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第45話 もう一人の美琴

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-31 19:00:09

ふわり、と湯気が優雅に舞い上がり、温泉特有の、どこか懐かしい硫黄の香りが僕の鼻腔を優しくくすぐる。

静かな湯面には、どこからか紛れ込んだのか、鮮やかな黄色い山吹の花びらが数枚、まるで小さな舟のように静かに浮かび、

夏の夕暮れの、淡く美しい橙色が、その水面にゆらゆらと映り込んで、幻想的な模様を描いていた。

男湯の、岩で作られた風情のある湯船に肩までゆっくりと浸かりながら、僕は、ふぅー、と深く安堵の息を吐き出す。

極上の湯の温もりが、じんわりと、そして確実に身体の芯まで染み込み、

昼間の長い道のりを歩き続けたことによる心地よい疲労感が、まるで薄紙を剥がすように、ゆっくりと消えていくのを感じた。

「……ああぁ……気持ちいい……」

誰に言うでもなく、思わずそんな小さな呟きが、僕の口から満足げに漏れた。

遠くの方からは、川のせせらぎが絶え間なく聞こえ、そして、夏の夕暮れを惜しむかのように、蝉の声がゆるやかに、そしてどこまでも優しく響いていた。

湯船のすぐそばに植えられた木々の葉が、時折そよぐ夜風に揺れて、さらさら、さらさらと、涼やかで心地よい音を立てる。

この露天風呂の周囲は、自然の大きな岩で巧みに囲まれていて、

そして、湯船全体を包み込むようにして、背の高い竹林が、まるで屏風のように立ち並んでいた。

そのおかげで、まだ残っていた西日や、外部からの視線は完全に遮られ、

立ちのぼる白い湯煙が、この空間にやわらかく漂いながら、僅かに顔を出し始めた月明かりに照らされて、美しく輝いている。

湯気と淡い月光が静かに交じり合うその場所は、まるでこの世のものとは思えないほど、どこまでも静かで、そして幻想的な雰囲気に満ちていた。

僕は、もう一度、湯の中に深く、深く身を沈め、そっと目を閉じる。

──こんなにも穏やかで、心安らぐ時間なんて、一体いつぶりだろうか。

母さんのこと、呪いのこと、そしてこれから起こるかもしれない様々な困難のこと…。

そんな、いつも僕の頭を悩ませている全てのことから解放されて、

ただ、この身体の芯の芯まで温泉の優しい熱が浸透し、心の奥底から、ゆっくりと、でも確実に解き放たれていくような、

そんな至福の心地よさが、僕の全身へと広がっていく。

その、まさに至福の瞬間──。

不意に、竹の柵
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