美琴の紅い結界を、ほんのわずかに揺らすことさえできないまま、僕の中に焦りだけが、まるで黒い染みのように、どんどん積もっていく。 僕は膝に手をつき、荒い息を繰り返しながら、必死に活路を探していた。 (どうすればいい……? どうすれば、あの壁を……美琴の守りを、僕は越えられる……?) けれど、いくら考えても、焦れば焦るほど、明確な答えは浮かんでこない。 今は――ただ、目の前の一点に、全神経を集中するしかない。 僕は、もう一度、手のひらに括りつけた赤い勾玉を強く握りしめ、ありったけの霊力をそこに込めていく。 じわり、と赤い光が、まるで血潮のように掌に灯り、熱を帯びていく。 「……星燦ノ礫ッ!!」 ほとんど叫ぶように、僕は再び光弾を放った。 心の奥底で、ただひたすらに願う。 (頼む……! 今度こそ……どうか、僕の想い、届いてくれ!) だけど―― 無情にも、甲高く鋭い音を立てて、美琴の結界がほんのわずかに揺れるだけ。 僕の放った碧い光は、またしても、まるで硬い壁に跳ね返されるように、あっけなく弾かれてしまった。 「くっ……!」 立て続けに二発も全力の術を使ったことで、僕の体力も、そして霊力も、ほとんど限界まで消耗していた。 膝ががくりと崩れ、僕はその場に、みっともなく尻もちをついてしまう。 地面についた手の指が、悔しさでかすかに震えていた。 そんな僕に、美琴が、そっと静かに歩み寄ってくる。 そして、僕の
「……私ひとりで、行こうと思っています」 美琴は、どこまでも静かに、だけどその奥に揺るぎない、鋼のような決意を込めて、そう言い放った。 その言葉は、僕の胸の奥に、ずっと|澱《おど》みのように抱えていた重たい想いを、ふっと表面に浮かび上がらせた。 「……美琴にとって、僕は……やっぱり、足手まとい、なのかな……」 実際に、廃病院での誠也くんの時も、そして、あの風鳴トンネルでの詩織さんの時も、僕が本当に役に立てたことなんて、ほとんどなかった。 ただ、美琴に守られていただけだ。 それが、今の僕の、偽らざる本音だった……。 でも―― 「そんなことは、決してありませんっ!」 美琴が、僕の言葉を遮るように、間髪入れずに、そして驚くほど強い口調で否定してくれた。 だけど僕は、それでも俯いたまま、目を伏せながら言葉を続けた。 「でも……詩織さんの件で、美琴が倒れた時……僕は本当に、何もできなくて……怖かったんだ」 その言葉に美琴は何も言わず、ただ黙って、僕の言葉に耳を傾けてくれている。その沈黙が、逆に僕の心を締め付ける。 「また、あんなことになるかもしれないって思うと……それに…見ての通り、星燦ノ礫も、少しは使えるようになったから、自分の身くらいは、なんとか守れると思うんだ。だから……もし、どうしても美琴が行くって言うなら、僕も一緒に行きたい…。」 僕は、一歩も引かずに、自分の想いをそう伝えた。 心のどこかでは、これがただの僕のわがままで、彼女の足を引っ張るだけかもしれないとも思っていた。
あれから、スマートフォンの画面に映る同じニュース動画を何度も再生した。 でも、結果は同じだった。 何度見返しても、あの耳を裂くような絶叫は……確かに、その映像の中に、不気味なノイズのように混じり込んでいた。 しかし、動画のコメント欄やSNSをいくら探しても、誰もそのおかしな声のことには気が付いていない。まるで、僕にしか聞こえない音のような、不気味な現象…。 これは……ただの偶然なんかじゃない。 “何か”が、この映像を通して、僕に何かを必死に訴えてきている。 そんな確信にも似た予感が、背筋を冷たくした。 僕はひとまず、この不可解な現象について美琴にも話を聞いてもらう為に、短いメッセージを送る。 〈お疲れ様。今どこにいる? ちょっと相談したいことがあるんだ〉 その三分後くらいだっただろうか、ほとんど間を置かずに、美琴からすぐに返事が届いた。 〈中庭のベンチにいますよ。どうかしましたか、先輩?〉 彼女らしい、簡潔で落ち着いた文面だ。 〈ありがとう。ちょっと見てほしいものがあって。屋上まで来てもらってもいいかな?〉 〈分かりました。では、今から屋上へ向かいますね〉 その短いやりとりを済ませ、僕はスマートフォンの画面を消し、重い足取りで階段を上がり始める。 胸の奥が、じわじわと嫌な感じでざわついていた。 きっと美琴なら、この現象について何か分かるかもしれない。彼女の知識と力なら……。 そう思って、僕は屋上の錆びついたフェンスにもたれかかり、彼女が来るのを待った。
僕たちは大きな木の根元に腰を下ろし、ほんの少しの間だけ、厳しい訓練を忘れてひと息つくことにした。 秋の柔らかな陽射しが木々の葉を透かし、きらきらと地面に光の|斑点《はんてん》を落としている。 「先輩、これをどうぞ」 不意に、美琴が小さな、丁寧にラッピングされた箱を、どこか得意げな、それでいて少しだけ恥ずかしそうな表情で、僕の目の前に突き出してきた。 「え? これは……何?」 僕は驚いて尋ねる。 「ふふっ、開けてからのお楽しみですっ!」 いたずらっぽく輝く茶色の瞳と、満面の笑みでそう言う美琴に、僕の心臓がまたしても、どきり、と小さく跳ねた。 何だろう、この期待感と、ほんの少しの緊張感は。 僕は、どこかぎこちない手つきで、その箱の蓋をそっと開けた。 目に飛び込んできたのは、色とりどりの、ぎっしりと丁寧に詰められたサンドイッチだった。 鮮やかな黄色のたまご、優しいピンク色のハム、瑞々しい緑色のレタス。シンプルだけど、計算され尽くしたかのようなその完璧な並び方があまりにも美しくて、見た瞬間、思わず 「わぁ……!」という感嘆の声が、僕の口から漏れていた。 自分の目が、きっと子供みたいにキラキラと輝いていたと思う。 どれもこれも、本当に美味しそうで、なんだか秋の日差しを浴びて、それ自体が
ふと、数日前に父さんの話した僕は、古い家系図のことを雷に打たれたように思い出した。、 そうだ、あれだ――僕の、そしてもしかしたら巫女の血筋の謎を解く鍵が、そこにあるのかもしれない。 「美琴、ちょっと待ってて!」 急な思いつきに、僕は木の根元に無造作に置いていた自分のバッグへと駆け寄る。ナイロンのチャックを焦るように勢いよく開け、中から大切に持ち帰ってきた古びた桐の筒を慎重に取り出した。 そして、さらにその筒から、何代にもわたる人々の名前が墨で記された、一枚の和紙をゆっくりと引き出した。 「はい、これを……見てほしいんだ」 美琴にその家系図を差し出すと、彼女は少し驚いたように、その大きな茶色の瞳を丸くした。 「これは……櫻井家の……。先輩、このような大切なものを、私が見せていただいても、本当によろしいのですか?」 彼女の声には、少し戸惑いの色が混じっている。でも、もし巫女の血というものが本当に関係しているのなら、これが何かの手がかりになるはずだ。 僕は緊張で乾いた喉をごくりと鳴らしながら、美琴がその古い家系図をじっと見つめるのを、息を詰めて待った。 ――巫女の血の繋がり。僕自身の、力の正体に関わるかもしれない、重要な何か。 美琴は、僕から受け取った和紙を静かに広げ、その繊細な指先で古い文字を辿りながら、ゆっくりと読み始めた。 「……先輩のご先祖で、この家系図の一番初めに記されている方は……櫻井沙耶さ
「ッ……!」 ギリギリまで振り絞った霊力が尽き、僕の身体がぐらりと大きく傾ぐ。視界が急速に白んでいき、平衡感覚がぐにゃりと歪むのを感じた。 そして、まるで糸の切れた人形のように、秋色の落ち葉が降り積もる地面へと、僕は大の字に倒れ込んでいた。 「疲れたぁ……もう、指一本、動かせない……!」 ぜぇぜぇと荒い息が切れ、目の前がチカチカと点滅する。全身から急速に力が抜けていく、あの嫌な脱力感に襲われる。 そんな僕の様子に、美琴が慌てて駆け寄ってくる足音がした。 「先輩、大丈夫ですか!?」 彼女の華奢な手が、僕の肩にそっと触れる。その瞬間、ひんやりとした心地よい冷たさと、同時に、奥底から伝わってくるような確かな温かさが混じり合った不思議な感触が、疲弊しきった僕の身体にじんわりと染み込んできた。 僕はなんとか顔を歪めて、苦笑いを浮かべてみせる。 「あはは……なんとか…。」 「良かった…。」 「今の星燦ノ礫の威力ですが、不意を突けば、弱い霊なら弾き飛ばすくらいは可能そうですね」 美琴が、心底ホッとしたような表情を見せたかと思うと、次の瞬間にはもう、いつもの冷静な調子で、先程僕が放った渾身の一撃の分析を淡々とし始めた。 ……この、全身の血が沸騰するような疲労感で、たったそれだけなのか。 僕は心の中で、小さく落胆の溜息をつく。でも、そんな僕の気持ちを察したのか、美琴はふっと、まるで聖母のように柔らかく微笑んだ。