視界が、再び、純白の光に染まる。
光が引いたとき、僕はすでに別の時の中にいた。そこにいた琴音様は、もう少女ではなかった。二十代ほどの、今の姿に近い、凛とした女性になっている。まっすぐに切り揃えられた黒髪、古風ながらも端正な佇まい。そして、その瞳には、かつての空虚さの代わりに、深く、静かな優しさが宿っていた。ある日、村の広場を歩いていた琴音様は、ふと足を止める。その先で、一人の男が長老たちに何かを訴えていた。「なぜあの女が……! 巫女の真似事など! 神がいつまでも琴音殿の願いを聞くとでも思うのか!」苛立ちを露わにした、怒声。しかし琴音様は、眉ひとつ動かさず、ただ風に溶けるような声で呟いた。「…………?また、誰かが白蛇様に縋りたくなったのか……?」そして彼女は騒ぎから離れ、静かに歩き去っていく。その記憶を語る、現在の白蛇様の声には、もはや抑えきれない怒りだけが残っていた。『あの者が、我の琴音を……よくも……っ!!』神でありながら、愛する巫女を救えなかった無力さ。その痛みを、白蛇様は今も噛み締めているようだった。場面が、切り替わる。琴音様が、一通の伝言を受け取った。呼び出しの主は、先ほど広場で怒声を上げていた村長。場所は、白蛇山の山頂。軽々しく踏み入るべきではない、神聖な場所だった。***男は、すでにそこに立っていた。金糸の羽織をまとい、立派な顎髭を撫でている。だが、その細く鋭い目つきからは、品のない傲慢さが滲み出ていた。『この者が、全ての元凶だ……』……この男が? 美琴の、先祖……?信じたくなかった。この冷たい目をした男の血が、美琴の中にも流れているなど。僕の中にあった“美琴の血筋”への幻想が、音もなく崩れていくのを感じていた。「このたびは、お呼び立てして申し訳ありませんな、琴音殿」村長は、丁寧な言葉とは裏腹に、底意地の悪い笑みを浮かべている。「構わぬ。用があるのなら、応えるまでのこと」琴音様の声は、あまりにも澄んでいた。まるで人ではない何かのように、揺らがぬ強さがある。一拍の沈黙の後、男は目を細めて問いかけた。「琴音様……」その名を口にした途端、胸の奥で熱い何かが膨れ上がるのを感じた。『……これが、すべての始まりであった』琴音様の声は静かだった。それは告白でも、懺悔でもなく――ただ、事実として語られる“始まり”。『これを見せた上で……許して欲しい、などとは言わぬ。妾自身、己を許せぬのだから』っ……。言葉にならなかった。胸が詰まって、何も返せない。『そして、この数日後――沙月にも、妾の能力が宿ったのだ。そして彼女と千鶴が、妾を封印した』「千鶴さん……美琴の先祖の……」『なるほど……美琴は彼女の子孫であったか。ならば彼女の強さも、納得できる』「千鶴さんも……そんなにすごい人だったんですか……?」僕の問いに、琴音はふっと目を細めた。『妾と清孝……そして沙月と千鶴――我らは、友人だった』「……友人」『そうだ。清孝は千鶴の兄でな……妾のことを好いてくれておった』たしか、清孝さんは……琴音を殺した、あの村長の実の息子。そして――父である村長を殺害し、その場で処刑された人だ。『その様子も、妾は見てしまった。錯乱した彼が、父を問答無用で殺めるのを』『……そしてその場で処刑され、代わって千鶴が村長を名乗り出たのだ』なんて……なんて強い人なんだろう。その生き様に、ただ圧倒される。きっと当時の村に必要だったのは、ああいう存在だったに違いない。『もちろん、千鶴とて心を病んでいた。だが彼女は、バラバラになろうとする村を――ひとつに束ね上げたのだ』その強さが、ふと美琴と重なって見えた。『ふふ……そうだな。美琴の強さは、きっと彼女譲りだ』琴音様がそう微笑んだとき、僕の胸に広がっていた不安や疑念が、少しだけ解けていく気がした。『……さらに、悠斗』琴音様が、ふと僕の名を呼ぶ。『そなたは、沙月の子孫。そして、美琴は千鶴の子孫……』静かな語り口の中に、確かな想いが込められている。『こうして妾に立ち向かったのも――妾には、運命としか考えられぬ』たしかに……その通りだ。沙月さんと千鶴さんが、千年前に琴音
僕の目の前に広げられたのは、琴音という巫女を失い、混沌と化した村の過去の光景だった。彼女がどこに消えたのか。なぜ、突然姿を見せなくなったのか。その問いに、誰も答えられずにいる。ただひとつ、僕にも分かるのは、村が――その喪失を、確かに“感じ取っている”ということだ。「琴音様は!? なぜ戻られないのですか!!」泣き叫ぶ声が、村のあちこちから聞こえてくる。「まさか……また、天災が……」青ざめた顔で空を仰ぐ者もいれば、過去の恐怖が蘇ったように、わなわなと震える老人たちもいた。「神の怒りか!? また、我らは祟られるのか……!」「どうにかせねば……どうにか、手を打たねば……!」人々は、失われた拠り所を求めて、ただ彷徨っている。祈る相手もいない。語りかける声も届かない。琴音の“不在”という事実だけが、村のすべてを不安と恐怖で包み込んでいた。そんな混乱の只中で、僕の視線はひとりの男に引き寄せられた。村長だ。彼は集まった者たちを見回し、顎髭を撫でながら、ゆっくりと口を開く。「……策はある」その言葉に、村人たちのざわめきが一瞬にして止まった。「再び、琴音様の代理を選定する。次なる“神の器”を……我らの手で、生み出すのだ」ぞわり、と肌を刺すような悪寒が走った。空気が凍りついたのが分かる。だが、その言葉は、不安の淵にいた人々にとって、抗いがたい“救い”のようにも響いてしまったようだった。***やがて場面が切り替わる。村から選ばれた“優秀な女たち”が、何も知らされぬままある場所へ連れてこられていた。村の奥――かつて神具が保管されていたという、今は使われていない土蔵だ。窓は潰され、光はない。湿った石の床と、重く閉じた木戸。よどんだ空気を吸い込むと、胸が重くなる。そこに、あの村長が現れた。その手には、ひとつひとつ丁寧に盛り付けられた皿。それぞれに、茶色く煮こまれた何かの肉が乗っている。「どうぞ、召し上がれ」にやり、と唇の端が吊り上がる。男のその表情からは、慈悲も理性
視界が、再び、純白の光に染まる。光が引いたとき、僕はすでに別の時の中にいた。そこにいた琴音様は、もう少女ではなかった。二十代ほどの、今の姿に近い、凛とした女性になっている。まっすぐに切り揃えられた黒髪、古風ながらも端正な佇まい。そして、その瞳には、かつての空虚さの代わりに、深く、静かな優しさが宿っていた。ある日、村の広場を歩いていた琴音様は、ふと足を止める。その先で、一人の男が長老たちに何かを訴えていた。「なぜあの女が……! 巫女の真似事など! 神がいつまでも琴音殿の願いを聞くとでも思うのか!」苛立ちを露わにした、怒声。しかし琴音様は、眉ひとつ動かさず、ただ風に溶けるような声で呟いた。「…………?また、誰かが白蛇様に縋りたくなったのか……?」そして彼女は騒ぎから離れ、静かに歩き去っていく。その記憶を語る、現在の白蛇様の声には、もはや抑えきれない怒りだけが残っていた。『あの者が、我の琴音を……よくも……っ!!』神でありながら、愛する巫女を救えなかった無力さ。その痛みを、白蛇様は今も噛み締めているようだった。場面が、切り替わる。琴音様が、一通の伝言を受け取った。呼び出しの主は、先ほど広場で怒声を上げていた村長。場所は、白蛇山の山頂。軽々しく踏み入るべきではない、神聖な場所だった。***男は、すでにそこに立っていた。金糸の羽織をまとい、立派な顎髭を撫でている。だが、その細く鋭い目つきからは、品のない傲慢さが滲み出ていた。『この者が、全ての元凶だ……』……この男が? 美琴の、先祖……?信じたくなかった。この冷たい目をした男の血が、美琴の中にも流れているなど。僕の中にあった“美琴の血筋”への幻想が、音もなく崩れていくのを感じていた。「このたびは、お呼び立てして申し訳ありませんな、琴音殿」村長は、丁寧な言葉とは裏腹に、底意地の悪い笑みを浮かべている。「構わぬ。用があるのなら、応えるまでのこと」琴音様の声は、あまりにも澄んでいた。まるで人ではない何かのように、揺らがぬ強さがある。一拍の沈黙の後、男は目を細めて問いかけた。
やがて山の中腹で視界が開け、眼下に広がる景色に、僕は息を呑んだ。 僕の知る千年後の寂れた村とは、あまりにもかけ離れた光景。無数の家々が肩を寄せ合い、立ち上る煙の間を、活気ある人々の影が行き交っている。 『この時は、まだ妾の呪いによる影響を受けておらぬ故、今の村とは大違いなのだ』 琴音様が、自嘲気味に呟く。その碧い瞳は、遥か昔の光景を映しながら、千年の苦渋を物語っていた。 『今は丁度、生贄の義の最中よ』 「生贄の義……?」 沙月さんから聞いた、琴音様が生贄に選ばれたという、あの……。 琴音様は僕の問いには答えず、ただ「こちらへ」とばかりに、再び歩き出す。 その背を追いながら、僕の心には、未来を知る者としての、言いようのない不安が募っていく。 僕たちは、さらに山を奥深くへと進んだ。 道なき道を進むほどに木々は鬱蒼と茂り、やがてその奥に、息をのむほど荘厳な白塗りの神社が現れた。神聖さの中に、どこか張り詰めた空気が漂っている。 鳥居をくぐり境内に入ると、奥から、かすかな物音が聞こえてきた。 音のする方へ向かうと、そこにいたのは……幼い女の子だった。 小さな体が、祭壇の前にぽつんと佇んでいる。その顔に感情はなく、焦点の定まらない瞳は、まるで遠い空を見つめているかのようだった。 そして、その少女の目の前には、白く、神々しい鱗を輝かせた巨大な白蛇が、とぐろを巻いていた。 これは……琴音と白蛇様の、出会い……。 白蛇が、とぐろを巻いたままゆっくりと首をもたげた。その巨大な頭部が、幼い琴音を見下ろす。 『汝の名は』 深く、重厚な声が、空間そのものを震わせるように響いた。 しかし、幼い琴音は動じることなく、ただ小さな唇を開く。 「…琴音、と申します」 感情の乗らない、静かな声。 『ほう……。我の声が聞こえるとはな』 白蛇の声に、
どれほどの時間が流れたのか、もう分からなかった。 ただ、胸の奥底からとめどなく溢れてくる悲しみに、身を任せるように泣き続けていた。 ふと顔を上げれば、空の向こうが白み始めている。その色彩を失ったかのような夜明けの色は、まるで世界が僕の悲しみに耐えかねているようだった。 ぼやけた視界に、美琴の最後の表情が焼き付いて離れない。 『愛してるよ』 その温かい響きと、あまりにも切ない想いが、僕の心をさらに深く抉る。 彼女が背負った過酷な運命。寿命を削り、その身を賭して戦い続けた理由。その過去を全て知ってしまったからこそ、この結末はあまりにも残酷に思えてならなかった。 「美琴っ……」 声はすでに枯れ果て、肺の奥から絞り出される音は、か細い嗚咽に変わっていた。 君に、もう会えない。 その事実が、底なし沼のように僕の全てを飲み込もうとする。美琴が一度、僕の前から姿を消した時とは訳が違う。今はもう、二度と会う術は永久に閉ざされてしまったのだ。 この喪失感が、埋まることはない。決して。 なら──僕も、君と……。 暗い思考が、するりと脳裏をよぎる。 大丈夫。痛みは、きっと一瞬だ。 そう自分に言い聞かせ、まさに崖から身を乗り出そうとした、その刹那だった。 『それは断じて妾が許さぬ』 背後から、力強くも慈愛に満ちた琴音様の声が響いた。僕が泣き叫んでいる間、ずっと静かに見守ってくれていたのだろう。 『そなたは、彼女の心を見たのであろう? その愛を、安易に捨てるは、己が罪に背を向けるに等しい』 ……見た。美琴が背負った苦しい過去も、僕へのどうしようもないほどの深い想いも、全て。 『彼女はそなたに、一緒に死んで欲しいと申したか? 否。彼女はそなたの生を望んだはずだ』 その言葉に、僕は何も返せなかった。美琴は確かに、僕に生きて欲しいと願っていた。 だけど、彼女がいないこの世界で、僕は本当に生きていけるのだろうか? 心にはぽっかりと穴が空き、僕の世界は色を失ってしまった。 『そなたを守った彼女の意思を、無駄にする行為は許されぬ。その命は、もはやそなただけの器にあらず』 琴音様の言葉が、僕の胸に突き刺さる。そうだ、美琴は何度も僕を守ってくれた。その命を、僕が粗末にできるはずがない。 理屈では分かっている。だけど、感情が追いつかない。この矛盾に、僕は苦し
まるで何かに導かれるように、あなたは、ふらりと、山道の奥深くへと歩き出した。 その覚束ない背中を、私はただ、追いかける。 やがて、開けた場所に、そのお方はいた。 ──琴音様。 呪いの元凶であり、そして、最初の犠牲者。生前の姿で、彼女は静かに悠斗君の前に佇んでいた。 そこで私は、今まで一度も見たことのないあなたの顔を見たんだ。 憎悪とでも言うべき、燃え盛る怒りの表情。氷のように冷たく、鋭い言葉。 あなたが、琴音様を激しく責めている。 分かっていたはずなのに。琴音様もまた、「被害者」だったって言うことを。 でも……あなたは、その悲しみに寄り添うことを、拒絶していた。 きっと……私が死んでしまったことで、あなたの中で何かが、決定的に壊れてしまったんだよね……。 「悠斗君……」 届かない。 分かっていても、名前を呼ばずにはいられなかった。 その時だった。琴音様が、ふ、と私に視線を向けたのは。 彼女がかざした手から放たれた、碧く、温かい光が、私の身体を優しく包み込んでいく。 ……悠斗君が、私を見ている。 驚きに見開かれた、その優しい瞳で、まっすぐに。 そして、その光の中で──私は、君と再会できた。 「……み……こと……」 掠れた声で、あなたが、私の名前を呼んでくれた。 私のことを、ちゃんと、見てくれていた。 ────────── ──悠斗君。 これが、私の「すべて」。 あなたに出会う前、私は、何のために生まれてきたのか分からなかった。 でも、あなたがそれを変えてくれたの。 何気ない日常。二人で過ごした、穏やかな時間。そのすべてが、空っぽだった私の世界を彩る、かけがえのない宝物になったんだ。 もう、あなたは私の全部を見てくれたもんね。 きっと、もう知ってるよね。 一人にして、ごめんなさい。 私を、好きになってくれて──本当に、ありがとう。 私は……あなたと出会えて、心から、幸せでした。 あぁ……もっと……もっと、生きたかったなぁ……。 普通の生活を、送りたかった……。 あなたと、人生を……ううん、生涯を、共にしたかった。 ふふ……ごめんね、最後の最期で、こんな感情を見せてしまって……。 あなたのことを考えると、「やりたかったこと」が次から次へと溢れてきて……もう、自分でも、どうしていいか分からないんだ。