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二十六話:触れる前の選択

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-05-24 19:00:05

 美琴は少し間を置き、慎重に言葉を選ぶようにして尋ねた。

「……先ほど、『トラックに轢かれた』とおっしゃいませんでしたか?」

「うん。さっき、本当に凄まじい勢いでトラックが突っ込んできたように感じたんだけど…」

「はい。……それから、どうなったのですか?」

 美琴は続きを促すように、静かに問いかける。

「轢かれて、視界が一瞬で反転した。天井と地面が入れ替わるような感覚だった」

「でも、不思議なことに痛みはなかった。言葉にできない嫌な感覚……」

「全身の骨という骨が一斉に折れるような、身体の中で何かが砕け散っていくような、そんな感覚が一気に襲ってきた……としか言えないかな」

「…………」

 美琴は言葉を返さない。

 ただ沈黙の間で、美琴の息遣いがかすかに乱れるのを、悠斗は感じてしまう。

 そこには、何かを必死に押し留めている気配があった。

「分かりました。先輩」

 美琴は一度息を整えた。

「これから私は、この場に残されている霊の残滓というものを集めて、少しばかりではありますが、彼女が生前に辿ってきた過去を読ませていただきます」

「……残滓? この間、誠也君の過去を見せてもらった時と同じような力なのかな?」

 困惑は消えていない。

 けれど前回とは違い、悠斗は逃げずに問い返した。

「ええ。基本的な仕組みとしては、ほとんど同じものだと思っていただいて構いません」

 美琴は一度言葉を区切り、説明を続ける。

「ただし、一つだけ大きく違う点がありまして……」

「霊本人に直接触れて記憶を読むよりも、どうしても精度が落ちてしまうということです」

「それから、彼女が何を感じていたのか……そういった心の内側にある感情のようなものまでは、残念ながら読み取ることができません」

 美琴は丁寧に言葉を選びながら、説明していく。

「そうなんだ……」

 悠斗が短く呟くと、美琴はまた少し間を置いた。

「先輩は、どうなさいますか?」

「……え?」

 突然の問いに、悠斗は一瞬言葉を失う。

「彼女が……この場所にずっと留まり続けている理由というものを、先輩は本当に知りたいと思われますか?」

 その問いかけは、まるで静かな波紋のように、悠斗の胸の奥深くへとゆっくりと沈んでいく。

(……僕は、恐怖を感じていた)

 あまりにも痛々しいあの姿に、心の底から怯えてしまった。

 ──そんな自分に、彼女の過去を知る権利なんてあるのだろうか。

 問いが、頭の中で渦を巻く。

(でも……知りたいという気持ちもある)

 誠也の最期は、悲しすぎるほど悲しかった。

 彼があの場所に留まり続けた理由が、悠斗には痛いほど分かってしまったから。

(だから、きっと……彼女にも)

(あんな姿になってしまった何か深い原因があるに違いない…)

 この知りたいと思う気持ちは、決してただの好奇心などではない。

 そんな軽薄なものであるはずがない。

 断じて。

 それでも胸の底の方には、自分自身でもまだうまく形にできない、"使命感"のようなものが、静かに、けれど確かに息づいているのを感じていた。

 まだ名前のつかない何か──言葉にならない衝動が、そこにあった。

「…………」

 返事が見つからず、悠斗は黙り込む。

 美琴は「見ましょう」と背中を押すようなことは言わない。無理に決断を迫るようなこともしない。ただ静かに、悠斗自身が答えを見つけるのを待っている。

 それが、美琴なりの寄り添い方なのだろう。相手の心の揺れをそのまま受け止め、急かさず、ただそばにいる。そういう優しさの形。

 だが──。

「私は、先輩の恐怖を尊重します」

「…え?」

 悠斗は、その言葉の意味をすぐには理解できず、戸惑いを含んだ声を漏らしてしまう。

「先輩は、今まで長い時間をかけて、霊というものを避けながら生きてこられたんですから」

「そんな先輩が、この場で恐怖に竦んでしまっている心を無理に奮い立たせて前に進もうとする……なんて、そんなものは決して簡単なことではありませんし、あまりにも無茶な話です」

 責める響きはない。

 むしろ揺れをそのまま受け止めようとする、温かな包容があった。

「それに、誠也君の時とは状況が違いますから」

(確かに……)

 あの時も、確かに悠斗は警戒していた。誠也が現れた最初の瞬間には、得体の知れない恐怖がしっかりと胸を締めつけていた。

 けれど、それでも──あの時には、ほんの少しだけ誠也と打ち解けたあとだった。短い会話を交わし、彼の言葉に触れ、わずかながらも心が通じ合ったような、そんな感覚があったのだ。

 だが今回は、まったく違う。

 彼女は、心を固く閉ざした霊。こちらからの呼びかけに応えることもなく、ただ沈黙のまま、その場に留まり続けている存在。

 そして何より──悠斗を、いつ傷つけてもおかしくない存在なのだ。

 恐怖が湧き上がってくるのは、自然なことだった。それは決して、逃げているわけでも、弱いからでもない。ごく当たり前の、人間としての反応だったのだから。

「……自分に、見る権利なんてあるのかな」

 悠斗はそう呟いて、視線を落とした。

「先輩が、彼女の記憶を見たいと思う理由は……好奇心や興味本位といったものからではありませんよね?」

 美琴の問いかけは、静かで、しかし確かな重みを帯びていた。

「うん、違う」

 悠斗は即座に、短く答えた。

「でしたら、それは決して不純な欲などではありません」

「先輩はきっと……ただ見届けたいのだと思います。彼女の人生の終わりと、その理由を」

「……っ!」

 その言葉が、悠斗の耳に届いた瞬間──。

 胸の奥深く、心の最も深い場所で、最後のピースがはまるような手応えが生まれた。確かな感触が、そこにあった。

 それまで視界を覆っていた霧が少しずつ晴れ、その向こうに、細くてまっすぐな一本の光が通る。

「……そうだね。きっと僕は、見届けたいんだ」

 悠斗の答えは、もともと彼自身の内側に静かに存在していた。ただそれが、形のないまま心の奥底に沈んでいただけだ。

 美琴の言葉が、その輪郭をそっとなぞり、曖昧だった想いに確かな形を与えてくれたのだ。

「彼女の身に何が起きたのか、どうしてあんな姿になってしまったのか……僕は、知りたい」

「……ふふっ、わかりました」

 美琴は少しだけ気恥ずかしそうに、柔らかく笑みを浮かべた。

「こんなことを偉そうに言っておいて、今さら恥ずかしいのですが……先ほどお伝えした通り、記憶の精度はかなり大幅に下がってしまいます」

「そこのところは、どうか許してくださいね」

「あはは……。それはもちろん、大丈夫だよ」

「では先輩、私の手を……こちらへ」

 美琴は、そっと手のひらを悠斗の方へと差し出した。その仕草には、どこか儀式的な厳かさが漂っていた。

「…えっと…? これは、その……繋げばいいのかな…」

 悠斗は少し戸惑いながら、やや曖昧な口調で問い返す。

「私が媒体となって、過去の記憶を先輩へと流し込みます。これは絶対に必要な工程ですから」

 微笑みを浮かべながらも、その表情にはどこか「当然でしょう?」と言いたげな、少しだけ得意気な響きが含まれていた。

「わ、わかった」

 悠斗は頬を赤く染めながら、その柔らかな手を取った。

「では、参りますよ」

 美琴は空いている片手をゆっくり掲げ、瞳を静かに閉じる。

 目には見えない何かを、トンネルの空間からそっと掬い上げるみたいに。

 その手は繊細な仕草で、自らの胸元へと導かれていった。

 そして悠斗の右手に、温もりを帯びた霊気が静かに、けれどはっきりと流れ込んでくる。それはまるで、春先の穏やかな陽だまりのような、柔らかくて優しい感触。

 次の瞬間――悠斗の視界は、何もかもを包み込むように、真っ白に染まった。

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