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五十四話:肩の温もり

مؤلف: 渡瀬藍兵
last update تاريخ النشر: 2025-06-04 19:00:00

「これは……?」

 二枚のチケットを手の中で返しながら、悠斗は静江を見上げた。

「詩織が小さい頃に一緒にその温泉郷へ行ったんだよ」

 静江の声が、少しだけ遠くなった。視線がチケットではなく、その向こう側にある景色を見ている。

「そしたら、詩織が温泉郷をやけに気に入ってね。事故直前は詩織の誕生日も近かったから、サプライズで連れていこうと思ったんだけど……」

 言葉の末尾が自然と消えた。その先を語る必要はなかった。悠斗の手の中にあるチケットが、使われなかった理由を静かに語っている。

「じゃあこれは……詩織さんとの思い出作りのために……。そんな大切なもの受け取れませんよ」

 悠斗がチケットを押し返そうとした。けれど静江は受け取らなかった。腕を組んだまま、ゆるく首を横に振る。

「でも、これがあったところでもうあたしには使えないだろう。それなら必要としてる人に渡すべきだと思うんだ」

「……そうだ! 彼女を労う気持ちもかねて、二人で行ってきてはどうですか? きっと、素敵な思い出になるはず」

 竹中が身を乗り出した。その提案に悠斗の指がチケットの上で止まる。

「お、温泉郷で二人……」

 脳裏をよぎったのは、ほんの一瞬の映像だった。湯気の向こうにぼやける美琴の横顔——悠斗は勢いよく頭を横に振った。湯呑みの茶がわずかに揺れる。

「あんた、あの子といい関係じゃないか。行っておいでよ」

 静江がにやりとした。見透かすような目だった。

「こ、こういうのは同性同士か、カップルが……」

「はっ、なに堅苦しいこと言ってんだい。あたしの若い頃には……」

「お義母さん、今の若者とあなたの時代は違いますから……。コンプライアンス的な意味合いでも……」

「はぁ。つまらなくなったねぇ」

 静江が大げさにため息をつく。竹中が苦笑しながらも、その表情をすっと真面目なものに切り替えた。

「でも、僕も、悠斗君と美琴さん、二人で行くのがいいと思いますよ」

 竹中の声には冗談の色がなかった。今夜、美琴が何をしたかを見ていた人間の、静かな確信がそこにあった。

「か、考えておきます」

「ダメだよ。あんたたち二人で行かないと許さないからね」

 静江が人差し指を立てて、悠斗の鼻先に突きつけた。「二人」という言葉に込められた力が、やけに重い。悠斗は観念したように視線を逸らし、手の中のチケットに目を落とした。

 使われるはずだった母娘の旅の切符が、いま、悠斗の掌の中で別の行き先を待っている。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 それから三時間が過ぎた頃。

 時計の針は二十三時を指している。茶の間には空になった湯呑みがいくつか並び、静江と悠斗と竹中の間には、長い時間を共有した者だけが纏う穏やかな空気が漂っていた。

 階段を降りる足音が聞こえた。

「……おや? 目覚めたようだね」

 静江が呟いた直後、引き戸がゆっくりと開かれた。

 美琴が立っていた。三時間前とは別人のように顔色が戻っている。頬にうっすらと血の気が差し、瞳にもいつもの静かな光が戻っていた。ただ、その立ち姿にはどこか申し訳なさが滲んでいる。

「……その……ご迷惑をおかけしました」

 深く頭を下げた。寝起きの髪がぱらりと肩から落ちる。

「……いいんだよ。あんたはあたしと裕二を救ってくれた。この恩は絶対に忘れない」

 静江が椅子から立ち上がった。美琴の前に歩み寄り、視線の高さを合わせるようにわずかに膝を折る。そして、柔らかく微笑んだ。年輪を刻んだ目尻の皺が、優しく深くなる。

「……良かったです」

 美琴もまた微笑み返した。普段の大人びた表情とは違う、年相応のやわらかさがそこにあった。

「……遅くなってしまいましたし、そろそろ帰りましょうか。僕が送りますので」

 竹中が腰を上げながら言った。

「もうこんな時間ですからね。美琴、体調は大丈夫?」

 悠斗が美琴の顔を覗き込む。三時間前の蒼白な顔色が嘘のようだったが、確かめずにはいられなかった。

「ええ、私はもう大丈夫です」

 その返事を聞いて、悠斗も、竹中も、静江も——三人が同時に、小さく息を吐いた。

「……なんでしょうか? 皆さんの間に一体感のようなものを感じます……」

 美琴が三人の顔を順に見回しながら、不思議そうに首をかしげた。

「……はは。どうやら時が進んだってことさね」

 静江が答えた。それ以上の説明はなかったが、その一言で十分だった。

「では、僕は先に車に乗っておふたりを待ってますので」

 竹中が軽く会釈して茶の間を出ていった。玄関の引き戸が開き、夜の冷たい空気がわずかに流れ込んでくる。

「……美琴ちゃん」

「……はい?」

 静江の声の温度が変わった。冗談でも、感謝でもない。もっと深いところから出てくる声だった。

「あんたが何を抱えてるのかあたしにゃ分からないけど、あんたはあたしのようになるんじゃないよ」

 そう言って、静江は美琴を抱きしめた。

「……っ」

 美琴の肩がわずかに強張った。抱きしめられることに慣れていない身体の反応だった。静江の腕の中で、美琴の手が行き場を失ったように宙に浮いている。

「あんたにゃ悠斗が居る。あたしや裕二だってあんたが困った時はいるから。何かあった時は頼っておいで」

 静江の手が、美琴の背中をゆっくりと撫でた。何十年も娘にしてやれなかったことを、今ここで取り戻すように。

「これは……?」

 二枚のチケットを手の中で返しながら、悠斗は静江を見上げた。

「詩織が小さい頃に一緒にその温泉郷へ行ったんだよ」

 静江の声が、少しだけ遠くなった。視線がチケットではなく、その向こう側にある景色を見ている。

「そしたら、詩織が温泉郷をやけに気に入ってね。事故直前は詩織の誕生日も近かったから、サプライズで連れていこうと思ったんだけど……」

 言葉の末尾が自然と消えた。その先を語る必要はなかった。悠斗の手の中にあるチケットが、使われなかった理由を静かに語っている。

「じゃあこれは……詩織さんとの思い出作りのために……。そんな大切なもの受け取れませんよ」

 悠斗がチケットを押し返そうとした。けれど静江は受け取らなかった。腕を組んだまま、ゆるく首を横に振る。

「でも、これがあったところでもうあたしには使えないだろう。それなら必要としてる人に渡すべきだと思うんだ」

「……そうだ! 彼女を労う気持ちもかねて、二人で行ってきてはどうですか? きっと、素敵な思い出になるはず」

 竹中が身を乗り出した。その提案に悠斗の指がチケットの上で止まる。

「お、温泉郷で二人……」

 脳裏をよぎったのは、ほんの一瞬の映像だった。湯気の向こうにぼやける美琴の横顔——悠斗は勢いよく頭を横に振った。湯呑みの茶がわずかに揺れる。

「あんた、あの子といい関係じゃないか。行っておいでよ」

 静江がにやりとした。見透かすような目だった。

「こ、こういうのは同性同士か、カップルが……」

「はっ、なに堅苦しいこと言ってんだい。あたしの若い頃には……」

「お義母さん、今の若者とあなたの時代は違いますから……。コンプライアンス的な意味合いでも……」

「はぁ。つまらなくなったねぇ」

 静江が大げさにため息をつく。竹中が苦笑しながらも、その表情をすっと真面目なものに切り替えた。

「でも、僕も、悠斗君と美琴さん、二人で行くのがいいと思いますよ」

 竹中の声には冗談の色がなかった。今夜、美琴が何をしたかを見ていた人間の、静かな確信がそこにあった。

「か、考えておきます」

「ダメだよ。あんたたち二人で行かないと許さないからね」

 静江が人差し指を立てて、悠斗の鼻先に突きつけた。「二人」という言葉に込められた力が、やけに重い。悠斗は観念したように視線を逸らし、手の中のチケットに目を落とした。

 使われるはずだった母娘の旅の切符が、いま、悠斗の掌の中で別の行き先を待っている。

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