LOGIN――月瀬美琴――
国道を行き交う車の音を背に、私はガードレール脇の茂みをかき分けていた。 伸び放題になった草が足首へ絡みつき、湿った土の匂いが鼻をかすめる。わざわざ人が足を踏み入れるような場所ではない。 では、なぜ私はここにいるのか。 ここには、死してなお苦しみ続けている人たちがいる。 理由は、ただそれだけだった。 茂みの奥には、三つの影が漂っていた。 けれど、もはや人の姿とは呼べない。輪郭は崩れ、黒い煙がかろうじて人の形を保っているようにしか見えなかった。 長い年月、この場所に縛られ続けてきたのだろう。 声を上げる力さえ失いかけた彼らの想いを、私は偶然拾ってしまった。 この世に留まる霊の多くは、誰かに伝えたい想いや、託したいものを抱えている。 目の前を彷徨う三人も、きっと同じなのだ。 やがて三つの影のうち、最も小さなものが揺らめいた。 こちらを振り返るような仕草を見せたあと、私を導くように茂みの奥へ進み始める。 『こっち……こっちだよ』 声として聞こえたわけではない。 それでも、その子が伝えようとしていることは、私の胸へ確かに届いた。 「はい。今、行きますね」 枝を避けながら、小さな影のあとを追う。 少し進んだところで、その影は立ち止まった。 周囲には草が生い茂っているのに、そこだけ不自然に地面が露出している。土はわずかに窪み、過去に何かが起きた痕跡だけが、長い年月を経ても消えずに残っていた。 「ここが、皆さんを縛りつけている場所なのですか?」 尋ねると、小さな影が微かに上下へ揺れた。 頷いたのだと思う。 続いて影は、形の定まらない腕を持ち上げ、地面の一角を指し示した。 「そこに、何かあるのですか?」 私は示された場所へ近づき、その場にしゃがみ込んだ。 土の間から、何かが僅かに突き出している。 初めは人形の足かと思った。けれど、指で表面の泥を拭ってみると、それは古びた木片のようだった。 小さな影が私の隣へ寄り添う。 『それ……それを……』 「これを、掘り出してほしいのですね?」 影が、もう一度頷いた。 「分かりました。少し待っていてくださいね」 私は両手で土を掘り始めた。 けれど、埋まってから一体どれほどの年月が過ぎているのか。土は固く締まり、細い根が幾重にも絡み合っている。 爪の間に土が入り込み、指先がじんじんと痛み始めても、埋まっているものの全貌はなかなか見えてこなかった。 「よい……しょ。もう少し、ですからね……」 誰に言うともなく声をかけながら、ひたすら土をかき分ける。 そうして三十分ほど経った頃、ようやく埋まっていたものを両手で抱えられるようになった。 「抜けて……くださいっ」 絡みついた根を外し、力を込めて引き上げる。 ぼこり、と土が崩れた。 私の手の中へ現れたのは、木彫りの犬だった。 掌に収まるほどの、小さな人形。 片脚は途中から折れて失われ、全体が黒ずんでいる。それでも丸みを帯びた背中や、素朴な顔立ちからは、どこか温かなものが感じられた。 きっと、誰かが大切にしていたのだろう。 長いあいだ土に埋もれていたとは思えないほど、その犬には人のぬくもりが残っているように思えた。 「掘り出せましたよ。どうぞ」 付着した土をそっと払い、木彫りの犬を小さな影へ差し出す。 けれど、その子は受け取ろうとしなかった。 「どうしたのですか? これが欲しかったのではないのですか?」 影が、ゆっくりと左右に揺れる。 『それ……を……誠也に……』 「誠也……?」 この子が取り戻したかったのではない。 木彫りの犬を、誠也という誰かへ届けてほしいのだ。 けれど、名前しか分からない相手を探し出すのは、いくら私でも難しい。 「その誠也さんがどこにいるのか、教えてもらえますか?」 問いかけても、影は苦しげに揺れるばかりだった。 すでに、詳しい事情を言葉へ変えられるほどの力が残っていないのだろう。 それでも、この人形を届けたいという願いだけは、痛いほど伝わってくる。 私は木彫りの犬を膝の上へ置き、小さな影に向き直った。 「ごめんなさい。少しだけ、頭に触れさせてくださいね」 手を伸ばした途端、小さな影が大きく震えた。 怯えたように身を縮め、私から離れようとする。 「驚かせてしまって、ごめんなさい。でも、大丈夫です」 私はそれ以上手を近づけず、影が落ち着くのを待った。 「私は皆さんへ危害を加えたりしません。あなたの記憶を少しだけ見せてもらえれば、誠也さんの居場所が分かるかもしれないのです」 『…………』 返事はなかった。 しばらくの沈黙のあと、小さな影が警戒するように揺れながらも、僅かに頭を下げた。 「ありがとうございます。失礼しますね」 今度は怖がらせないよう、ゆっくりと手を伸ばす。 そして、煙のように揺らめくその子の頭へ、そっと掌を重ねた。 触れた瞬間、幾つもの光景が私の中へ流れ込んできた。 家族の笑い声。 小さな手で、大切そうに抱えられた木彫りの犬。 病院で待っている一人の男の子。 もうすぐ会えると、誰もが信じていた。 けれど、その願いは届かなかった。 突然の恐怖。激しい衝撃。離れていく家族の手。 土の上へ投げ出され、誰にも見つけられないまま埋もれていく、小さな犬。 そして――桜織旧病院。 「……っ」 流れ込んできた記憶は、どれも私のものではない。 それなのに、胸を引き裂かれるように苦しくなった。 視界が滲み、頬を温かな雫が伝う。 私は込み上げてきた涙を、人差し指でそっと拭った。 「辛かったですね……山口竜也くん」 小さな影――山口竜也くんへ語りかける。 「お父様も、お母様も……ずっと、ここにいらしたのですね」 竜也くんの背後には、煙のような二つの影が寄り添っていた。 もう顔も、姿も分からない。 それでも、竜也くんを見守るお父様とお母様の気配は、確かに感じられた。 三人は、誠也くんへ届けられなかった想いを抱えたまま、何十年ものあいだ、この場所を彷徨い続けていたのだ。 もう、大丈夫です。 病院にいる山口誠也くんへ、この木彫りの犬を届けてみせます。 ですから、皆さんはもう苦しまなくていいのです。 私は木彫りの犬を胸元へ抱き、三人の影をまっすぐに見つめた。 「皆さんの想いは、確かにお預かりしました」 涙で震えそうになる声を整え、一言ずつ告げる。 「巫女として、この人形を山口誠也くんのもとへ必ず届けます。皆さんの想いも、果たせなかった約束も、私が一緒に連れていきます」 三つの影が、静かに揺れた。 「ですから、どうかもう……安らかにお眠りください」 祈るように呼びかけた、そのとき。 三人の周りに、淡く頼りない光が灯り始めた。 一つ、また一つ。 小さな光は蛍のように瞬きながら、煙に覆われていた彼らの姿を優しく包み込んでいく。 ――成仏。 この場所に縛られていた三人は、私へ想いを託し、ようやく長い苦しみから解き放たれる道を選んでくれた。 『あり……がとう……』 途切れそうな声とともに、竜也くんが穏やかに笑ったような気がした。 残る二人の声は、最後まで聞こえなかった。 けれど、その温かな感謝は、言葉よりもはっきりと私の胸へ届いていた。 「今度こそ、誰にも妨げられない穏やかな眠りにつけますように」 私は胸の前で両手を合わせ、静かに目を閉じる。 彼らに安らかな眠りが訪れますように。 もう二度と、悲しみの中で彷徨うことがありませんように。 やがて三つの光は、風に乗るように空へ昇り、溶けるように消えていった。 あとに残されたのは、土に汚れた私の両手と、片脚を失った木彫りの犬だけだった。 「桜織旧病院……」 記憶の中で見た、白く朽ちた建物を思い浮かべる。 「場所は分かりましたけど……どうやって行きましょうか」 答えてくれる人は、もういない。 けれど腕の中の木彫りの犬は、早く届けてほしいと訴えているように思えた。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 そして後日。 私は、桜織旧病院の前に立っていた。 記憶の中で見たとおりの、白く朽ち果てた建物。 ひび割れた外壁には黒い蔦が絡みつき、割れた窓の向こうには、夜よりも深い闇が沈んでいる。 周囲一帯に、肌を刺すような禍々しい気配が漂っていた。 息をするだけで喉の奥が重くなる。 長いあいだ積み重なった苦痛と恐怖、そして憎しみが、病院そのものへ染みついてしまっているようだった。 鞄の中には、布で丁寧に包んだ木彫りの犬が入っている。 ここに、誠也くんがいる。 けれど、その気配は竜也くんたちとは比べものにならないほど濁り、今にも取り返しのつかないものへ変わろうとしていた。 「……急がないと」 このままでは、誠也くんが悪霊になってしまう。 私は入れそうな場所を探して建物の周囲を回り、ようやく入り込めそうな割れた窓を見つけた。 隙間へ身体を滑り込ませ、暗い院内へ足を踏み入れる。 かつん、と。 私の靴音が、誰もいないはずの廃病院に響き渡った。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう