微かに、草を踏みしめる音がした。 カサッ……カサッ…… 湿り気をたっぷりと含んだ夏の夜気を、まるでそっと切り裂くように、小さな足音が、慰霊碑へとゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。 僕と美琴は、その音に導かれるように、同時に静かに振り返った。 そして―― 木々の影が濃く落ちる、林の奥から、予想もしていなかった人物が、ふわりと姿を現した。 鮮やかな黄色い浴衣に身を包み、左右に結んだ栗色のツインテールが、夜風に吹かれてふわりふわりと楽しげに揺れている。 髪の根元には、可愛らしい赤いリボンがちょこんと結ばれていた。 その姿は、夜の闇に溶け込むような慰霊碑の厳かな雰囲気とは対照的に、どこか無邪気で、妙に明るく、そして、僕たちに不思議な懐かしささえ感じさせる、そんな温かい光をまとっていた。 『やぁ。アンタたち、さっきの露天風呂では、アタイを楽しませてくれてありがとね?』 軽やかで、澄んだ声が夜の静寂を破る。その明るい声の響きに、僕は、聞き覚えのある温もりを確かに感じていた。 僕は思わず、目を大きく見開いてしまう。 「……もしかして、陽菜さん…?」 間違いない。少し前まで僕たちが浸かっていた温泉で、あの悪戯(いたずら)を仕掛けてきた張本人、あの不思議な霊――陽菜さんだった。 隣に立っていた美琴は、陽菜さんの姿を認めた瞬間、まるで時間が止まってしまったかのように、その動きをぴたりと止めた。 「っ~~~~っ!!」 そして、じわじわと顔を真っ赤に染めて視線を逸らし、陽菜さんからほんの少しだけ距離を取ろうとする。 昼間の露天風呂での、あの恥ずかしい出来事が、鮮やかな映像となって彼女の脳裏にフラッシュバックしているのだろう。 その、あからさまに動揺している美琴の様子に、陽菜さんはいたずらが成功した子供のように、ふふっ、と楽しげな笑みを漏らした。 『アンタたちがこの慰霊碑を見に来るって宿で聞いててね。ちょっとだけ、様子を見に来たのさ』 まるで、涼みにでも来たような、あまりにも軽やかな口調で、陽菜さんはそう言った。 「な、なるほど……?」 予想外の再会に、僕はどう返事をすればいいのか分からず、どこか戸惑いを含んだ声で、曖昧に応じるしかなかった。 その、ときだった―― 「な、なんてことしてく
「……行こうか」 込み上げる気まずさと照れ臭さを必死にごまかすように、僕はポケットから女将さんにもらった温泉郷の地図を取り出した。 少し湿気を吸ってしまったらしい紙の感触が、指先に柔らかく伝わる。 そう短く呟いて、僕たちは言葉少なに、川沿いの小道へとゆっくりと歩き出した。 *** 川の流れに沿って続く石畳の小道を進む間、沈黙が二人を包んでいた。 浴衣の裾が古びた石畳を擦る、さわさわという小さな音だけが静かに響き、遠くで鳴き続ける虫の声が、夏の夜の深い静寂を美しく彩っている。 湯上がりの肌に残る温泉の香りがまだ鼻先に微かに漂い、先ほどの露天風呂での出来事を思い出させる。この少しばかり気まずい空気をどう解せばいいのか分からず、僕はただ黙々と足を進めることしかできなかった。 すると、不意に、美琴が静かに口を開いた。 「先輩は以前、巫女の血について、少し気にされていましたよね」 その声は、昼間の快活さとは打って変わって、夜のしじまに溶け込むように真剣で、穏やかな響きの中にも、何か計り知れないほど深い想いが滲んでいるように感じられた。 どこか重みのある声音。 「うん。少しだけね」 僕は短く、けれど真剣に相槌を打った。 美琴は僕の返事を待っていたかのように、少し前方に視線を向け、まるで遠い過去の物語を|紐解《ひもと》くかのように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。 「どれほど昔のことになるのか、正確な記録が残っているわけではないんです。ですが、私たちの間では、恐らく……今から約千年ほど前のことではないか、と言われているんです」 「その頃、巫女には『始祖』と呼ばれる方がいらっしゃいました」 「彼女は、その類稀なる力をもって、神々の御前で清らかな舞を捧げ、時に荒ぶる神々の怒りさえも鎮めたと……そう、言い伝えられています」 「神々を……鎮めた……? すごいスケールの話だね……」 「神々」とか、「始祖」とか。そんな、まるで神話の世界のような言葉が、隣を歩く美琴の口から静かに、けれど確かな現実感をもってこぼれ落ちるたびに、目の前に、気が遠くなるような、途方もない時間の流れが広がっていくような気がした。 頭の中では、現実と非現実の境目が曖昧になるような、不思議な想像がぐるぐると渦を巻いていた。 本当にこの話
陽菜と呼ばれる、あの不思議な霊が、ふわりと湯煙の中に溶けて消えた後、夕暮れの空は吸い込まれそうなほど美しい薄紫色に染まり、桜織温泉郷の静かな露天風呂には、先ほどまでの|喧騒《けんそう》が嘘のような穏やかな静寂が戻ってきた。 僕は湯船の岩でできた縁に腰を下ろし、濡れたタオルを手に持ったまま、じんわりと熱い湯気の湿気を頬に感じていた。少し離れた女湯の側では、美琴も同じように湯に浸かっている気配がする。幸い、僕たちの間を|隔《へだ》てる年季の入った竹の柵は、その隙間こそあれ、互いの姿をはっきりと見ることはできないように視界を遮ってくれていた。 それでも、さっき目の当たりにしたあの光景――陽菜さんが化けた、偽物の美琴が、悪戯っぽく笑いながらタオルをずらし、夕陽の赤い光に照らし出された汗ばんだ白い肌――その鮮烈なイメージが、まるで焼き付いたように、頭の片隅にしぶとく、そして繰り返し再生されてしまう。 いけない、いけない。あれは美琴じゃないんだ。陽菜さんっていう霊の悪ふざけなんだから。 僕はぶんぶんと首を振って雑念を振り払い、湯船の湯を両手ですくうと、思い切りバシャッと顔にかけた。思ったよりも熱い湯の滴が頬を伝い、夏の夕暮れの気だるい暑さと混じり合って、少しだけぼんやりとしていた意識を覚醒させてくれるようだった。 「……ごめん、美琴。さっきは、その……」 僕は、気まずさから視線を湯面に落としたまま、湯煙の向こうにいるであろう彼女に向かって、小さな声で呟いた。 すると、ほとんど間を置かずに、くすくす、という楽しそうな笑い声と共に、美琴の返事がすぐに返ってきた。 「ふふっ、少し恥ずかしかったですけど、別に本気では怒っていませんから、大丈夫ですよ、先輩」 そのどこまでも穏やかで、優しい声の響きに、僕の胸の奥で硬くなっていた何かが、ほっと音を立てて緩むのを感じた。 ……でも、こうやって彼女に優しくされると、ますます申し訳ないというか、罪悪感みたいなものが、むくむくと込み上げてくる。 だって、まだ頭のどこかで、さっきの陽菜さんが化けた”彼女”の姿を、僕は思い出してしまっているのだから。 僕は、ごまかすように深く息を吐きながら湯の中に身体を沈め、首までゆっくりと浸かって、そっと目を閉じた。ちゃぷん、と立てた小さな波紋が、湯面に浮かぶ黄色い睡蓮の花をかすかに揺らす。
ふわり、と湯気が優雅に舞い上がり、温泉特有の、どこか懐かしい硫黄の香りが僕の鼻腔を優しくくすぐる。 静かな湯面には、どこからか紛れ込んだのか、鮮やかな黄色い山吹の花びらが数枚、まるで小さな舟のように静かに浮かび、 夏の夕暮れの、淡く美しい橙色が、その水面にゆらゆらと映り込んで、幻想的な模様を描いていた。 男湯の、岩で作られた風情のある湯船に肩までゆっくりと浸かりながら、僕は、ふぅー、と深く安堵の息を吐き出す。 極上の湯の温もりが、じんわりと、そして確実に身体の芯まで染み込み、 昼間の長い道のりを歩き続けたことによる心地よい疲労感が、まるで薄紙を剥がすように、ゆっくりと消えていくのを感じた。 「……ああぁ……気持ちいい……」 誰に言うでもなく、思わずそんな小さな呟きが、僕の口から満足げに漏れた。 遠くの方からは、川のせせらぎが絶え間なく聞こえ、そして、夏の夕暮れを惜しむかのように、蝉の声がゆるやかに、そしてどこまでも優しく響いていた。 湯船のすぐそばに植えられた木々の葉が、時折そよぐ夜風に揺れて、さらさら、さらさらと、涼やかで心地よい音を立てる。 この露天風呂の周囲は、自然の大きな岩で巧みに囲まれていて、 そして、湯船全体を包み込むようにして、背の高い竹林が、まるで屏風のように立ち並んでいた。 そのおかげで、まだ残っていた西日や、外部からの視線は完全に遮られ、 立ちのぼる白い湯煙が、この空間にやわらかく漂いながら、僅かに顔を出し始めた月明かりに照らされて、美しく輝いている。 湯気と淡い月光が静かに交じり合うその場所は、まるでこの世のものとは思えないほど、どこまでも静かで、そして幻想的な雰囲気に満ちていた。 僕は、もう一度、湯の中に深く、深く身を沈め、そっと目を閉じる。 ──こんなにも穏やかで、心安らぐ時間なんて、一体いつぶりだろうか。 母さんのこと、呪いのこと、そしてこれから起こるかもしれない様々な困難のこと…。 そんな、いつも僕の頭を悩ませている全てのことから解放されて、 ただ、この身体の芯の芯まで温泉の優しい熱が浸透し、心の奥底から、ゆっくりと、でも確実に解き放たれていくような、 そんな至福の心地よさが、僕の全身へと広がっていく。 その、まさに至福の瞬間──。 不意に、竹の柵
宿の、あの気まずくもどこか落ち着く和室に戻った僕たちは、 小さなちゃぶ台を挟んで、しばし言葉もなく、窓の外へと視線を向けていた。 窓の外に広がる景色は、もうすっかり夕陽に照らされていて、 木々の緑や遠くの山々がきらきらと、まるで燃えるように輝いている。 どこか懐かしくて、そして物悲しいような、不思議な風情が、部屋全体を包み込んでいた。 その、静かで、でもどこか緊張感の漂う空気を破ったのは、障子戸が控えめに軋む音だった。 女将さんが、にこやかな笑顔で顔を覗かせる。 「失礼するよ、お二人さん」 穏やかな声と共に、お盆に乗せた湯呑みを二つ、ちゃぶ台の上にそっと置き、 またあの、太陽みたいに優しい笑顔を向けてくれた。 「お若いお二人さん、この温泉郷の街並みは、もう楽しんだかい?」 「はい、おかげさまで。すごく雰囲気が良くて、どこか懐かしい感じで……」 美琴が、少しだけ頬を赤らめながら微笑んで答えると、 女将さんは満足そうに頷いた。 「それは何よりだったねぇ。ところで、お二人さん、このあと何か予定は立てているのかい?」 「いえ、特にこれといっては……あ、そういえば…」 僕がふと何かを思い出したように言うと、美琴も「そうでしたね」と小さく頷いた。 「僕たち、実は、この温泉郷に古くから伝わるという、巫女の伝説について、少し調べに来たんです」 その瞬間、女将さんの表情が、ふっと興味深そうなものに変わる。 彼女は身を乗り出し、悪戯っぽく片目を瞑って言った。 「ほう、巫女様の伝説ねぇ……。それなら、行ってみるといいかもしれない場所が、ひとつあるよ」 そう言って、一度部屋を出ていった女将さんは、すぐに一枚の古びた手書き地図を持って戻ってきた。 「はい、これがその場所への、おおよその道順さね。ちょっと分かりにくいかもしれないけどね」 渡されたその和紙の地図には、温泉郷のさらに奥へ続く細い小道や、 古い石碑、変わった形の木など、特徴的な目印が丁寧に描かれていた。 「わぁ……ありがとうございます! こんなものまで……!」 美琴と僕がほとんど同時にお礼を言うと、女将さんはにっこり笑った。 「ちなみにね、その道中に、“陽菜の湯”っていう、ちょっと変わった名前の露天風呂があるんだけど……知ってるかい?」 「陽菜の湯……ですか?」 どこかで聞
夏の夕暮れが、ここ温泉郷の全てを、 優しい薄橙色にゆっくりと染め上げていく。 川沿いの、風情ある石畳の小道を歩く僕と美琴の影が、 まるで寄り添うように、長く、長く伸びていた。 軒先に灯り始めた提灯の柔らかな明かりが、木々の緑の間で淡く、そして温かく揺れている。 温泉特有の、硫黄を含んだ湯気の香りが、しっとりと夕暮れの空気に溶け込み、 時折そっと頬を撫でていく風が、汗ばんだ僕たちの首筋に、心地よいやさしい涼しさを運んできた。 美琴の白く小さな手には、さっき僕が贈った、 あの桜の形をした勾玉のアクセサリーが、大切そうに握られている。 傾きかけた夕陽の最後の光を受けたそれが、彼女の指の間で、 小さく、けれど確かに、きらりと光った。 その控えめな光を見つめながら、僕の胸の奥が、またほんのりと温かくなるのを感じる。 ……でも、それとほぼ同時に、どこか落ち着かない、 そわそわとした気持ちも、確かにそこにあった。 新学期に、あの桜の下で美琴と出会ってから、まだたった二ヶ月と少ししか経っていない。 それなのに── あの廃病院の、血の匂いがした冷たい廊下。 風鳴トンネルの、息が詰まるような静寂と恐怖。 彼女と過ごした時間は、およそ「日常」という言葉では到底語り尽くせないほどに、 あまりにも濃く、そして深かった。 時折、こうしてふと振り返るたびに思う。 ……まだ、そんなにも短い時間しか、僕たちは一緒に過ごしていないんだ、って。 「美琴、そろそろ、予約した宿に行ってみない? まだチェックインの手続きもしてないからさ」 僕が、少しだけ照れ隠しに早口でそう声をかけると、 美琴は、こくりと小さく頷いた。 「はい、先輩。そうですね、私も少し疲れましたし、お宿へ行きましょうか」 彼女の、どこまでも柔らかい声色が、 僕の耳に、そして心に、なんだかとても心地よく響いた。 *** 温泉郷の中心部へと、僕たちはゆっくりと足を進める。 そこかしこから立ち上る白い湯煙が、 美しいグラデーションを描く薄橙色の空へと、ゆらゆらと頼りなげに溶けて消えていった。 道の両脇には、風格のある木造の宿がいくつも軒を連ねている。 その軒下には、趣のある提灯がいくつもぶらさがり、 夕闇が迫る周囲に、やわらかな、温かい灯りをぽうっと灯し始めていた。 その中