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。  その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。  ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。  ピッ、ピッ、ピッ。  無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」  喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」  自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。  悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。  だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。  無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。  知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。  知らなければならない。  何が起きたのか。  どうして、こんなことになったのか。  もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」  ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。  虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」  言葉を選ぶ。  薄氷を踏むみたいに、慎重に。  今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」  そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」  言葉の先が、嗚咽に変わる。  震えが強くなる。  俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。  何かを言ってやりたかった。  大丈夫だ、とか。  助かる、とか。  そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。  でも、言えなかった。  今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十五話:燈子に起きた悲劇

     ――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十四話:黒い木箱

    「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十三話:死よりも辛いこと

    憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十二話:紅色の御守り

    再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十一話:山姥への説得

    対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   7.廃線の影

     放課後。  俺たちは、昨日の夜にあの女を見た場所へ来ていた。  昼間に見る田舎道は、拍子抜けするほど普通だった。昨日は闇に沈んでいた田んぼも、今は西日に照らされて、風が吹くたびに水面をきらきらと揺らしている。道端の自販機も、夜に見た時ほど不気味ではない。蛍光灯も点滅しておらず、ただ黙ってそこに立っているだけだった。  けれど、俺は知っている。  昨日の夜、この場所で。  濡れた足音が、俺の後ろをついてきた。 「輝流は、ここで女の人を見たんだね……?」  穂乃果が少し不安そうに周囲を見回しながら言った。 「ああ」 「ああ……じゃねーよ!」  智哉がすぐさま噛みついてくる。

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   6.欠落

     翌日の教室は、昨日と同じように暑かった。  開け放たれた窓からは、朝から遠慮のない蝉の声が流れ込んでくる。扇風機が首を振るたびに、ぬるい風が教室の後ろまで届いて、机の上に広げられたプリントの端をかすかに揺らした。  俺の席は、教室の左側後方。  その机を囲むようにして、智哉と穂乃果が立っていた。 「お、お、お、お前……そのタイミングで振り返ったのかよ!?」  智哉の声が、朝の教室にやけに大きく響いた。 「ああ」 「ああ、って! お前、ああで済む問題じゃないだろ!? なぁ、穂乃果ちゃん!?」  智哉が縋るように隣の穂乃果を見る。  穂乃果は鞄を胸の前で抱えたまま、少し青ざめた

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   5.返して

      じり、じり、と。   脳髄を直接焼くかのような蝉時雨が、窓の外から絶え間なく降り注いでいる。熱を帯びた空気にチョークの粉が混じり合い、汗ばんだ腕が机のニスに張り付く。思考も、身体も、教室に澱むこの気怠さの中にゆっくりと溶けていく。   あぁ……暑い。   ほんとうに、この季節は嫌いだ。   机の上に突伏し、意識を飛ばしかけていた俺の頭上に、不意にいくつかの影が落ちた。   「浅生〜!  悪い……!  今日、サッカーの応援頼めねぇかなぁ……!」   汗を光らせたサッカー部の主将の声。それに被さるように、別の声が響く。   「おい!  この

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   4.ポケットにあったもの

    「いやー、それにしても智哉くんは相変わらずいいリアクションするねっ!」  鳥居の影から姿を現した穂乃果は、悪戯が成功した子どもみたいに、にひっと口角を上げた。  月明かりに照らされたその顔は、見慣れたものだった。見慣れているのに、こんな場所で見ると少しだけ現実感が薄い。神鳴山の闇の中から、いつもの幼馴染がひょっこり出てくる。普通なら安心する場面なのかもしれないが、直前まであの石仏どもの視線を浴びていたせいで、どうにも頭の切り替えがうまくいかなかった。  俺は智哉が消えていった山道を指差す。 「あの怖がりをこれ以上怖がらせてやるなよ。見ろ。山の中にまで入って行っちまった」 「あはは。で

فصول أخرى
استكشاف وقراءة روايات جيدة مجانية
الوصول المجاني إلى عدد كبير من الروايات الجيدة على تطبيق GoodNovel. تنزيل الكتب التي تحبها وقراءتها كلما وأينما أردت
اقرأ الكتب مجانا في التطبيق
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status