Share

第26話 血の涙が語るもの

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-24 19:00:05

トンネルの奥深く、濃密な霧が静かに、そしてゆっくりと立ちこめていく。

その、まるで生きているかのような霧の向こうから、あの時と同じ──

クリーム色のトレンチコートを纏った女性の姿──詩織さんの霊が、ぼんやりと淡く浮かび上がってきた。

彼女の周囲からは、鉄錆と、そして微かに、けれど確実に──

生々しい血の匂いが漂ってくるような気がした。

「先輩。大丈夫、私が必ずお守りしますので……

どうか、彼女の側へ行って、その心に触れてあげてください」

隣に立つ美琴の声が、静かに、けれど力強く僕の背中を押す。

彼女の瞳は、もう深紅の霊眼の色を宿してはいなかったけれど、

その言葉には、絶対的な信頼と覚悟が込められていた。

「う、うん……分かった、美琴」

ごくり、と乾いた喉が鳴る。

早鐘を打つ心臓の音を感じながら、僕は一歩……また一歩と、

ゆっくりと、詩織さんの霊へと足を踏み出した。

気づけば、彼女の、そのあまりにも儚げな霊体が、もう僕のすぐ目の前にいた。

「あ、あの……詩織、さん……!」

震える声を必死に振り絞って、僕は彼女へと話しかける。

すると──

今までずっと顔を覆っていた彼女の両手が、まるで糸が切れたかのように、すーっと静かに離れ、

だらりと力なく下がる。

そこに現れたのは──光を失い、どこまでも黒く濁りきった瞳。

その瞳が、感情の読めないまま、まっすぐに僕の顔を覗き込んできた。

近い……そして、怖い。

本能的な恐怖で、背中にぞわりと冷たい悪寒が走る。

次の瞬間──

『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!!!!!!!!!!』

凄まじい、鼓膜を突き破るような金切り声が、

詩織さんの、その小さな口から絞り出された。

トンネル内の空気が、一瞬にしてガラスのように張り詰め、

暗闇そのものを切り裂くかのような絶叫が、空間全体に響き渡る。

耳をつんざく、あまりにも悲痛なその悲鳴が、冷たいコンクリートの壁に何度も何度も反響し──

何重にも、何十重にも膨れ上がって、僕の脳髄を直接貫いた。

まるで氷のような冷たい空気が、無理やり僕の肺へ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   第35話 代償

    トンネル内にて 詩織の身体から放たれた光の粒子が、静かに宙を舞う。夏の夜空へと消えていく星屑のように、淡い輝きを帯びて闇を優しく照らした。 彼女が成仏した瞬間だった。 トンネルを満たしていた冷たく重い気配が徐々に薄れていく。閉じ込められていた詩織の悲しみが、この光と共に解き放たれていくようだった。遠くから微かな蝉の声が届き、湿った風が頬を優しく撫でる。 松田さんは涙を流しながら、消えゆく詩織をじっと見つめていた。 「ありがとう、詩織。苦しませてごめんねぇ……母さん、これから前を見て生きるからね……」 かすれたその声には、積もりに積もった後悔と、やっと訪れた救いが滲んでいる。 僕も胸がじんと熱くなり、詩織の想いが届いたことに安堵した。 だが、その感傷に浸る間もなく—— 「……っ!」 隣にいた美琴の体が突然傾いだ。 「美琴!!」 慌てて駆け寄ると、彼女は膝を折り、そのまま崩れそうになる。華奢な肩が震え、頬に乱れた髪が張り付いていた。顔色は蒼白で、茶色の瞳はぼんやりと霞んでいる。 「すみません……先輩……力を使いすぎてしまいました……」 掠れた声で申し訳なさそうに呟く美琴。 すぐに気がついた。彼女が松田さんに霊気を流し、詩織の姿を見せていたのだ。その代償が今になって現れていた。 「美琴、無理しすぎだよ……!」 震える彼女の肩をしっかりと支える。 「大丈夫かい!? とりあえずうちに来な!」 松田さんが心配そうに声をかけてくれる。涙の跡が残った顔には、優しさが溢れていた。 「……ありがとうございます。」 僕は深く頷き、美琴を背負った。彼女の軽さが、その消耗の激しさを物語っている。 「先輩……私、軽いですか? ちょっと恥ずかしいですね……」 背中で彼女が弱々しく笑う。 「う、うん……軽いよ。でもそういう意味じゃなくて……ちゃんと休まないとダメだよ。」 焦る僕に、美琴の小さなくすっと笑う声が背中越しに伝わった。 松田さんの案内でトンネルを出ると、夏の夜風が僕たちを優しく包んだ。 *** 松田家にて 松田さんの用意してくれた和室に美琴を運ぶ。畳の香りが懐かしく、どこか心地よかった。 布団に横たわる美琴は、力なく目を閉じる。額の汗をそっと拭い、呼吸が穏やかになるまで

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   第34話 母の想い 子の思い

    松田さんが、はっ、と息を呑む。 「詩織……? 本当に……本当に、詩織……なのかい……?」 『うん……うん……! お母さん……!』 詩織さんが、何度も、何度も、まるで幼い子供のようにこくこくと頷きながら答える。 その瞬間、松田さんの大きく見開かれた瞳から、堰を切ったように、 ぽろぽろと大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちた。 「なんてことだ……なんてことなんだい……。 ああ、本当に……詩織なんだねぇ……」 『本当に、本当にごめんなさい……! あの時は、ほんのちょっとした、子供じみた反抗のつもりだったの……』 詩織さんは、事故に遭って以来、ずっと胸の奥深くに固く、固く閉じ込めていたであろう言葉の数々を、 ぽつり、ぽつりと、まるで|懺悔《ざんげ》するように零していく。 彼女の切々たる声が、トンネルの重く冷たい空気に、ゆっくりと、そして深く染み込んでいった。 『ほんの数時間、家を空けたら、またすぐに戻るつもりだったの。 そしたら……お母さんも、あの人との結婚のこと、少しは認めてくれるかもしれないって……そう、思ってたの……』 「……」 松田さんは、もはや何の言葉も発せず、ただ静かに、娘の言葉に耳を傾けていた。 その|皺《しわ》の刻まれた目元から、とめどなく流れる涙が止まらないまま。 『でも……でもね、お母さん……私、戻れなかった……! 家に、戻ることが、できなかったんだよぉ……!』 その痛切な言葉と共に、詩織さんが、まるで糸の切れた人形のように、 その場に泣き崩れるように膝をついた。 刹那—— 眩いほどの優しい光の粒が、まるで彼女の魂の欠片であるかのように、 きらきらと彼女の身体から舞い上がり始めるのが見えた。 ああ——これは、間違いない。 詩織さんの魂が、この世の未練から解き放たれ、あるべき場所へと還ろうとしている。 成仏が、始まっているんだ。 松田さんが、ふらつきながらも、一歩だけ、詩織さんの方へと足を踏み出した。 美琴が、そっと彼女の背中に手を添えながら、まるで促すように、優しく後押しする。 「詩織…っ! 痛かっただろうに……! 苦しかっただろうにねぇ……っ!」 松田さんが、もはや堪えきれないといった様子で、 泣きじゃくりながら詩織さんの小さな身体を力強く抱きしめた。 その細い腕が、まるで幼い頃の詩

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   第33話 親子の再会

    『お母さァァァァァァァァん…! ゴメンナサイィィィィィ…!』 詩織さんの、魂からの叫びが、湿り気を帯びた闇色のトンネルに痛切に響き渡る。 おびただしい泥と、そしておぞましい血痕にまみれたクリーム色のコート。 生気を失い、白紫がかってしまった肌は、トンネルの入り口から微かに差し込む月明かりに、 この世のものとは思えないほど不気味に浮かび上がる。 乱れに乱れた濡羽色の黒髪が、苦悶に歪むその顔に張り付き、 彼女が履いているショートブーツがコンクリートの床を叩く音だけが、まるで闇そのものが歩を進める不吉な足音のように、冷たく響いていた。 春から夏へと季節が移ろうとするこの時期特有の、じっとりとした風がトンネルの奥から吹き抜け、 詩織さんの動きに合わせて、空気が一層ひやりとした鋭さを増していくのを感じる。 「ば、ばけもの…!」 松田さんの顔面が恐怖で蒼白になり、言葉にならない、引き攣った呻き声が唇から漏れた。 その両の目が極限まで大きく見開かれ、 全身が恐怖という名の冷たい鎖に縛られていくのが、僕にも痛いほど伝わってきた。 思わず後ずさりそうになる松田さんの身体を、美琴がすかさず、 しかしどこまでも優しく寄り添い、その震える口元にそっと人差し指を添えた。 「そんなふうに……そんなふうに、仰らないであげてください」 その声は、まるで夜露に濡れた絹糸のようにとても静かで、 けれど決して折れることのない柳のような、凛とした響きを湛えていた。 詩織さんの、その哀しい存在そのものを否定するのではなく、 そっと包み込み、受け入れようとするかのような、深い慈愛に満ちた響きだった。 僕は、胸の奥深くで、どうしようもない無力感と焦燥感に激しく揺さぶられていた。 詩織さんの、あのあまりにも切実な想いを、たった一人の母親に届けるためだけに、 僕たちはここまで来たというのに。 けれど今、目の前で息を凝らして見守るしかないこの惨状の中で、 僕はただ、唇を噛み締めて立ち尽くしているだけだ。 詩織さんは、ただ、まっすぐに、松田さんの胸の中へと飛び込もうとするかのように走ってくる。 その、あまりにも痛々しく、そして悲壮なまでの姿が、ただただ僕の胸を締め付けて、 苦しくて、息が詰まりそうだった。 「大丈夫ですよ。さあ、詩織さんの本当のお姿を、よく見てあ

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   第32話 母を呼ぶ声

    『ごめん…なさい… ごめ…ん…なさ…い…っ』 彼女の、途切れ途切れの不規則な声が、湿ったトンネルの奥から木霊する。 それは、まるで地の底から響いてくるかのように掠れた、低い声。 壁や天井にじっとりと染み込み、まとわりつくように反響する、痛切な謝罪の言葉が、 ただでさえ重苦しいトンネル内の空気を、さらに鉛のように重くしていく。 ひゅう、と一段と冷たい風がトンネルの奥から吹き抜け、僕たちの汗ばんだ頬を冷酷に撫でていく。 ぽた、ぽた、と詩織さんの流す血涙がコンクリートの地面に落ちる音が、 やけに大きく、そして不気味に耳の奥で反響していた。 「なっ…!?」 松田さんが、まるで心臓を直接掴まれたかのように驚愕し、 たたらを踏むように二、三歩トンネルから後ずさった。 その瞳が恐怖に見開かれ、顔面がさっと青ざめていくのが、薄暗がりの中でもはっきりと見て取れた。 彼女の震える両手が、何かを拒絶するかのように胸の前で固く握られ、体全体が硬直している。 夏の夜とは思えないほど冷え冷えとした風が、彼女の薄手のコートを無遠慮に揺らし、 足元の伸び放題の草が、彼女の恐怖に呼応するかのようにカサカサと不気味な音を立てた。 美琴が、その瞬間、音もなく、しかし素早く動いた。 松田さんの背中にそっと手を添え、それ以上後ろへ退かないように、 静かな、けれど確かな力強さで彼女の華奢な身体を支える。 その茶色の美しい瞳が、怯える松田さんを案ずるように見つめ、 そこには嵐の前の静けさのような、穏やかな、しかし揺るぎない決意が宿っていた。 「ま、待ちなっ! あんたたち、これ、あの…テレビとかでやってる、ドッキリってやつなんじゃないのかい!?」 松田さんが、ほとんど悲鳴に近い、裏返った声を詰まらせながら叫ぶ。 その声には、拭いきれない恐怖と極度の困惑がぐちゃぐちゃに混じり合い、 目の前で起きているあまりにも非現実的な出来事を、どうしても受け入れたくないという魂の叫びが滲んでいた。 彼女の大きく見開かれた瞳が、トンネルの奥の漆黒の闇と、僕たち二人を交互に、まるで救いを求めるかのように見つめる。 コートの襟を握りしめる彼女の指先は、小刻みに、そして痛々しいほど白く震えていた。 「いいえ、決してそのようなものでは

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   第31話 再びトンネルへ

    「ゴメンだね、もう帰っておくれ」 まるで|宣告《せんこく》のように、ピシャリと扉が閉められた。 バタン、という乾いた音が、夏の湿気を含んだ静かな住宅街に小さく、しかし決定的に響き渡る。 古びた木の戸がきしむ音は、まるで湿った空気を鋭く切り裂く悲鳴のよう。 松田さんの拒絶の言葉が、目に見えない冷たい壁となって、僕の目の前に音もなく立ちはだかった。 閉ざされた扉の奥から、|諦念《ていねん》とも後悔ともつかない、ため息のような微かな気配が一瞬だけ漏れ聞こえた気がした。 玄関先にぽつんと取り残された僕の心は、梅雨明け間近の、重く垂れ込めた風に翻弄される道端の草のように、ただ|茫然《ぼうぜん》とその場に佇むしかなかった。 遠くで、途切れがちな蝉の声が虚しく響き、 薄曇りの空が、影を落とす家屋の輪郭を一層長く、濃く引き伸ばしていた。 「はぁ……っ」 思わず、重いため息が漏れる。 上手く伝えられなかった。言葉の選び方も、心の距離の縮め方も、きっとどこかで間違えてしまったのだろう。 松田さんのあの氷のように冷たい視線、「詐欺かなんかかい?」という刃のような一言が、何度も何度も頭の中で木霊する。 「私たちに具体的な接点が無い以上、やはり難しいのかもしれませんね。」 隣で、美琴がそっと呟いた。 その声音は絹のようにやわらかく、僕を責めるでもなく、かといって安易に慰めるでもない、 ただ事実を静かに受け止めるような響きを持っていた。 彼女の艶やかなポニーテールが、まとわりつくような湿った風に弄ばれて、 着古したジーンズジャケットの袖がふわりと揺れる。 その茶色の澄んだ瞳が、鉛色の曇り空の下で、僕の姿を案ずるように、そっと見つめていた。 「だとしても……あまりにも、悔しくて仕方がないよ。」 美琴の落ち着いた言葉に、ほんの少しだけ心が凪ぐのを感じる。 でも、それ以上に、どうしようもない自分への苛立ちが、胸の奥で|燻《くすぶ》っていた。 詩織さんの鮮烈な記憶が、今もなお、心の壁に焼き付いた残響のようにこびりついて離れない。 あの土砂降りの雨の夜、彼女の悲痛な叫び、大型トラックの無慈悲な衝撃音…… そして、『ごめんなさい……』という、たった一人の母親に伝えることすら叶わなかった、あまりにも切実な想

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   第30話 美琴の説得

    「ゴメンだね、もう帰っておくれ」 まるで|宣告《せんこく》のように、ピシャリと扉が閉められた。 バタン、という乾いた音が、夏の湿気を含んだ静かな住宅街に小さく、しかし決定的に響き渡る。 古びた木の戸がきしむ音は、まるで湿った空気を鋭く切り裂く悲鳴のよう。 松田さんの拒絶の言葉が、目に見えない冷たい壁となって、僕の目の前に音もなく立ちはだかった。 閉ざされた扉の奥から、|諦念《ていねん》とも後悔ともつかない、ため息のような微かな気配が一瞬だけ漏れ聞こえた気がした。 玄関先にぽつんと取り残された僕の心は、梅雨明け間近の、重く垂れ込めた風に翻弄される道端の草のように、ただ|茫然《ぼうぜん》とその場に佇むしかなかった。 遠くで、途切れがちな蝉の声が虚しく響き、 薄曇りの空が、影を落とす家屋の輪郭を一層長く、濃く引き伸ばしていた。 「はぁ……っ」 思わず、重いため息が漏れる。 上手く伝えられなかった。言葉の選び方も、心の距離の縮め方も、きっとどこかで間違えてしまったのだろう。 松田さんのあの氷のように冷たい視線、「詐欺かなんかかい?」という刃のような一言が、何度も何度も頭の中で木霊する。 「私たちに具体的な接点が無い以上、やはり難しいのかもしれませんね。」 隣で、美琴がそっと呟いた。 その声音は絹のようにやわらかく、僕を責めるでもなく、かといって安易に慰めるでもない、 ただ事実を静かに受け止めるような響きを持っていた。 彼女の艶やかなポニーテールが、まとわりつくような湿った風に弄ばれて、 着古したジーンズジャケットの袖がふわりと揺れる。 その茶色の澄んだ瞳が、鉛色の曇り空の下で、僕の姿を案ずるように、そっと見つめていた。 「だとしても……あまりにも、悔しくて仕方がないよ。」 美琴の落ち着いた言葉に、ほんの少しだけ心が凪ぐのを感じる。 でも、それ以上に、どうしようもない自分への苛立ちが、胸の奥で|燻《くすぶ》っていた。 詩織さんの鮮烈な記憶が、今もなお、心の壁に焼き付いた残響のようにこびりついて離れない。 あの土砂降りの雨の夜、彼女の悲痛な叫び、大型トラックの無慈悲な衝撃音…… そして、『ごめんなさい……』という、たった一人の母親に伝えることすら叶わなかった、あまりにも切実な想い。 「はぁ……」 再び、深く息を吐き出す。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status