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9.月瀬美琴

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-17 12:38:46

 ――月瀬美琴――

 国道を行き交う車の音を背に、私はガードレール脇の茂みをかき分けていた。

 伸び放題になった草が足首へ絡みつき、湿った土の匂いが鼻をかすめる。わざわざ人が足を踏み入れるような場所ではない。

 では、なぜ私はここにいるのか。

 ここには、死してなお苦しみ続けている人たちがいる。

 理由は、ただそれだけだった。

 茂みの奥には、三つの影が漂っていた。

 けれど、もはや人の姿とは呼べない。輪郭は崩れ、黒い煙がかろうじて人の形を保っているようにしか見えなかった。

 長い年月、この場所に縛られ続けてきたのだろう。

 声を上げる力さえ失いかけた彼らの想いを、私は偶然拾ってしまった。

 この世に留まる霊の多くは、誰かに伝えたい想いや、託したいものを抱えている。

 目の前を彷徨う三人も、きっと同じなのだ。

 やがて三つの影のうち、最も小さなものが揺らめいた。

 こちらを振り返るような仕草を見せたあと、私を導くように茂みの奥へ進み始める。

『こっち……こっちだよ』

 声として聞こえたわけではない。

 それでも、その子が伝えようとしていることは、私の胸へ確かに届いた。

「はい。今、行きますね」

 枝を避けながら、小さな影のあとを追う。

 少し進んだところで、その影は立ち止まった。

 周囲には草が生い茂っているのに、そこだけ不自然に地面が露出している。土はわずかに窪み、過去に何かが起きた痕跡だけが、長い年月を経ても消えずに残っていた。

「ここが、皆さんを縛りつけている場所なのですか?」

 尋ねると、小さな影が微かに上下へ揺れた。

 頷いたのだと思う。

 続いて影は、形の定まらない腕を持ち上げ、地面の一角を指し示した。

「そこに、何かあるのですか?」

 私は示された場所へ近づき、その場にしゃがみ込んだ。

 土の間から、何かが僅かに突き出している。

 初めは人形の足かと思った。けれど、指で表面の泥を拭ってみると、それは古びた木片のようだった。

 小さな影が私の隣へ寄り添う。

『それ……それを……』

「これを、掘り出してほしいのですね?」

 影が、もう一度頷いた。

「分かりました。少し待っていてくださいね」

 私は両手で土を掘り始めた。

 けれど、埋まってから一体どれほどの年月が過ぎているのか。土は固く締まり、細い根が幾重にも絡み合っている。

 爪の間に土が入り込み、指先がじんじんと痛み始めても、埋まっているものの全貌はなかなか見えてこなかった。

「よい……しょ。もう少し、ですからね……」

 誰に言うともなく声をかけながら、ひたすら土をかき分ける。

 そうして三十分ほど経った頃、ようやく埋まっていたものを両手で抱えられるようになった。

「抜けて……くださいっ」

 絡みついた根を外し、力を込めて引き上げる。

 ぼこり、と土が崩れた。

 私の手の中へ現れたのは、木彫りの犬だった。

 掌に収まるほどの、小さな人形。

 片脚は途中から折れて失われ、全体が黒ずんでいる。それでも丸みを帯びた背中や、素朴な顔立ちからは、どこか温かなものが感じられた。

 きっと、誰かが大切にしていたのだろう。

 長いあいだ土に埋もれていたとは思えないほど、その犬には人のぬくもりが残っているように思えた。

「掘り出せましたよ。どうぞ」

 付着した土をそっと払い、木彫りの犬を小さな影へ差し出す。

 けれど、その子は受け取ろうとしなかった。

「どうしたのですか? これが欲しかったのではないのですか?」

 影が、ゆっくりと左右に揺れる。

『それ……を……誠也に……』

「誠也……?」

 この子が取り戻したかったのではない。

 木彫りの犬を、誠也という誰かへ届けてほしいのだ。

 けれど、名前しか分からない相手を探し出すのは、いくら私でも難しい。

「その誠也さんがどこにいるのか、教えてもらえますか?」

 問いかけても、影は苦しげに揺れるばかりだった。

 すでに、詳しい事情を言葉へ変えられるほどの力が残っていないのだろう。

 それでも、この人形を届けたいという願いだけは、痛いほど伝わってくる。

 私は木彫りの犬を膝の上へ置き、小さな影に向き直った。

「ごめんなさい。少しだけ、頭に触れさせてくださいね」

 手を伸ばした途端、小さな影が大きく震えた。

 怯えたように身を縮め、私から離れようとする。

「驚かせてしまって、ごめんなさい。でも、大丈夫です」

 私はそれ以上手を近づけず、影が落ち着くのを待った。

「私は皆さんへ危害を加えたりしません。あなたの記憶を少しだけ見せてもらえれば、誠也さんの居場所が分かるかもしれないのです」

『…………』

 返事はなかった。

 しばらくの沈黙のあと、小さな影が警戒するように揺れながらも、僅かに頭を下げた。

「ありがとうございます。失礼しますね」

 今度は怖がらせないよう、ゆっくりと手を伸ばす。

 そして、煙のように揺らめくその子の頭へ、そっと掌を重ねた。

 触れた瞬間、幾つもの光景が私の中へ流れ込んできた。

 家族の笑い声。

 小さな手で、大切そうに抱えられた木彫りの犬。

 病院で待っている一人の男の子。

 もうすぐ会えると、誰もが信じていた。

 けれど、その願いは届かなかった。

 突然の恐怖。激しい衝撃。離れていく家族の手。

 土の上へ投げ出され、誰にも見つけられないまま埋もれていく、小さな犬。

 そして――桜織旧病院。

「……っ」

 流れ込んできた記憶は、どれも私のものではない。

 それなのに、胸を引き裂かれるように苦しくなった。

 視界が滲み、頬を温かな雫が伝う。

 私は込み上げてきた涙を、人差し指でそっと拭った。

「辛かったですね……山口竜也くん」

 小さな影――山口竜也くんへ語りかける。

「お父様も、お母様も……ずっと、ここにいらしたのですね」

 竜也くんの背後には、煙のような二つの影が寄り添っていた。

 もう顔も、姿も分からない。

 それでも、竜也くんを見守るお父様とお母様の気配は、確かに感じられた。

 三人は、誠也くんへ届けられなかった想いを抱えたまま、何十年ものあいだ、この場所を彷徨い続けていたのだ。

 もう、大丈夫です。

 病院にいる山口誠也くんへ、この木彫りの犬を届けてみせます。

 ですから、皆さんはもう苦しまなくていいのです。

 私は木彫りの犬を胸元へ抱き、三人の影をまっすぐに見つめた。

「皆さんの想いは、確かにお預かりしました」

 涙で震えそうになる声を整え、一言ずつ告げる。

「巫女として、この人形を山口誠也くんのもとへ必ず届けます。皆さんの想いも、果たせなかった約束も、私が一緒に連れていきます」

 三つの影が、静かに揺れた。

「ですから、どうかもう……安らかにお眠りください」

 祈るように呼びかけた、そのとき。

 三人の周りに、淡く頼りない光が灯り始めた。

 一つ、また一つ。

 小さな光は蛍のように瞬きながら、煙に覆われていた彼らの姿を優しく包み込んでいく。

 ――成仏。

 この場所に縛られていた三人は、私へ想いを託し、ようやく長い苦しみから解き放たれる道を選んでくれた。

『あり……がとう……』

 途切れそうな声とともに、竜也くんが穏やかに笑ったような気がした。

 残る二人の声は、最後まで聞こえなかった。

 けれど、その温かな感謝は、言葉よりもはっきりと私の胸へ届いていた。

「今度こそ、誰にも妨げられない穏やかな眠りにつけますように」

 私は胸の前で両手を合わせ、静かに目を閉じる。

 彼らに安らかな眠りが訪れますように。

 もう二度と、悲しみの中で彷徨うことがありませんように。

 やがて三つの光は、風に乗るように空へ昇り、溶けるように消えていった。

 あとに残されたのは、土に汚れた私の両手と、片脚を失った木彫りの犬だけだった。

「桜織旧病院……」

 記憶の中で見た、白く朽ちた建物を思い浮かべる。

「場所は分かりましたけど……どうやって行きましょうか」

 答えてくれる人は、もういない。

 けれど腕の中の木彫りの犬は、早く届けてほしいと訴えているように思えた。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 そして後日。

 私は、桜織旧病院の前に立っていた。

 記憶の中で見たとおりの、白く朽ち果てた建物。

 ひび割れた外壁には黒い蔦が絡みつき、割れた窓の向こうには、夜よりも深い闇が沈んでいる。

 周囲一帯に、肌を刺すような禍々しい気配が漂っていた。

 息をするだけで喉の奥が重くなる。

 長いあいだ積み重なった苦痛と恐怖、そして憎しみが、病院そのものへ染みついてしまっているようだった。

 鞄の中には、布で丁寧に包んだ木彫りの犬が入っている。

 ここに、誠也くんがいる。

 けれど、その気配は竜也くんたちとは比べものにならないほど濁り、今にも取り返しのつかないものへ変わろうとしていた。

「……急がないと」

 このままでは、誠也くんが悪霊になってしまう。

 私は入れそうな場所を探して建物の周囲を回り、ようやく入り込めそうな割れた窓を見つけた。

 隙間へ身体を滑り込ませ、暗い院内へ足を踏み入れる。

 かつん、と。

 私の靴音が、誰もいないはずの廃病院に響き渡った。

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