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8.桜織旧病院での捜索:遭遇

Autor: 渡瀬藍兵
last update Data de publicação: 2026-07-17 12:33:59

 懐中電灯の光を近づけ、僕はカルテに記された文字を上から追っていった。

『患者名:山口 誠也 享年九歳』

『診断名:肺結核――急性期』

『主訴:数週間に及ぶ長引く咳、断続的な高熱、ならびに全身の強い倦怠感』

『入院日:昭和四十七年四月二日』

『経過:入院後も持続的な激しい咳と呼吸困難あり。各種薬剤による治療を行うも反応乏しく、病状は悪化の一途を辿り、徐々に衰弱』

『死亡確認:昭和四十八年三月十二日 午後三時十四分』

『備考:危篤状態の折、家族の――を知り――その後、容体急変。家族との面会は叶わず』

 そこまで読み終えたところで、僕は眉を寄せた。

「家族の……何を知ったんだ?」

 備考欄の一部は、黒いインクで塗り潰されていた。

 経年による滲みではない。

 誰かが意図的に、その部分だけを読めなくしたように見える。

 懐中電灯を近づけ、角度を変えて照らしてみる。けれど、光を強く当てても、下に書かれた文字までは浮かび上がらなかった。

 家族に、何かがあった。

 それを危篤状態にあった誠也という少年が知り、直後に容体が急変した。

 読み取れるのは、その程度だった。

 カルテの隅には、小さな顔写真が貼られている。

 七歳で亡くなったという少年の顔。

 頬は痩せ、表情もどこか硬い。正面を向いているはずなのに、その目はカメラではなく、もっと遠くにある何かを見ているように感じられた。

 寂しそうな顔だった。

 ――結核。

 今なら、早く見つけて適切な治療を受ければ、助かることも多い病気なのだろう。

 けれど、この子にはその治療が届かなかった。

 五十年以上も前。

 たった七歳の子どもの命を奪うには、あまりにも残酷で、それでいて十分すぎる病だった。

 長いあいだ病院から出ることもできず、咳と熱に苦しみ続けて。

 どれほど家へ帰りたかったのだろう。

 どれほど家族に会いたかったのだろう。

 想像しようとしただけで、胸の奥に鉛の塊が沈んだような重さを感じた。

 そのとき。

 カサッ、と小さな音がした。

「……?」

 カルテの束の間から、一枚の紙が滑り落ちていた。

 床に伏せるように落ちたそれは、古びた小さな便箋だった。

 僕はカルテを机の上へ置き、慎重に紙を拾い上げる。

 黄ばんだ便箋は、几帳面に何度も折り畳まれていた。端はすっかり柔らかくなっていて、力を入れれば簡単に破れてしまいそうだった。

 指先に気をつけながら、ゆっくりと開く。

 子どものものらしい、拙い文字が並んでいた。

『かぞくのみんなへ

 せいやは ぜんぜんだいじょうぶだから

 あんしんしてください

 でも はやくみんなとあいたいな……

 びょうきがなおったら

 またみんなで うみへいきたいです

 せいやより』

「……大丈夫、か」

 思わず、その言葉を小さく繰り返した。

 本当は、大丈夫などではなかったはずだ。

 激しい咳に苦しみ、高熱を繰り返し、次第に身体が弱っていく中で、それでも家族を心配させまいとした。

 自分が会いたいという気持ちより先に、安心してほしいと書いた。

 掠れたインクの一部には、何かが落ちて滲んだような跡があった。

 水滴なのか。

 それとも、涙だったのか。

 便箋の隅には、おそらく誠也自身が描いたのだろう、家族の似顔絵が添えられていた。

 大人が二人と、子どもが数人。

 拙い線で描かれた全員が、揃って大きく口を開けて笑っている。

 それなのに、なぜかひどく寂しく見えた。

 この手紙は、家族へ渡されたのだろうか。

 それとも、誰にも届かないまま、カルテの間に挟まれていたのだろうか。

 僕には分からない。

 けれど、この小さな便箋は、誠也という少年が確かにここで生きていた証だった。

 病気に苦しみながらも、家族を想い、家へ帰ることを願っていた。

 海へ行くという約束を、最後まで諦めていなかった。

「……ごめん」

 何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。

 勝手にカルテを読み、手紙を開いたことか。

 何十年も誰にも見つけてもらえなかった、この子の想いに対してか。

 僕は便箋を元の形に折り畳み、カルテの間へそっと戻した。

 それから写真の中の少年へ一度だけ目を向け、診察室をあとにした。

     *

 二階へ上がった途端、空気が変わった。

 一階よりも、はっきりと何かの気配が濃い。

 見えない重石を肩へ乗せられたように身体が重くなり、胸のあたりを内側から圧迫されているような息苦しさを感じる。

 踊り場で立ち止まり、僕は浅く息を吸った。

「……気のせいじゃ、ないよな」

 返事はなかった。

 もちろん、返ってきてほしいとも思わない。

 懐中電灯を前へ向け、二階の廊下へ足を踏み入れる。

 それでも、捜索そのものは一階と大きく変わらなかった。

 病室の扉を一つずつ開け、中を確認していく。

 すでに何も残されていない、空っぽの部屋。

 ベッドやシーツが床へ投げ出され、壁一面に落書きが施された部屋。

 誰かが面白半分に荒らしたのだろう。

 名前や日付、意味の分からない記号に混じって、「呪われろ」「ここにいる」といった不気味な言葉が、黒や赤の塗料で書き殴られていた。

 一方で、閉院した当時の姿を残したままの病室もあった。

 埃こそ厚く積もっているものの、ベッドは壁際へ整然と並び、畳まれたシーツもそのまま残されている。

 今にも看護師が扉を開け、患者の様子を見に来るのではないか。

 そう錯覚してしまうほどだった。

 けれど、どの部屋にも人の姿はない。

 翔太たちが残したと思われる痕跡も見つからなかった。

 ここまで明確な霊障にも遭遇していない。

 それが逆に、不気味だった。

 これほど濃い気配が満ちているのに、何も起こらない。

 まるで病院そのものが、僕がもっと奥へ進むのを黙って待っているようだった。

 二階の廊下を進み、最も奥にある扉の前へたどり着く。

「……こんな部屋、案内図にあったっけ」

 扉の上には、古びたプレートが残されていた。

 汚れを指で拭い、文字を読む。

 ――集中治療室。

 記憶が正しければ、先ほど確認した館内図に、この部屋は記されていなかった。

 僕は一瞬迷ったあと、扉へ手をかけた。

 音を立てないよう、ゆっくりと開く。

 室内の中央には、小さなベッドが一台だけ置かれていた。

 大人用ではない。

 明らかに、子どもが使うためのものだった。

 その横には、小さな丸椅子。

 さらに、壁際の棚の上には、古びた写真立てが置かれている。

 懐中電灯を向けると、家族写真らしいものが収められていた。表面は埃と黴に覆われ、顔までは判別できない。

 ベッドには、長い年月の陽射しに焼かれ、黄色く変色したシーツが掛けられている。

 そして――。

「うっ……」

 鼻と喉を刺すような、強烈なアルコールの臭い。

 先ほどの診察室でも感じた。

 けれど、濃さがまるで違う。

 何十年も前に閉鎖された部屋とは思えないほど鮮明な刺激臭が、鼻の奥を焼き、そのまま喉へ染み込んでくる。

「げほっ……」

 僕は喉元を押さえながら、後ずさった。

 ここに長居するべきではない。

 翔太たちの姿も見えない以上、早く別の場所を捜したほうがいい。

 そう思い、扉の取っ手へ手を伸ばした。

 その直後。

 カコン。

 僕のすぐ後ろで、あの音が鳴った。

「…………っ!」

 指先が、取っ手へ触れる寸前で止まる。

 聞き間違いではない。

 今度は遠くから響いてきた音ではなかった。

 同じ部屋の中。

 僕の背後。

 ほんの数歩先で、何かがけん玉をしている。

 見なくても分かった。

 いる。

 背後に、何かがいる。

 カコン。

 カコン。

 木の玉が皿へ収まる、乾いた音。

 今度は一度も失敗しない。

 カコン、カコン、カコン、カコン。

 一定の間隔で、何度も繰り返される。

 心臓が喉元までせり上がってきた。

 逃げろ。

 頭の中で叫んでも、身体が動かない。

 僕は唾を飲み込み、首だけをゆっくりと背後へ向けた。

 懐中電灯の光が、部屋の中央を照らす。

 そこに、一人の男の子が立っていた。

 真っ白な肌。

 痩せ細った手足。

 生気のない顔。

 その顔には見覚えがあった。

 先ほどカルテに貼られていた写真。

 山口誠也。

 七歳で亡くなった、あの少年だった。

「っ……!」

 誠也の手は、休むことなくけん玉を動かしていた。

 けれど、その目は一度も手元を見ていない。

 暗く淀んだ瞳で、ただひたすら僕だけを見つめている。

 恨めしそうに。

 ここへ入ってきた僕を、責めるように。

 カコン、カコン。

 音だけが続く。

 僕は声を出すことすらできなかった。

 視線を外したいのに、目が動かない。

 身体も、指一本すら動かなかった。

 まるで全身を見えない糸で縛り上げられたようだった。

『お兄ちゃん、誰』

 少年の声が聞こえた。

 けれど、その唇は動いていない。

 声は耳からではなく、直接頭の中へ流れ込んできた。

 幼い声。

 それなのに、その奥には明らかな怒りが滲んでいる。

 まずい。

 これは、まずい。

「ぼ、僕は……」

 どうにか言葉を絞り出そうとした、その瞬間だった。

 身体へ、見えない衝撃が叩きつけられた。

「う゛っ……!」

 足が床から離れる。

 次の瞬間、背中が扉へ激突した。

 ドォンッ、と室内に大きな音が響く。

「がっ……!」

 肺に溜まっていた空気が、一気に押し出された。

 遅れて、背中から肩へ強烈な痛みが走る。

 手から懐中電灯がこぼれ落ちた。

 床へぶつかったライトは何度か跳ね、くるくると回転しながら、誠也の足元まで転がっていく。

 横倒しになった光が、少年の白い顔を下から照らした。

『ここは、誠也の場所なのに』

 誠也が、ゆっくりとこちらへ歩き始める。

 一歩。

 また一歩。

 素足が床に触れているはずなのに、足音はしなかった。

 代わりに、けん玉の音だけが響いている。

 カコン。

 カコン。

 逃げなければ。

 そう思っても、身体は扉へ押しつけられたまま動かなかった。

 力を込めようとするほど、金縛りは強くなっていく。

 誠也が手を伸ばした。

 白く細い指先が、僕の胸元へ近づいてくる。

 まずい。

 まずい、まずい。

 けれど、僕には何もできない。

 あと一歩。

 誠也が踏み出せば、手が届く。

 もし、触れられたら。

 その先を考えただけで、嫌な汗が背中を伝った。

 冷たい指先が、もうすぐ制服へ触れる。

 そのときだった。

 ぴくり、と。

 誠也の手が、僕の胸元へ触れる直前で止まった。

「……?」

 少年の目が、大きく見開かれる。

 先ほどまで怒りだけが満ちていた瞳に、別の感情が浮かんでいた。

 怯えている。

 誠也は僕ではなく、扉の向こうへ視線を向けていた。

 かつん。

 遠くから、靴音が聞こえた。

 かつん。

 かつん。

 硬い床を踏む音が、暗い廊下の向こうから近づいてくる。

 誰かが来る。

 こんな時間に。

 この廃病院へ。

 到底信じられないことだった。

 けれど、その足音のおかげで、誠也の注意が僕から逸れている。

『怖いのが来た』

 少年は怯えた声で、そう呟いた。

 ――また。

 その一言の意味を考える間もなかった。

 誠也の身体が薄く透けていく。

 白い腕も、細い足も、けん玉さえも霞んでいき、次の瞬間には天井へ吸い込まれるように消えてしまった。

「っは……!」

 霊の姿が消えた途端、身体を縛っていた力がなくなった。

 僕は崩れ落ちるように床へ膝をつく。

「はっ……はぁっ……!」

 全身が細かく痙攣していた。

 視界の端が白く明滅し、うまく焦点が合わない。

 呼吸をすることさえ、忘れていたらしい。

 何度も息を吸おうとするけれど、肺は思うように膨らんでくれなかった。

 それでも、足音は止まらない。

 かつん。

 かつん。

 ゆっくりと。

 けれど確実に、こちらへ近づいてくる。

 僕は痛む背中を扉へ預けたまま、落とした懐中電灯へ手を伸ばした。

 指先が、わずかに届かない。

 足音は、もうすぐそこまで来ていた。

 かつん。

 最後の一歩が、廊下に響く。

 そして。

 その音は、僕がいる集中治療室の前で止まった。

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