俺は、目の前にある古びた玄関のドアノブに手をかけた。ひやりとした、錆の浮いた鉄の感触。
どうせ開かないだろう、という予感はあった。力を込めて捻り、引く。が、がちり、と硬い感触が手に伝わるだけで、扉はびくともしない。 「……まあ、そうだよな」 左腕に、穂乃果の指が食い込むのを感じる。ほとんど全体重を預けられているせいで、少し動きにくいな。 「裏手を見てみるか」 「うん…」 家の側面に回り込み、生い茂った雑草をかき分ける。建物の影になった場所は、ひどく空気が湿っていた。 裏庭へ抜けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 裏庭の、朽ちかけた縁側の下。そこに、黒く変色した染みが、べったりとこびりついていた。まるで、何か大きな獣でも引きずったかのような、おびただしい量の痕跡。 「なんだ、これは…」 声が、掠れた。隣で、穂乃果が俺の顔を不安そうに見上げる。 「ど、どうしたの…?」 穂乃果が首を傾げる。 「何か見えるの…?」 その言葉に、はっとする。俺の視線を追う穂乃果の瞳には、ただの不審だけが浮かんでいる。 ……まさか。この、おびただしい量の血痕が、こいつには見えていない、というのか? 「……いや、なんでもない」 今余計な事を言っても、こいつを不安にさせるだけだ。そう考えた俺はかぶりを振ると、その禍々しい痕跡から目を逸らし、穂乃果の腕を引いて再び玄関へと戻った。裏手の窓も、雨戸が固く閉ざされていて入れそうになかった。 「やっぱり、戸締りくらいはしてるよな…」 「うん……管理してる人がいるんだろうしね…」 穂乃果がそう呟き、諦めの空気が漂った、その時だった。 ──カチャリ。 乾いた金属音が、やけにクリアに響いた。二人同時に、音のした玄関の方を振り返る。 「今の音は……?」 俺が呟くと、穂乃果がごくりと喉を鳴らす。 「…げ、玄関……だよね」 「ああ、見てみよう」 俺は、まるで何かに引き寄せられるように玄関へ歩み寄ると、もう一度、冷たいドアノブに手をかけた。 さっきと同じように、捻って、引く。 すると、 キィィィィン……、 今までが嘘のように、重く、軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開いた。 中から、黴と埃が混じった、淀んだ空気がどっと溢れ出す。 おかしい。さっきまで、間違いなく鍵は閉まっていた。それは確かだ。 それなのに、あの音が鳴った後、扉は開いた。 まるで、家の主が鍵を開けて、俺たちを招き入れたかのようだった。…歓迎、されているとは思えなかったが。 「嘘でしょ…」 穂乃果の声が震える。 「こ、こんなことってありえるの…?」 穂乃果の表情が、恐怖に歪む。当然だろう。俺だって、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。 恐怖に疎い俺でも、この場がおかしいのは十分な程に理解できた。 「穂乃果。本当に、無理しなくていいんだぞ」 「で、でも…」 開かれた扉の奥、全てを呑み込むような暗闇を前に、穂乃果の足は竦んでいる。ここ数日で、あまりに多くの非日常を体験しすぎた。無理もない。 「俺としては…お前に無理される方が、心配だ」 数秒、穂乃果は考えを巡らせるような様子を見せる。やがて、彼女は小さく首を横に振った。 「……ううん。やっぱり、私も輝流と一緒に行く」 穂乃果はそう言うと、覚悟を決めたように、扉の闇を睨み返した。 相手が幽霊や人外の類なら、俺にできることは少ないかもしれない。だが、こいつ一人のことくらいは……守ることが出来るだろう。 俺は、左腕に絡みつく穂乃果の指を強く握り返すと、その家の中へと足を踏み入れた。 *** 家の中は、異様な匂いで満ちていた。鉄錆の匂いと、湿った土が腐ったような匂い。今まで嗅いだことのない、鼻の奥を刺すような悪臭が漂っている。 その時だった。 ドンッ!! 背後で、重く、何かが打ち付けられるような音。 「えっ…!?」 穂乃果が悲鳴を上げて振り返る。俺たちの入ってきた玄関の扉が、固く閉ざされていた。 「ど、扉が……!」 穂乃果が焦ってドアノブをガチャガチャと回し、扉を押す。 「輝流!!」 彼女の声が、ヒステリックに高くなる。 「ど、どうしよう!! 開かない!」 俺も扉に手をかけ、鍵の状態を確認する。鍵穴に鍵はない。だが、 「ふっ…!」 全体重をかけても、扉はまるで壁の一部になったかのように、びくともしなかった。 「おらぁっ!!」 ドンッ!!! 肩から、渾身のタックルを叩き込む。しかし、返ってきたのは鈍い衝撃と、軋みひとつ立てない扉の沈黙だけだった。 まるで、入ったからには決して出すものか、と。家そのものに拒絶されているような、そんな気さえした。 「ど、どうしよう輝流…!」 穂乃果の声が、涙声になりかける。 「落ち着け、穂乃果」 パニックになりかける穂乃果の両肩を掴み、無理やり目線を合わせる。 「裏の窓を破れば出られる」 俺は、できるだけ冷静な声を保つように努めた。 「完全に塞がれたわけじゃない」 蹴るなり、家具を使うなりすれば、出れない事はないだろう。 「う、うん…!」 穂乃果が、必死に頷く。 俺は、自分自身に言い聞かせるように、そう告げた。俺たちの手のひらの上で、泥にまみれた指輪が、鈍く、けれど確かに輝いていた。 俺は、震える穂乃果の肩をそっと叩く。 「穂乃果、良くやったぞ……!」 「え、えへへ…」 穂乃果は、泥だらけの手で顔を拭って、力なく、けれど誇らしげに笑った。 俺はスマホを取り出し、時刻を確認する。液晶の光が、[21:13]という無機質な数字を映し出していた。もう、そんな時間か……。 「穂乃果、急ぐぞ」 「うん!」 俺たちは、彼女の元へ、全ての始まりとなったあの場所へと、夜道を急いで戻った。 *** 風が、ざわざわと田んぼの稲を揺らしている。 あの場所に戻ってきてから、もうどれくらい経っただろうか。俺たちが指輪を携えて待てども、彼女は現れない。ただ、虫の声だけが、俺たちの焦りを煽るように鳴り響いていた。 その時だった。 ふと、空気が揺らめいた。目の前の空間が、陽炎のように歪み、そこから、じわりと、赤い影が滲み出してくる。 空気が急速に冷えていく。虫の声が、ぴたりと止んだ。 やがて、影は、一体の女の姿になった。 血に濡れた赤い服。人間が本来、曲がってはならない方向に四肢が折れ曲がり、いくつかの場所では、皮膚を突き破って白く鋭利な骨の先端が覗いている。顔は、判別できないほどに潰れていた。あまりに痛々しい、絶望の形。 (指輪は持った。きっと大丈夫だ) 俺は、ごくりと喉を鳴らすと、一歩、前に出た。 「秋崎叶さん」 俺がその名を呼ぶと、女の体が、ビクッと大きく跳ねた。 「俺は、浅井輝流といいます」 俺は、できるだけ優しい声色を意識しながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。 「あなたの声が聞こえた。あなたが、何か大事なものを探しているんじゃないかって、そう感じたんです。」 「あなたの住んでいた家にも行きました。そこで、何かを訴えるお婆さんの姿があったんです」 「きっと…あなたのお母さんですよね?彼女が、あなたの大切な物を見つける手助けをしてくれました」 「だから…これを」 俺は、手のひらに握りしめていた指輪を、彼女の前にそっと差し出した。 「…指を、出してください」 その言葉に、叶さんはおどおどと、壊れた人形のようにぎこちなく、自身の左手を差し出した。指はあり得ない方向に折れ曲がり、痛々しく震えている。 俺は、その冷たい指をとり、泥を拭った指輪を、
俺は、日記の最後のページから、顔を上げることができなかった。 スマホのライトが照らす小さな文字の上に、ぽたり、と雫が落ちて染みを作る。隣で、穂乃果が鼻をすする音が聞こえた。 「こんな…こんな幸せなことの、すぐ後に…」 「ああ……亡くなるなんてな…」 『明日が、待ち遠しい』。 その、希望に満ちた言葉が、鉛のように重く胸にのしかかる。彼女が待ち望んだ明日は、永遠に来なかった。 脳裏に、あの踏切で見た女の姿が焼き付いている。 血に濡れたワンピース。ぐちゃぐちゃに潰れた顔。 そして…。 不自然なまでに、何もつけていない、白い指。 「……そういえば」 俺は、はっとしたように呟いた。 「…指輪…してなかったな…」 「え…? そ、そんなところまで見てたの…?」 穂乃果が、涙で濡れた瞳を丸くする。 「ああ…。もしかしたら…指輪を返したら、成仏するんじゃないか?」 幽霊が、未練を残した品に執着する。それは、どの世界にも通づるルールの一つだ。彼女にとって、道政から贈られた婚約指輪以上に、大切なものがあっただろうか。 「…怖いけど」 穂乃果が、ごしごしと目元を拭う。 「…返してあげたいね、その指輪」 「ああ。そうだな」 決まれば、早い。俺たちは、叶さんの最期の未練を見つけ出すために、再びこの混沌とした家の中を捜し始めた。 机の引き出し、散らばった本の間、倒れたタンスの裏。考えられる場所は、全て。 *** だが、数十分が経過しても、小さな光を放つはずのそれは、どこからも見つからなかった。時間だけが、無情に過ぎていく。 「どこにも、ないな…」 俺が諦めかけた、その時だった。 まただ。空気が、急速に温度を失っていく。 振り返った廊下の闇の中央に、いつの間にか、あの老婆が立っていた。 そして、初めて、その口が、動いた。 「…ユ……ビ……ワ……は…………」 まるで、喉の奥から空気が無理やり漏れ出てくるような、ひび割れた音。言葉になっていない、ただのノイズの塊。 「……ジ……コ……ノ……バ……ショ……チカク……ニ……」 聞き取れたのは、それだけだった。老婆の姿は、またしても、すぅ…、と闇に溶けて消えていく。 「事故の…場所…?」 俺が、老婆の言葉を反芻していると、隣で穂乃果が、はっと息を呑んだ。 「あっ……!!」 「どうし
老婆が消えた後の静寂は、やけに重く、耳に張り付くようだった。 俺は、手の中にあるノートの表紙を、指でなぞる。積もった埃を払うと、その下から現れたのは、何の変哲もない、ただの黒いノートだった。 唾を飲み込み、震える指で、最初のページを開く。 古ぼけた紙の上を、掠れた万年筆のインクが這っていた。 『──この地には古来より、山を鎮める守り神がいた』 「……守り神?」 思わず、声が漏れた。 その言葉に、背後で息を殺していた穂乃果が、びくりと肩を震わせる。恐怖よりも好奇心が勝ったのか、彼女はおそるおそる俺の肩越しに、ノートを覗き込んできた。 「えっ…」 俺たちは、顔を見合わせる。老婆は、これを俺たちに見せるために? 二人きりになったことで、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、改めて書庫全体を見渡した。スマホのライトが、無数の本の背表紙を照らし出す。そのほとんどは、色褪せてタイトルも読めない。 光の輪をゆっくりと動かしていくと、いくつかのタイトルが目に飛び込んできた。 『この地の歴史』『桜織市の伝説』…。 なるほど、この家の主は、郷土史家か何かだったのかもしれない。 さらに棚を照らしていくと、俺の指が、ふと止まった。 一冊だけ、他とは明らかに雰囲気の違う、新しい本。 『霊との向き合い方』 その下に書かれた著者名に、俺はなぜか目を奪われた。 『著:櫻井 悠斗』 知らない名前だ。だが、そのタイトルは、今の俺たちにとってあまりに直接的すぎた。 一瞬、その本に手が伸びかける。だが、俺は首を振り、もう一度『この地の歴史』と書かれた、分厚く古びた本へと向き直った。 今は、幽霊と戦う方法じゃない。そもそも、なぜ秋崎叶さんたちが死ななければならなかったのか。その根源を知る必要がある。 俺は、『この地の歴史』を本棚から引き抜いた。 「輝流、守り神なんて話、聞いたことある?」 「いや、初耳だ。神鳴山の神が荒ぶれたって話は、嫌というほど聞かされてきたが…」 「うちのおじいちゃんも、そんな話はしてなかったな…」 どうやら、この町の人間でも知らない、忘れられた歴史らしい。 俺たちは、比較的埃の少ない床に並んで腰を下ろすと、ノートと歴史書をライトの光で照らし、そのページを読み進め始めた。 俺は、分厚
家が、鳴り始めた。 パキ…、と乾いた木材が軋む音。ドンッ、と壁の奥で何かが打ち付けられるような鈍い音。 ドッドッドッドッ…! まるで誰かが焦って階段を駆け上がっていくかのような、性急な足音までが家中から聞こえてくる。 「ひ…、輝流ぅ…これ…」 背後から、穂乃果の引き攣った声が聞こえる。 「大丈夫だ。俺がいる」 俺は、自分に言い聞かせるようにそう答えた。 おかしい。この音は、まるで家が生きているかのようだ。あるいは、今も誰かが、この廃墟で生前と変わらぬ暮らしを続けている、とでもいうように。 ここで時間を無駄にはできない。 窓の外は、もう夕闇に呑まれ始めている。 穂乃果が俺の服を掴む腕が、小刻みに震えているのが分かった。 ……あまり長居はできない。 「穂乃果。俺の背中に隠れて、周りを見るな」 「…うん…」 か細い声で返事をすると、穂乃果が俺の背中に額をこすりつけてくるのが気配で分かった。 俺はスマホのライトを点灯させ、その白い光で闇を切り裂くように前方を照らす。 玄関の壁には、ガラスの割れた家族写真。その先の和室からは、風もないのに、白いレースのカーテンがゆらり、ゆらりと幽霊のように揺れていた。 床に散らばるガラス片を踏まないよう、慎重に足を進める。目指すは、裏庭に面したガラス張りの扉だ。あそこからなら、外に出られるはずだ。 軋む床板に足音を殺しながら、リビングらしき部屋を抜ける。その奥に、目的のガラス戸はあった。薄汚れたガラスの向こうには、月明かりに照らされた、救いのように静かな夜の庭が見える。 「ここだ。ここを破れば…」 俺は、穂乃果を背中に庇ったまま、自分の学生服の上着を右肘に固く巻き付けた。 「少し離れてろ」 ドンッ! 体重を乗せ、ガラスの中心を肘で打つ。骨に響くような鈍い衝撃。だが、ガラスは砕けない。ひび一つ入らなかった。 「…くそっ!」 もう一度、今度はより強く、全体重を乗せて叩きつける。 ガンッ!!と、腕が痺れるほどの衝撃。しかし、ガラスはまるで分厚い鉄板でもあるかのように、沈黙を保っている。 何度、何度叩きつけても結果は同じだった。俺の荒い呼吸と、肉を打つ鈍い音だけが、不気味な家の中に響き渡る。 「輝流、もうやめて…! 無理だよ…!」
俺は、目の前にある古びた玄関のドアノブに手をかけた。ひやりとした、錆の浮いた鉄の感触。 どうせ開かないだろう、という予感はあった。力を込めて捻り、引く。が、がちり、と硬い感触が手に伝わるだけで、扉はびくともしない。 「……まあ、そうだよな」 左腕に、穂乃果の指が食い込むのを感じる。ほとんど全体重を預けられているせいで、少し動きにくいな。 「裏手を見てみるか」 「うん…」 家の側面に回り込み、生い茂った雑草をかき分ける。建物の影になった場所は、ひどく空気が湿っていた。 裏庭へ抜けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 裏庭の、朽ちかけた縁側の下。そこに、黒く変色した染みが、べったりとこびりついていた。まるで、何か大きな獣でも引きずったかのような、おびただしい量の痕跡。 「なんだ、これは…」 声が、掠れた。隣で、穂乃果が俺の顔を不安そうに見上げる。 「ど、どうしたの…?」 穂乃果が首を傾げる。 「何か見えるの…?」 その言葉に、はっとする。俺の視線を追う穂乃果の瞳には、ただの不審だけが浮かんでいる。 ……まさか。この、おびただしい量の血痕が、こいつには見えていない、というのか? 「……いや、なんでもない」 今余計な事を言っても、こいつを不安にさせるだけだ。そう考えた俺はかぶりを振ると、その禍々しい痕跡から目を逸らし、穂乃果の腕を引いて再び玄関へと戻った。裏手の窓も、雨戸が固く閉ざされていて入れそうになかった。 「やっぱり、戸締りくらいはしてるよな…」 「うん……管理してる人がいるんだろうしね…」 穂乃果がそう呟き、諦めの空気が漂った、その時だった。 ──カチャリ。 乾いた金属音が、やけにクリアに響いた。二人同時に、音のした玄関の方を振り返る。 「今の音は……?」 俺が呟くと、穂乃果がごくりと喉を鳴らす。 「…げ、玄関……だよね」 「ああ、見てみよう」 俺は、まるで何かに引き寄せられるように玄関へ歩み寄ると、もう一度、冷たいドアノブに手をかけた。 さっきと同じように、捻って、引く。 すると、 キィィィィン……、 今までが嘘のように、重く、軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開いた。 中から、黴と埃が混じった、淀んだ空気がどっと溢れ出す。 おかしい。さ
放課後の生ぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。太陽は少しだけ西に傾き、アスファルトに俺たちの長い影を落としていた。遠くからは、運動部の掛け声と、一日中鳴き続けた蝉の、どこか疲れたような声が聞こえてくる。 「ねぇ輝流」 「ん?なんだ穂乃果」 隣を歩く穂乃果が、ふと足を止めた。つられて俺も立ち止まる。 「この辺りがね、秋崎叶さんのお家があった場所なんだよ」 その声は、やけに静かだった。 「……なに?この辺りが?」 視線を巡らせても、見えるのはありふれた住宅街の風景だけだ。穂乃果は俺の返事を待たずに、どこか楽しんですらいるような横顔で続ける。 「うん。詳しい位置までは流石にわからないけど…探してみる? ちなみに、茶色い屋根に三階建ての、昔ながらの大きなお家だって。」 「そうおじいちゃんの資料に書いてあった」 ……やっぱりか。俺が「行く」と返事をすることを、こいつはとっくに見越していたらしい。 そしてなにより、おじいさんの情報力がいちばん怖い。 「……はぁ。助かるよ」 呆れたような、それでいて感心したような息が漏れた。 「えへへ、いいえ!それじゃ、いこ!」 穂乃果は、してやったりとでも言いたげに笑った。 *** 住宅街の細い路地を抜け、視界が拓ける。見渡す限りの青々とした田んぼが、夏の匂いを濃くしていた。 そこに、ぽつんと。まるで世界から忘れられることを望むように、一軒の家が建っていた。黒ずんだ茶色の屋根。三階建ての、古びた家。 「……穂乃果、これじゃないか?」 隣で、穂乃果が息を呑む音が聞こえた。俺のシャツの袖を、小さな手がきゅっと掴む。 一目で、廃墟だと分かった。壁のあちこちに黒い染みのような蔦が絡みつき、割れた窓ガラスが空虚な眼窩のようにこちらを見ている。人の営みが消えた建物は、こんなにも早く朽ちていくものだろうか。鼻につくのは、湿った土と黴の匂い。かつてここにあったはずの、生活の匂いなんてものは、欠片も残っていないようだった。 「…秋崎さんのご両親は?」 俺は、祖父の知恵を借りてすっかり物知りになった穂乃果に尋ねた。 「うーん…」 歯切れの悪い返事。何かを知っている人間のそれだった。 「なんだよ、その反応は」 「…ご家族の方も、不審な亡くなり方をしてるみたいなんだよね」 「それも…お父さんもお母さんも…そのど