เข้าสู่ระบบそれから僕は、懐中電灯の光だけを頼りに、病院の中を慎重に進んでいた。
足元には、砕けたガラスや剥がれ落ちた壁の破片が散乱している。踏み抜かないよう一歩ずつ確かめながら、暗い廊下を歩いていく。 湿気を吸った床材が、体重をかけるたびに軋んだ。 ぎし。 ぎし、と。 その音が、自分の足音ではなく、すぐ後ろから誰かがついてきているように聞こえてならない。 何度か振り返った。 けれど、そのたびに懐中電灯が照らし出すのは、誰もいない廊下だけだった。 「……考えすぎだ」 誰に聞かせるでもなく呟き、前へ向き直る。 その直後だった。 「わっ!?」 突然、顔に何かが絡みついた。 細く、乾いた糸のような感触が、頬から額へまとわりつく。 髪の毛――。 そんな言葉が頭をよぎった瞬間、全身から血の気が引いた。 「っ……!」 反射的に腕を振り回し、顔に絡んだものを必死に払い落とす。懐中電灯の光が大きく揺れ、壁や天井を目まぐるしく照らした。 やがて、目の前に細い糸が垂れ下がる。 「……蜘蛛の巣」 正体を知った途端、肺に溜め込んでいた息が一気に抜けた。 ただの蜘蛛の巣だ。 それだけのことなのに、心臓は壊れそうなほど激しく脈打っている。 僕は顔に残った糸を指先で取り除きながら、恨めしげに天井を見上げた。 「驚かせないでくれよ……」 蜘蛛の巣に文句を言っても仕方がない。 それでも何か口にしていなければ、この静けさに呑み込まれてしまいそうだった。 気を取り直し、再び歩き出す。 しばらく進むと、廊下は突き当たりで左右に分かれていた。 僕はその場で足を止め、まず左へ懐中電灯を向ける。 少し先に、吹き抜けのような広い空間が見えた。壁際には汚れた長椅子が並び、その向こうには大きな窓と、外へ続いていたらしいテラスがある。 かつては患者や見舞客が行き交っていた、待合ホールなのだろう。 次に右側を照らす。 壁に沿って上階へ続く階段があり、その奥には金属製の両開き扉が見えた。扉の上には、傾いたプレートが残っている。 ――職員用出入口。 恐らく、救急車で運ばれてきた患者は、あの扉から院内へ搬送されていたのだろう。 どちらへ進むべきか迷い、僕はもう一度左を見る。 「ホールなら、案内図があるかもしれない」 闇雲に歩き回るより、先に建物の構造を把握したほうがいい。 そう判断し、僕は左側の廊下へ進んだ。 ホールへ足を踏み入れると、空気がわずかに広がった。 天井は廊下よりも高く、壁際には受付らしいカウンターが残されている。錆びたパイプ椅子や、足の折れた長椅子が乱雑に倒れ、その表面には白い埃が厚く積もっていた。 懐中電灯を動かしながら辺りを見回す。 そして、受付の脇に立つ大きな板を見つけた。 「あった……」 埃に覆われ、文字のほとんどが見えなくなっているものの、形からして館内案内図に違いない。 僕は近づき、制服の袖で表面を何度か拭った。 白い粉塵が舞い上がり、思わず顔を背ける。 それでも少しずつ、色褪せた文字と線が姿を現した。 桜織旧病院、館内案内。 僕は懐中電灯を近づけ、上から順に確認していく。 一階には受付、診察室、処置室、レントゲン室、薬品庫、倉庫。それから、廊下の奥に院長室がある。 二階は、ほとんどが入院患者のための部屋と、ナースステーション。 一号室から十号室まで。 それ以外にも談話室や処置室が記されていた。 「やっぱり、大きいな……」 戦後間もなく建てられた病院にしては、明らかに規模が大きい。 当時、この町にそれほど多くの患者がいたのだろうか。 あるいは、桜織市の外からも人が運び込まれていたのかもしれない。 そして三階。 案内図では、その大部分が屋上として記されていた。 けれど、その片隅にだけ、小さな文字で別の施設名が書かれている。 「……社?」 思わず、声に出して読んだ。 病院の屋上に、社。 祠や神社の社、という意味だろうか。 なぜ、病院の最上部にそんなものがある。 文字が掠れているだけで、別の言葉を読み違えている可能性もある。けれど、目を凝らしてみても、やはり「社」としか読めなかった。 奇妙ではある。 けれど、今はその意味を考えている場合ではない。 「翔太は……どこにいるんだ」 案内図へ向けた光を動かす。 一階の倉庫。 二階の病室。 身を隠せる場所はいくつもある。 翔太たちが自分の意思でどこかに留まっているのなら、病室や倉庫を調べれば見つけられるかもしれない。 ただ――。 昨夜から一晩も帰れずにいる四人が、無事な状態で待っているとは限らない。 その考えが浮かび、僕は唇を噛んだ。 「とにかく、一階から順番に捜そう」 そう決めて案内図に背を向けた、そのときだった。 カコン。 建物のどこかから、硬いもの同士がぶつかる音が聞こえた。 僕は動きを止める。 カコン。 続いて、少し軽い音。 カン。 静寂が戻る。 握っていた懐中電灯に、無意識のうちに力が籠もった。 「……何の音だ?」 耳を澄ませる。 しばらく待っていると、再び音が鳴った。 カコン。 カッ。 カコン、カコン。 木の玉が、木製の皿や柄にぶつかっているような音。 「けん玉……?」 幼い頃に聞いたことのある音に似ていた。 玉を皿に乗せ、落とし、また持ち上げる。 一度成功したあと、次には失敗する。 そんな動作を、誰かが延々と繰り返しているような、不規則な音だった。 こんな暗い廃病院の中で。 誰が。 何のために。 カコン。 また一つ、音が響く。 今度は先ほどより近い気がした。 僕は周囲を見回した。 懐中電灯の光が、倒れた椅子や受付のカウンターを照らしていく。 けれど、誰もいない。 音の主は、生きている人間なのか。 それとも――。 「……やめよう」 そこから先を考えるのを、僕は無理やり止めた。 想像してしまえば、足が動かなくなる。 今すぐ来た道を引き返し、割れた窓から外へ逃げ出したくなる。 けれど、ここまで来た以上、翔太を置いて帰ることはできない。 僕は呼吸を殺し、できるだけ足音を立てないようにして、捜索を続けた。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 一階の廊下を一通り見て回り、僕は最後に残った一室の前へたどり着いた。 扉の脇に掛けられた、錆びついたプレート。 そこには、かろうじて「診察室」と書かれている。 ここ以外の部屋は、すでに確認した。 受付。 処置室。 薬品庫。 レントゲン室。 どこにも翔太たちの姿はなかった。 幸い――と言っていいのかは分からないけれど、ここまで明確な霊障にも遭遇していない。 誰かの声を聞いたわけでもなければ、霊の姿を見たわけでもない。 あのけん玉のような音も、しばらく前から聞こえなくなっていた。 それなのに。 この診察室の前だけは、空気が違っていた。 扉の隙間から、粘りつくような冷気が漏れ出している。 目には何も見えない。 けれど、扉の向こうに何かがいる。 そんな根拠のない確信があった。 「……開けるぞ」 声に出し、自分を奮い立たせる。 僕は恐る恐る、引き戸の取っ手へ指をかけた。 金属は、氷のように冷たかった。 力を込め、ゆっくりと横へ引く。 扉は途中で何度か引っかかりながら、ざらざらと耳障りな音を立てて開いていった。 懐中電灯の光を、室内へ向ける。 そこにあったのは、埃にまみれた古い机だった。 机の上には書類が山のように積み上げられ、床にも大量の紙が散乱している。壁際には、患者のカルテを収めていたらしい棚が並んでいたが、扉の多くは開いたままになっていた。 誰かが荒らしたのだろうか。 それとも、閉院したときからこの状態なのか。 部屋へ足を踏み入れると、黴臭さに混じって、かすかに消毒用アルコールの匂いがした。 何十年も放置されているはずなのに。 まるで、つい先ほどまでここで診察が行われていたかのように。 「ここ、正面玄関の近くだったのか……」 窓の外へ光を向けると、先ほど僕が通ってきた病院前の道が見えた。 鎖で塞がれた正面入口も、ここからなら確認できる。 そのとき。 さぁ、と。 閉じ切った室内を、冷たい風が吹き抜けた。 「っ……!」 背筋を氷の指でなぞられたような寒気が走る。 腕に鳥肌が立ち、身体が勝手に強張った。 「きゅ、急に寒く……」 これは、知っている感覚だった。 霊が人に近づいたとき。 あるいは、何かが身体へ入り込もうとしたときに感じる、芯まで凍るような冷たさ。 「まさか、取り憑かれた……?」 僕は慌てて周囲へ光を向けた。 机の下。 棚の隙間。 天井。 扉の背後。 けれど、どこにも霊の姿は見えない。 少なくとも、僕の目には。 そのとき、一枚の紙が机の上から舞い上がった。 ひらり、と空中を滑り、僕の足元へ落ちる。 「風で……落ちたのか?」 けれど、窓は閉じたままだ。 扉の外にも、風が吹き込むような場所はない。 僕はしばらく紙を見下ろしたあと、恐る恐る膝を曲げた。 指先で紙の端をつまみ、ゆっくりと持ち上げる。 古びて黄ばんではいるものの、破れてはいない。 表面へ懐中電灯を向ける。 それは、一人の患者について記されたカルテだった。 氏名。 年齢。 入院日。 病名。 治療内容。 小さな文字が、紙面を埋め尽くすようにびっしりと書き込まれている。 僕はライトを近づけ、最上段に記された患者の名前へ目を落とした。その夜の雨音を、私は今でも覚えている。 屋根を叩き、窓を揺らし、集落そのものを押し潰そうとするような雨だった。空の奥で雷が鳴るたび、家の中まで青白い光が差し込み、遅れて腹の底に響くような轟音が追いかけてきた。 後になって、あれは歴史的な豪雨だったと知った。 けれど私にとって、あの夜を忘れられない理由は雨ではない。 忘れたくても、忘れられるはずがない。 あの日、私は母さんに、取り返しのつかない言葉を投げつけた。 銀行での失敗を竹本さんに助けてもらった夜から、一年ほどが過ぎていた。 憧れだった人は、いつの間にか私の恋人になっていた。 そして、その日。 私は竹本さんから、結婚を申し込まれた。『これからも、そばにいてほしい。私と結婚してくれないか』 場所は、二人で訪れた遊園地だった。 夜の園内を彩るイルミネーションが、まるで星を地上に集めたみたいに輝いていた。赤や青、金色の光が幾重にも重なり、竹本さんの差し出した小さな箱まで、夢の中のもののようにきらめいて見えた。 箱の中には、とても綺麗な指輪が収められていた。 けれど、そのときの私は、指輪の形も宝石の輝きも、きちんと見られていなかったと思う。 竹本さんの言葉を聞いた途端、目の前が涙で滲んでしまったから。 嬉しくて、幸せで、胸の奥から何かが溢れてきて。 本当にこれは私の身に起きていることなのだろうかと、どこか他人事のようにさえ感じていた。『はい……! こちらこそ、よろしくお願いします……』 泣きながら、どうにかそう答えた。 きっとひどい顔をしていた。涙で化粧も崩れていただろうし、声だってまともに出ていなかった。 それでも竹本さんは、心から嬉しそうに笑ってくれた。 私の人生で、いちばん幸せだった瞬間。 今でも思い出せる。 光の色も、彼の声も、指輪をはめてもらったときの指先の震えも。 全部、昨日のことのように。 母さんも、きっと喜んでくれる。 竹本さんがどれほど優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる人なのか。それをきちんと話せば、きっと分かってくれる。 私は、そう信じていた。 家に着く頃には、雨脚はすっかり強くなっていた。 空にはひっきりなしに稲光が走り、雨粒が窓を激しく打ちつけている。それでも私の胸は、まだ遊園地の光の中にいた。 左手には、もらったばかりの指輪が
あの頃、ぬいぐるみたちに囲まれた部屋で胸に誓った願いは、やがて叶った。 立派な会社に勤めて、今度は私が母さんを支える。 そう夢見ていた私は二十四歳になり、目標だった銀行に就職していた。 まだ入行して一年目の、ある夜のことだ。 広いオフィスは、私の席を残してすっかり暗くなっていた。 等間隔に並んだ机も、書類棚も、窓際に置かれた観葉植物も、夜の闇に輪郭を沈めている。その中で、私の頭上の照明と、パソコンの青白い画面だけが、ぽつんと灯っていた。 スーツの袖を肘までまくり、私は何度も同じ数字を打ち直す。「んん……。どうすればいいのよ……」 弱音が、誰もいないオフィスへこぼれた。 返事の代わりに聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけ。 一年目の私は、まだ仕事に慣れているとは言い難かった。 それでも、頼まれたことはできるかぎり早く終わらせたし、分からないことがあれば何度でも確認した。母さんに楽をさせたい。その一心で、どんな仕事にも手を抜かなかった。 きっと、そんな姿勢を評価してもらえていたのだと思う。 私は銀行の入出金に関わる記録を確認し、金額を管理する仕事を任されていた。 お金を扱う以上、たった一つの数字も間違えてはいけない。 分かっていた。 誰よりも気をつけていたつもりだった。 それなのに私は、その日、一つの金額を誤って入力してしまった。 しかも、間違いに気づかないまま、その数字をもとに次の処理を続けてしまったのだ。 一つのずれが次のずれを生み、そのずれを正しいものとして、さらに別の計算が重なっていく。 画面を遡っても、どこまでが正しくて、どこからが間違っているのか、もう簡単には見分けがつかない。 並んでいる数字のほとんどが、最初の過ちに引きずられていた。 上司や周囲の人たちは、明日、みんなで確認しようと言ってくれた。 初めての失敗なのだから、一人で抱える必要はないとも。 けれど、私には帰ることができなかった。 私が間違えたのだ。 このまま翌日の処理へ持ち越せば、影響がどこまで広がるか分からない。もしかしたら、取り返しのつかない損害を出してしまうかもしれない。 そんな不安が、椅子から立ち上がろうとするたび、私の肩を押さえつけた。 退勤の打刻さえしないまま、私は一人で数字を追い続けた。 けれど、焦れ
次に浮かんだ記憶もまた、夕日の色をしていた。 集落を縫う細い道も、家々の屋根も、遠くに広がる畑も、何もかもが柔らかな橙色に染まっている。 自宅の前に立つ私の背中を、沈みかけた夕日がじんわりと温めていた。まだ身体に馴染んでいない真新しいセーラー服。その襟にも、スカートの襞にも夕日の色が滲んで、いつも見ていたはずの我が家さえ、少しだけ特別な場所に見える。 そして記憶の中で、次にその扉を開けたとき――私はもう、高校生になっていた。「母さんっ! ただいま!」 弾む声とともに家へ飛び込む。 その途端、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。 |鰆《さわら》だ。 脂の乗った皮がぱちぱちと爆ぜる音に、ほどよく焦げる匂いがかすかに混じっている。私の大好物だった。「おかえり」 台所から顔を出した母さんが、いつもの声で迎えてくれる。 幼い頃と比べれば、目尻には細い皺が増えていた。それでも、私を見る眼差しだけは少しも変わらない。温かくて、優しくて――いつだって私の帰る場所になってくれる、自慢の母さんだった。「念願の高校生活はどうだった?」「うーん、ぼちぼちかな!」 なんて、わざと何でもなさそうに答えたけれど。 今思い返せば、ぼちぼちだなんて言える声音ではなかった。声は自分でも分かるほど弾んでいたし、きっと頬も緩みきっていたのだろう。 母さんは私の顔をしばらく眺めたあと、堪えきれなくなったように、ふっと笑った。「何さ、その顔」「別に。ぼちぼちだったんだなと思ってね」「そうだよ。ぼちぼち!」 言い張る私に、母さんはますます可笑しそうに目を細める。「はいはい。ほら、早く上がんな。夕飯の支度、もうできてるからね」「うんっ!」 靴を脱ぎ、鞄を置くと、私は着替えもせずに居間の食卓へ向かった。 待ちに待ったセーラー服を、まだ脱ぎたくなかったのだ。今日一日だけでは足りない。家に帰ってからも身につけたまま、何度だって眺めていたかった。 そんな私を見て、母さんが呆れたように唇を尖らせる。「こら、詩織。いくらそのセーラー服が気に入ったからって、家に帰ったらちゃんと着替えな」「えーっ。だって、ずっと着たかったセーラー服なんだよ? 母さん、ちゃんと見てよ。可愛くない?」 椅子から立ち上がり、母さんの前で両腕を広げてみせる。その場でくるりと回れば、スカートの裾がふわ
──松田詩織── あれはまだ、ブランコに座った私の爪先が、地面に届かなかった頃の話。 物心がついたときから、私の家には母さんと私しかいなかった。 世間では、そういう家庭を母子家庭だとか、シングルマザーだとか呼ぶらしい。けれど幼い私に、自分の家に何かが足りないという感覚はなかった。 母さんがいてくれれば、それで家族は全部だった。 父がどんな人だったのか、私は母さんから聞いた話でしか知らない。 ただ、そのわずかな話だけでも、どうして母さんがそんな人を愛してしまったのかと、不思議に思うほどひどい男だった。 その人がいなければ、私はこの世に生まれていない。 それでも、母さんを傷つけたことも、私たち親子を置き去りにしたことも、許せる理由にはならない。 幼い頃の記憶にいる母さんは、いつも少し疲れている。 重そうな肩。目の下にうっすらと落ちた影。ふとした拍子にこぼれる、小さなため息。 それでも、私に向けられる手はいつだって優しかった。声を上げて笑ってくれたことも、一緒になってはしゃいでくれたことも、数えきれないほどある。 これは、そのひとつ。 母さんが私を公園へ連れていってくれた、ある夕暮れの記憶だ。 夢の中で見るその公園は、いつも茜色に染まっている。 滑り台も、砂場も、金網の向こうの街並みも、何もかもが同じ色に沈んで、そこだけ時間が止まってしまったみたいに静かだ。 私は古びたブランコに座り、短い足を懸命に前後させていた。鎖が軋むたび、きい、きい、と寂しげな音が響く。手のひらに残るのは、錆びた鉄の冷たさ。地面に伸びた影が、漕ぐたびに長くなり、また短くなる。 母さんは少し離れたところから、そんな私をずっと眺めていた。 そこへ、幼い子供を連れた女の人が二人、公園に入ってきた。 女たちは母さんに気づくと、ちらりと視線を交わし合う。そして自分の子供の帽子を直しながら、潜めたつもりの声で話し始めた。「ねえ、聞いた? 松田さん、離婚したんですって」「まあ。あんなに格好いい旦那さんだったのに、もったいないわねえ」「でも、松田さんって気が強いところがあるでしょう? 家でもあんな調子だったなら、旦那さんも息が詰まったんじゃない?」「ああ、それで逃げられたのね」「仕方ないわよ。男の人だって、安らげる家に帰りたいでしょうから」 くすくすと、押し殺した
結局、僕たちは男性のあとを追い、再び風鳴トンネルの前まで戻ってきていた。 美琴の突然の提案に振り回される格好にはなったけれど、これがあの女性を救う手掛かりになるのなら、断る理由なんてない。「あれ? どうしたんだい。まだ私に何か用でも?」 足音に気づいた男性が、怪訝そうに振り返る。 先ほど抱えていた白い花は、トンネル脇へ新しく供えられていた。代わりに男性の手には、そこに置かれていた枯れかけの花束がある。「いえ、そういうわけではございません。ただ……」 美琴はそれ以上を言葉にせず、男性の隣へ進み出た。白い花へ向き直り、胸の前で静かに両手を合わせる。「……本当にありがとう。きっと、詩織も喜んでいるはずだ」 男性の声が、ほんの少しだけ和らいだ。「その詩織さんという方が、こちらで亡くなられた方なのですね」 僕も美琴の隣に並び、花へ向かって手を合わせた。 ――どうか、詩織さんが安らかに眠れますように。 目を閉じ、胸の内でそう祈る。「ここで亡くなった私の婚約者は、詩織というんだ」 男性は、トンネルの暗がりを見つめたまま話し始めた。「あの晩、私たちの結婚をめぐって、詩織はお義母さん……静江さんと口論になってしまってね。深夜に家を飛び出して、このトンネルを歩いていたところを、速度を出しすぎたトラックに……」 それ以上は口にできなかったらしい。男性は顔を伏せ、目頭を指で押さえた。「……さぞ、お辛かったことでしょう」 美琴の声が、湿った風の中へ静かに溶けていく。「もちろんだよ。私の中の時計の針は、あの日から止まったままだ」 男性は自嘲するように、かすかに口元を歪めた。「これがきっと、後悔というものなのだろうね」「後悔……ですか」「彼女は、私に出会わなければ命を落とさずに済んだのかもしれない」 聞いているだけで、胸の奥が痛んだ。 彼はずっと、詩織さんを失った理由を自分の中に探し続けてきたのだろう。そして見つけてしまった答えが、自分と出会ったことそのものだった。「あの……先ほど、結婚のことで揉めたとおっしゃいましたよね」「ああ。静江さんは、ご主人とのことで深い傷を負っていてね。それで、私と詩織の結婚にも強く反対していたんだ」 男性の手の中で、枯れた花がかさりと鳴る。「その夜も二人は言い争いになって……詩織は家を飛び出した」 その言
僕たちが風鳴トンネルを離れ、バス停へ向かっていた途中のことだった。 山道の向こうから、一人の男性が歩いてきた。 くたびれた紺色のスーツを身にまとい、ワックスで整えていたらしい髪もすっかり崩れている。けれど、その手に抱えられた花束だけは、ひどく丁寧に包まれていた。 白い花々が、男性の歩みに合わせて小さく揺れている。 すれ違いざま、僕たちは互いに軽く会釈を交わした。 そのまま数歩進んだところで、背後から聞こえていた靴音がふいに止まる。「君たち」 突然呼び止められ、肩が跳ねた。 白い花束を抱え、風鳴トンネルへ向かう人。 もしかすると、あの場所で亡くなった誰かの関係者なのではないだろうか。そんな考えが、真っ先に頭をよぎった。「はい?」 振り返ると、男性は僕たちをじっと見つめていた。 眼差しは肌にまとわりつくように疑い深い。それなのに、その瞳自体は妙に乾いて見えた。怒っているというより、怒ることにさえ疲れてしまったような目だった。「……君たちは、どうしてあのトンネルへ行っていたんだい?」「それは……」 言葉に詰まる。 本当のことなら、はっきりしている。 あの場所を彷徨っている女性を救いたくて、手がかりを探しに来た。 けれど、そんな説明で納得してもらえるはずがない。見えないものが見えるから信じてほしい――なんて、知らない人に話したところで、怪しまれるだけだろう。 どう答えるべきか迷っていると、美琴が静かに一歩前へ出た。「私たちは、異常現象研究会というサークルで活動しております。こちらで過去に繰り返されてきた事故について、その原因を調べに参りました」 あまりにも淀みのない返答だった。 異常現象研究会。 少なくとも僕は、今この瞬間に初めてその存在を知った。 危うく「何それ」と聞き返しそうになったけれど、どうにか堪える。美琴は顔色ひとつ変えていない。その堂々たる様子に、隣で聞いている僕の方が冷や汗をかきそうだった。「異常現象研究会……?」 男性の眉間に皺が寄る。 無理もない。たった今会員にされた僕にだって、よく分