登入俺たちが玄関をくぐった瞬間だった。
背後で、扉が勢いよく閉まった。 バタン、と屋敷中に響くような音がして、穂乃果が短く悲鳴を上げる。 「きゃぁっ!」 握っていた手に、ぎゅっと力がこもった。 俺は一度だけ振り返る。 ついさっきまで夕日の赤を背負って開いていた扉は、今は何事もなかったように閉じていた。 「……扉が勝手に閉まったな」 「な、なんでそんなに冷静なのぉ……!」 穂乃果の声は、ほとんど泣き声だった。 「いや、だって俺たちはもう、不自然に開いた扉の中に入ってるんだぜ。今さら閉じたところで、おかしさとしては順当だろ」 「た、たしかに……って、そうじゃなくて! なんでそんな切り分けができるの……!?」 穂乃果が空いているほうの手で、俺の背中をばしばし叩いてくる。 「いて、いてて……落ち着けよ、穂乃果」 「落ち着けるわけないでしょ!」 まあ、それはそうだ。 俺だって内心は、そこまで落ち着いているわけじゃない。 ただ、騒いだところで扉が開くわけでもないし、ここで俺まで完全に取り乱したら、大変なことになる。 そう思った、次の瞬間。 家が震えた。 最初は、床下から小さな振動が伝わってきただけだった。けれどそれはすぐに壁へ、天井へ、階段へと広がっていく。 がたがた、と窓枠が鳴る。 廊下の奥で、何かの家具が軋む。 閉じられた扉が、一枚、また一枚と内側から叩かれているみたいに震え始めた。 家全体が、息を吹き返したようだった。 「な、なになになに!? もうやだ!!」 穂乃果が俺の腕にしがみつく。 その時、鼻の奥を突くような臭いがした。 「っ……なんだ、この臭い……」 思わず顔をしかめる。 古い木材や埃の臭いじゃない。もっと鋭い。鼻に刺さって、喉の奥にざらつきを残すような刺激臭だった。 穂乃果もそれに気づいたのか、青ざめた顔をさらに強張らせる。 空気が変わった。 さっきまで、この家はただ古く、暗く、閉じられているだけだった。 けれど今は違う。 何かがいる。 そう思わせるだけの気配が、廊下の奥から、階段の影から、壁の隙間から、じわじわと染み出していた。 やっぱり、穂乃果を連れてくるんじゃなかった。 胸の奥で、そんな後悔が遅れて湧く。 「穂乃果」 「な、なに……?」 「少し進むぞ。怖いものが見えるかもしれないから、俺の背中に顔を押しつけてろ。できるだけ、見ないようにしろ」 「う、うん……っ」 穂乃果は素直に頷いた。 俺の手を握ったまま、背中にぴたりと身を寄せてくる。震えが服越しに伝わってきた。細い指が、痛いくらい俺の手を掴んでいる。 俺はそのまま、玄関から廊下へ踏み出した。 そして、足を止めた。 「……なんだ、これ」 「な、な、なに? 何か見えるの……?」 「見るな」 声が、思ったより低く出た。 床に、血の跡があった。 少し、という量じゃない。 おびただしい赤黒い染みが、廊下の床板に広がっている。古く乾ききっているはずなのに、夕闇の中ではまだ濡れているように見えた。 しかも、それはただ飛び散ったものではなかった。 玄関の奥から、廊下の先へ。 何かを引きずったような跡が、長く、太く、床に残っている。 爪の跡なのか、指の跡なのか分からない細い筋が、血の中に何本も刻まれていた。 何があった。 ここで、何が起きた。 叶は、電車に轢かれて死んだはずだ。 なら、この家の惨状は何だ。 「なぁ、穂乃果」 「な、なに……?」 「叶さんのご両親の死因って、なんだ?」 穂乃果の息が、背中で止まった。 「な、なんでそんなこと聞くの……?」 見せるわけにはいかない。 今、目の前に広がっているものを穂乃果が見たら、たぶんもう足が動かなくなる。 俺は床から目を離さないまま、できるだけ平静を装った。 「いや、俺は知らなかったから。一応、聞いておこうと思っただけだ。目は開けなくていい。そのまま教えてくれ」 「えっと……たしか、変死だった気がする……」 「変死、か」 声に出してから、奥歯を噛む。 いよいよ、おかしなことになってきた。 秋崎叶は、結婚間際に電車にはねられて死んだ。 そして今も、指輪を探している。 けれど、この家には血痕がある。誰かがここで倒れ、あるいは引きずられたような跡が残っている。叶の事故と、この家で起きた何かが、別々の出来事だとはどうしても思えなかった。 見えない紐で、全部がつながっている。 叶。 指輪。 秋崎邸。 変死した両親。 そして――。 左のほうで、床板が軋んだ。 「っ――」 反射的に、穂乃果を背中側へ庇う。 廊下の左手。 薄暗い部屋の入口に、何かが立っていた。 人影だった。 いや、人影の形をした、何かだった。 白く濁った目が、こちらを向いている。 顔も、髪も、服も、全身が血に濡れていた。年老いた女性だ。口は苦しげに歪み、喉から声にならない息だけが漏れている。 老婆は、瞬きもしない。 ただ、血まみれの顔で、俺たちを見ていた。 「……っ」 息が止まった。 老婆は動かない。 ただ、白く濁った目でこちらを見ている。 血に濡れた顔。 苦しげに歪んだ口元。 何かを訴えようとしているのに、声だけが抜け落ちてしまったみたいな表情。 その老婆が、ゆっくりと片腕を持ち上げた。 ぎこちない動きだった。まるで水の中で腕を動かしているみたいに、ひどく遅い。袖口から覗いた指先まで、赤黒く濡れている。 やがて、人差し指だけが伸びた。 老婆は、上を指差していた。 二階。 そこに何かがある。 俺は喉を鳴らした。 この人が、俺たちをこの家に招いたのか。 玄関の鍵を開けたのも、扉を閉めたのも。 もしそうだとしたら、何のために。 「ど、どうしたの? 急に止まって……」 背中に額を押しつけたまま、穂乃果が震える声で訊いてくる。 俺は老婆から目を逸らさず、できるだけいつも通りの声を作った。 「……なんでもない。穂乃果、二階に進む。足元に気をつけてくれ」 「わ、わかった……」 穂乃果の手に、また力がこもる。 俺は廊下の血痕を避けるように一歩踏み出し、階段へ向かった。 ぎし、と床板が鳴る。 その音に合わせるように、左手の部屋に立っていた老婆の輪郭が揺らいだ。 水面に映った影が崩れるみたいに、血まみれの姿が薄れていく。白く濁った目も、伸ばされた指も、苦しげに開いた口も、夕闇に溶けるように消えていった。 最後まで、老婆は二階を指していた。 俺は階段の前で一度だけ足を止める。 間違いない。 あの老婆は、俺に何かを伝えようとしている。 見た目は、まともに見ていられるものじゃなかった。 血に濡れた体。白い目。苦痛に歪んだ顔。普通なら、悲鳴を上げて逃げ出すような姿だ。 それでも、不思議と悪意は感じなかった。 あるのは、もっと別のものだ。 苦しい。 気づいてほしい。 伝えなければならない。 そんな声にならない感情だけが、あの濁った目の奥に残っていた気がした。 俺は小さく息を吐く。 よし。 何が起きてるのかは知らない。 けど、そこまでして呼ぶなら――行ってやろうじゃねぇか。 「穂乃果」 「な、なに……?」 「階段、上るぞ。絶対に手を離すな」 「うん……っ」 俺は穂乃果の手を握り直し、暗い階段へ足をかけた。静寂は、絶望によく似ていた。 病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。 そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。 その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。 ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。 ピッ、ピッ、ピッ。 無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」 喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。 悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。 だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。 無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。 知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。 知らなければならない。 何が起きたのか。 どうして、こんなことになったのか。 もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。 虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」 言葉を選ぶ。 薄氷を踏むみたいに、慎重に。 今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」 そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」 言葉の先が、嗚咽に変わる。 震えが強くなる。 俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。 何かを言ってやりたかった。 大丈夫だ、とか。 助かる、とか。 そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。 でも、言えなかった。 今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま
対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く
泥は、思ったより冷たかった。 スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。 それでも、俺たちは探し続けていた。 かつて線路が走っていた場所。 もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。 ここで、叶は死んだ。 そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。 手記には、そう書かれていた。 「……くそ」 俺は畦道の端にしゃがみ込み、ラ
それから、どれくらい経ったのだろう。 三十分は過ぎていた気がする。 けれど、正確な時間は分からなかった。 書庫の壁に掛かった古い時計は、針が止まっている。 スマホを確認しても、なぜか圏外の表示が出ているだけだった。時刻を見ることはできるはずなのに、画面の数字さえ信用できないような気がした。 この家に入ってから、時間の感覚が少しずつ曖昧になっている。 それは、俺たちが必死に探し続けていたせいかもしれない。 本棚を端から確認し、机の引き出しを開け、古い書類の束をめくる。 埃が舞い、喉の奥がざらつく。穂乃果は何度も小さく咳き込みながら、それでも手を止めようとはしなか
――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。 そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。 けれど、すぐには動かなかった。 先に、やらなければならないことがあった。 「穂乃果」 「……なに?」 穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。 怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。 俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。 「やっぱり、お前は――」 「帰れ、って言うんでしょ?」 俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。 その声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 「……ああ」 俺は短く認める。 「お前も分かってるだろ。この
部屋の中は、嫌なほど静かだった。 古い紙の匂い。 埃の積もった机。 閉じられた日記。 それらの全部が、俺たちの前で黙っている。 けれど、黙っているだけで、何も語っていないわけじゃない。 むしろ逆だ。 ここに残されたものは、あまりにも多くを語りすぎていた。 「……一回、整理しよう」 俺がそう言うと、穂乃果はびくりと肩を揺らした。 「整理……?」 「ああ。このままだと、情報が多すぎる」 俺は叶の日記に手を置いたまま、できるだけ落ち着いた声で続けた。 「まず、叶さんは六月二十六日に、黒い人影を見てる」 「うん……」 「その時点では、まだ気のせいかもし