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第27話 戻らぬ想い

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-25 19:00:35

【記憶の追想:温もりの残る日々】

目の前に、懐かしいような、それでいて知らない景色が広がっている。

さっきまでの、あの薄暗いトンネルの闇は完全に消え──

今は、温かい夕陽のオレンジ色の光が、大きな窓から斜めに差し込む、どこかの家の玄関の扉の前に、僕は立っていた。

使い込まれた木の扉の、少しざらついた感触が、僕の手にリアルに伝わってくる。

そして、ふわりと、微かな──でも確かに覚えのある家の匂い。

それは、炊きたての白いご飯の甘い香りと、古い木材が持つ独特の、少しだけ埃っぽい香り──

そんな空気が、僕の鼻腔を優しくくすぐった。

『ただいまー! お母さん、帰ったよー!』

僕の身体が、まるで誰かに操られているかのように自然に動き──

僕のものではない、少しだけ甲高い、若い女性の声が、喉の奥から軽やかに溢れ出る。

玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てる音と、カラリと開いた引き戸の音が、家の中に小さく響き渡り、

磨き込まれた廊下の、ひんやりとした木の温もりが、足の裏にじんわりと心地よく広がっていく。

『あら、詩織、おかえりなさい』

台所の方から、僕が待ち望んでいた、お母さんの温かい声が耳に届く。

目の前には、少しだけ疲れたような顔。

でも、その口元には、いつもの優しい笑みが確かに浮かんでいて、

背後から差し込む夕陽の光が、彼女の輪郭を柔らかく、金色に照らし出している。

その姿を見ただけで、胸の奥に、じわじあと安心感が広がり──

心が、ふっと軽くなるのを感じた。

『今日から新学期だったけど、学校はどうだったかい? 新しいクラスには、もう慣れたのかい?』

お母さんが、エプロンで手を拭きながら、優しく尋ねてくる。

その声に滲む、飾らない優しさが、僕の心を、まるで陽だまりのように温かく包み込んでくれる。

『んー、まあ、ぼちぼちかな! 新しい友達もできたし、結構楽しいかも!』

努めて明るく、そして少しだけおどけてそう答えると、自然と笑顔が頬にこぼれた。

『そうかい、それなら良かった。ほら、早く手を洗って、食卓に上がりな。もうすぐご飯だからね』

お母さんのその優しい笑顔に、学校でのちょっとした疲れや、新しい環境への緊張感が、すーっと溶けていく。

ああ、やっぱり、この家に帰ってきて良かった。

ここが、私の、一番安心できる場所なんだ。

──そし
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