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13.招き入れたもの

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-10-08 22:07:46

 俺たちが玄関をくぐった瞬間だった。

 背後で、扉が勢いよく閉まった。

 バタン、と屋敷中に響くような音がして、穂乃果が短く悲鳴を上げる。

「きゃぁっ!」

 握っていた手に、ぎゅっと力がこもった。

 俺は一度だけ振り返る。

 ついさっきまで夕日の赤を背負って開いていた扉は、今は何事もなかったように閉じていた。

「……扉が勝手に閉まったな」

「な、なんでそんなに冷静なのぉ……!」

 穂乃果の声は、ほとんど泣き声だった。

「いや、だって俺たちはもう、不自然に開いた扉の中に入ってるんだぜ。今さら閉じたところで、おかしさとしては順当だろ」

「た、たしかに……って、そうじゃなくて! なんでそんな切り分けができるの……!?」

 穂乃果が空いているほうの手で、俺の背中をばしばし叩いてくる。

「いて、いてて……落ち着けよ、穂乃果」

「落ち着けるわけないでしょ!」

 まあ、それはそうだ。

 俺だって内心は、そこまで落ち着いているわけじゃない。

 ただ、騒いだところで扉が開くわけでもないし、ここで俺まで完全に取り乱したら、大変なことになる。

 そう思った、次の瞬間。

 家が震えた。

 最初は、床下から小さな振動が伝わってきただけだった。けれどそれはすぐに壁へ、天井へ、階段へと広がっていく。

 がたがた、と窓枠が鳴る。

 廊下の奥で、何かの家具が軋む。

 閉じられた扉が、一枚、また一枚と内側から叩かれているみたいに震え始めた。

 家全体が、息を吹き返したようだった。

「な、なになになに!? もうやだ!!」

 穂乃果が俺の腕にしがみつく。

 その時、鼻の奥を突くような臭いがした。

「っ……なんだ、この臭い……」

 思わず顔をしかめる。

 古い木材や埃の臭いじゃない。もっと鋭い。鼻に刺さって、喉の奥にざらつきを残すような刺激臭だった。

 穂乃果もそれに気づいたのか、青ざめた顔をさらに強張らせる。

 空気が変わった。

 さっきまで、この家はただ古く、暗く、閉じられているだけだった。

 けれど今は違う。

 何かがいる。

 そう思わせるだけの気配が、廊下の奥から、階段の影から、壁の隙間から、じわじわと染み出していた。

 やっぱり、穂乃果を連れてくるんじゃなかった。

 胸の奥で、そんな後悔が遅れて湧く。

「穂乃果」

「な、なに……?」

「少し進むぞ。怖いものが見えるかもしれないから、俺の背中に顔を押しつけてろ。できるだけ、見ないようにしろ」

「う、うん……っ」

 穂乃果は素直に頷いた。

 俺の手を握ったまま、背中にぴたりと身を寄せてくる。震えが服越しに伝わってきた。細い指が、痛いくらい俺の手を掴んでいる。

 俺はそのまま、玄関から廊下へ踏み出した。

 そして、足を止めた。

「……なんだ、これ」

「な、な、なに? 何か見えるの……?」

「見るな」

 声が、思ったより低く出た。

 床に、血の跡があった。

 少し、という量じゃない。

 おびただしい赤黒い染みが、廊下の床板に広がっている。古く乾ききっているはずなのに、夕闇の中ではまだ濡れているように見えた。

 しかも、それはただ飛び散ったものではなかった。

 玄関の奥から、廊下の先へ。

 何かを引きずったような跡が、長く、太く、床に残っている。

 爪の跡なのか、指の跡なのか分からない細い筋が、血の中に何本も刻まれていた。

 何があった。

 ここで、何が起きた。

 叶は、電車に轢かれて死んだはずだ。

 なら、この家の惨状は何だ。

「なぁ、穂乃果」

「な、なに……?」

「叶さんのご両親の死因って、なんだ?」

 穂乃果の息が、背中で止まった。

「な、なんでそんなこと聞くの……?」

 見せるわけにはいかない。

 今、目の前に広がっているものを穂乃果が見たら、たぶんもう足が動かなくなる。

 俺は床から目を離さないまま、できるだけ平静を装った。

「いや、俺は知らなかったから。一応、聞いておこうと思っただけだ。目は開けなくていい。そのまま教えてくれ」

「えっと……たしか、変死だった気がする……」

「変死、か」

 声に出してから、奥歯を噛む。

 いよいよ、おかしなことになってきた。

 秋崎叶は、結婚間際に電車にはねられて死んだ。

 そして今も、指輪を探している。

 けれど、この家には血痕がある。誰かがここで倒れ、あるいは引きずられたような跡が残っている。叶の事故と、この家で起きた何かが、別々の出来事だとはどうしても思えなかった。

 見えない紐で、全部がつながっている。

 叶。

 指輪。

 秋崎邸。

 変死した両親。

 そして――。

 左のほうで、床板が軋んだ。

「っ――」

 反射的に、穂乃果を背中側へ庇う。

 廊下の左手。

 薄暗い部屋の入口に、何かが立っていた。

 人影だった。

 いや、人影の形をした、何かだった。

 白く濁った目が、こちらを向いている。

 顔も、髪も、服も、全身が血に濡れていた。年老いた女性だ。口は苦しげに歪み、喉から声にならない息だけが漏れている。

 老婆は、瞬きもしない。

 ただ、血まみれの顔で、俺たちを見ていた。

「……っ」

 息が止まった。

 老婆は動かない。

 ただ、白く濁った目でこちらを見ている。

 血に濡れた顔。

 苦しげに歪んだ口元。

 何かを訴えようとしているのに、声だけが抜け落ちてしまったみたいな表情。

 その老婆が、ゆっくりと片腕を持ち上げた。

 ぎこちない動きだった。まるで水の中で腕を動かしているみたいに、ひどく遅い。袖口から覗いた指先まで、赤黒く濡れている。

 やがて、人差し指だけが伸びた。

 老婆は、上を指差していた。

 二階。

 そこに何かがある。

 俺は喉を鳴らした。

 この人が、俺たちをこの家に招いたのか。

 玄関の鍵を開けたのも、扉を閉めたのも。

 もしそうだとしたら、何のために。

「ど、どうしたの? 急に止まって……」

 背中に額を押しつけたまま、穂乃果が震える声で訊いてくる。

 俺は老婆から目を逸らさず、できるだけいつも通りの声を作った。

「……なんでもない。穂乃果、二階に進む。足元に気をつけてくれ」

「わ、わかった……」

 穂乃果の手に、また力がこもる。

 俺は廊下の血痕を避けるように一歩踏み出し、階段へ向かった。

 ぎし、と床板が鳴る。

 その音に合わせるように、左手の部屋に立っていた老婆の輪郭が揺らいだ。

 水面に映った影が崩れるみたいに、血まみれの姿が薄れていく。白く濁った目も、伸ばされた指も、苦しげに開いた口も、夕闇に溶けるように消えていった。

 最後まで、老婆は二階を指していた。

 俺は階段の前で一度だけ足を止める。

 間違いない。

 あの老婆は、俺に何かを伝えようとしている。

 見た目は、まともに見ていられるものじゃなかった。

 血に濡れた体。白い目。苦痛に歪んだ顔。普通なら、悲鳴を上げて逃げ出すような姿だ。

 それでも、不思議と悪意は感じなかった。

 あるのは、もっと別のものだ。

 苦しい。

 気づいてほしい。

 伝えなければならない。

 そんな声にならない感情だけが、あの濁った目の奥に残っていた気がした。

 俺は小さく息を吐く。

 よし。

 何が起きてるのかは知らない。

 けど、そこまでして呼ぶなら――行ってやろうじゃねぇか。

「穂乃果」

「な、なに……?」

「階段、上るぞ。絶対に手を離すな」

「うん……っ」

 俺は穂乃果の手を握り直し、暗い階段へ足をかけた。

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