ログイン楓の問いかけを聞いた侑里は、鼻で笑った。値踏みするみたいに楓を上から下まで眺め、その目はまるで道化でも見るようだ。「断ったらって?」侑里は楓の言葉をわざとなぞり、薄く口角を上げる。「楓、自分の立場、分かってるの?」立ち上がり、すっと距離を詰めて見下ろした。「今の仕事で、月にいくら稼いでるの?桜井家の名を汚すだけじゃない。まだ自分を優秀な研究者だと思ってるの?」楓はブリーフケースを強く握り、呼吸を整えた。頭に血が上がりそうなのを、必死で押し込める。「収入は高くありません。でも、実力で勝ち取った仕事です。見下される理由はありません」「実力?」侑里は冷笑する。「今のあなたに、何の実力があるの?贅沢に慣れすぎて、自分が何者か忘れたんじゃない?重病の父親を、うちの金で支えてもらってるくせに、よく桜井家の内情に口出しできるわね」その言い方に、楓の中で何かがぶつんと切れた。「お義母さん、言葉を選んでください!」「選ぶ?」侑里の声が鋭くなる。「私の息子に養われてる分際で、よく言えるわね!」楓も引かなかった。即座に、言い返す。「養われてます?大輔が私と結婚して、私の研究成果を引き継がなければ、お祖父様の信頼を取り戻せたと思いますか?CEOになれたと思いますか?私がいなければ、あの地位は手に入らなかったんです!」いつも黙って耐えてきた楓が、ここまで言うとは思わず、侑里の顔が険しく歪んだ。「……どうやら、本当に分をわきまえてないみたいね」一歩近づき、声を落とす。脅しの温度だけが、ぴたりと張りついた。「これが最後の警告よ。これ以上勝手な真似をしたら、あなたのお父さんの医療費、即刻打ち切る。病院から追い出してもいい。私が本気だって、分かってる?」その言葉に、楓は――逆に薄く笑った。ゆっくりとブリーフケースを持ち上げ、テーブルに叩きつける。ガタン、と鈍い音。ケースが開き、中の写真が雪みたいに散らばった。レストランで抱き合う大輔と智美。車内での、生々しい密着。どれも、言い逃れの余地がない鮮明な証拠ばかりだ。それを見た瞬間、侑里の顔から血の気がすっと引いた。驚きと動揺が、隠しきれずに浮かぶ。「……どこで……こんなものを……」声が震えている。楓は冷ややかに見下ろした。「これがお祖父
大輔の怒り混じりの詰問に、楓は眉をひそめて彼を見た。その目に、はっきりと「うんざり」が浮かぶ。「誰と食事したかまで、あなたに報告する必要ある?」一瞬だけ、大輔の目に罪悪感がよぎった。けれどそれはすぐ、怒りに塗りつぶされる。「君は俺の妻だろ!」「……本当に?」楓は冷たく笑った。「じゃあ今夜、あなたが智美をラウンドルーフに連れて行ったとき、私が妻だって意識してた?」大輔の顔色が一気に抜ける。見られていた――その事実が刺さったのだ。「楓、違う、あれは……」言い訳を始めようとした口を、楓が先に塞ぐ。「赤いドレス、綺麗だったわね。窓際の席で、ずいぶん楽しそうだった」「聞いてくれ……!」大輔は必死に取り繕う。「何を?愛人とのデートの言い訳?それとも、私が誰と食事してたかを詰めた理由?」楓の声は、さらに冷えていく。動揺と焦りで、大輔は慌てて言った。「デートじゃない!仕事だ、取引先に付き合っただけだ!智美は妊娠して体調が悪くて、俺はただ……」「取引先?」楓は即座に遮った。「取引先があんな格好する?腕を組んでべったりする必要ある?」嘘が崩れたと悟った大輔は、急に情にすがる方向へ舵を切った。「楓、信じてくれ。俺が愛してるのは君だけだ。智美はただ……」「ただ何?」楓は嘲るように聞き返す。「あなたの子どもを妊娠してるただの女?大輔、本当につまらない芝居だわ」楓の遠慮のない軽蔑と不信。それに刺されて、大輔の罪悪感は苛立ちに変わっていった。――もう十分、自分は譲歩してる。なのに、なぜ引かない?そんな顔をしながら、大輔は声を荒げる。「もういい!全部説明しただろ。なんで信じないんだ?」楓は静かに言った。「あなたの言葉が、全部嘘だから」その一言が、決定打だった。大輔の顔に、露骨な疲れが浮かぶ。追い詰められた反省ではない。投げやりな消耗だ。智美といるときには、こんな重圧はなかった。あの女は疑わない。持ち上げる。都合よく理解する。だから楽だった。「……好きにしろ」大輔は吐き捨てるように言った。「もう疲れた」その言葉を聞いた瞬間、楓の胸に鈍い痛みが広がる。――嘘を暴かれても、自分を省みるより先に、私を面倒で片づけるんだ。楓は淡々と返した。「私も疲れ
澄の核心を突く質問に、楓は一瞬固まった。頬にうっすらと赤みが差す。すぐに表情を整え、眉をひそめて否定した。「考えすぎだよ、澄」「でもさ、あの目……」澄はさらに踏み込もうとする。楓はきっぱり遮った。「それに、彼は私の義理の叔父だから」その一言に、澄は目を丸くし、口を開けたまま固まった。「えっ?義理の叔父って……旦那さんのおじさんってこと?」「そう」楓は迷いなく言う。「だから、もうそういうこと言わないで」楓の真剣な表情に、澄はまだ腑に落ちない様子だったが、それ以上は追及しなかった。「……分かった」楓は作業スペースに向き直り、会話を切り上げる。澄も不満そうに席へ戻ったが、目の奥にはゴシップ好きな光が残っていた。義理の叔父だとしても……あの視線は普通じゃないけど。午前中は慌ただしく過ぎ、昼前。楓が実験データを整理していると、スマホが鳴った。表示された名前に、思わず目を見開く。――継母の蓮だ。「蓮さん?」楓は電話に出た。「楓、今夜、時間ある?」どこかためらうような声。「一緒に食事でもどうかしら」珍しい誘いに、楓は少し驚いた。「大丈夫ですよ。何かあったんですか?」「直接会って話した方がいいわ」蓮はそう言って、「夜七時、ラウンドルーフ。予約してあるから」と告げ、慌ただしく電話を切った。――夜七時。楓は約束どおりラウンドルーフに到着した。上品で落ち着いた雰囲気の高級レストランだ。案内された席は、床から天井までの大きな窓際だった。席に着き、水を注文したその瞬間。窓の外の光景が目に入り、楓は息を呑む。真っ赤なドレスに身を包み、まるで晩餐会に出るかのように完璧に装った智美。その腕を取っているのは、黒いスーツを着た大輔だった。大輔は隣の女を優しい眼差しで見つめ、二人はどう見ても仲睦まじい恋人同士だった。胸に鋭い痛みが走る。楓の脳裏に、結婚式の日の光景がよみがえった。司祭の前で、大輔が誓った言葉。「富める時も貧しい時も、病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつまで愛し続けます」言葉はまだ耳に残っているのに、隣に立つ人はもう違う。楓は深く息を吸い、胸の苦さを押し込めた。視線をメニューに落とし、二人を見ないようにする。「ごめんなさい、遅れたわ」蓮が慌ててやってきて、楓の向かいに座る。
タクシーは、警察署からゆっくり離れていく。楓はバックミラー越しに、入口付近で立ち尽くす大輔を見た。嵐の前の空みたいに、顔が暗い。スマホが震え続ける。大輔からの着信。着信。着信。楓は一度も迷わず、ブロックした。ふっと静寂が戻る。楓はシートに深く身を預けた。胸の奥は――妙なくらい、静かだった。警察署の前で、大輔はスマホを握りしめたまま立ち尽くしていた。繋がらないと分かった瞬間、顔がさらに沈む。追いかけようとした、その時。着信音が響く。侑里だ。「大輔、今どこにいるの?」有無を言わせない声。「警察署だよ、母さん」苛立ちを噛み殺す。「ちょうどいいわ。今すぐ智美を無事に家まで送りなさい。さっき彼女から連絡があって、困ってるって」断固とした口調。「今はとても大事な時期なの。絶対に何かあってはだめよ」大輔は、タクシーが消えた方向へ一瞬だけ目をやり――渋々答えた。「……分かったよ」電話を切って、踵を返す。待合スペースには、目を真っ赤に腫らした智美が座っていた。弱々しくて、哀れなほどだ。大輔を見るなり、智美は立ち上がり、そっと近づく。「戻ってきてくれたのね……」涙を含んだ声。「さっき、本当に怖かった……」腕にしがみつき、体を寄せる。さっきまで楓に見せていた強気は、影も形もない。――それでも、大輔の胸は落ち着かなかった。楓の冷たい視線。突き刺さる言葉が、頭から離れない。「……帰ろう。送る」声は硬い。車内。智美は大輔の顔色を盗み見ていた。人通りの少ない道に差しかかったところで、智美はそっと距離を詰める。「ねえ大輔……まだ怒ってる?」甘い声。空気を変えようと必死だった。大輔は答えない。けれど、呼吸がわずかに乱れる。智美はさらに押す。彼の理性が、揺らぐのが分かった。やがて車は、人目につかない場所へ止まった。――そして、しばらくして。車内が静かになり、ただ重たい空気だけが残る。その頃。楓は自宅に戻っていた。ソファに腰を下ろした瞬間、スマホが震える。私立探偵からの通知だ。画面を開いた瞬間、次々と写真が並んだ。車内。密着した二人。時間も角度も、言い逃れできないほどはっきり分かる。胸が締め付けられる。分かっていたはずのことでも、こうして証拠
電話の向こうで、崇真の怒鳴り声が止まらなかった。「お前のために、あのシミュレーション手袋を手に入れるのにどれだけ金を使ったと思ってる!そのせいで桜井雅也を怒らせたんだぞ!危うく俺は職を失うところだった!」桃奈は震える手でスマホを握りしめる。指先が冷たい。「そんな結果になるなんて思わなかったの……お願い、お父さん、助けて!」「助ける?俺だって自分すら守りきれないところだ!」崇真の声には、怒りだけじゃない、絶望が混じっていた。「だから言っただろ、桜井家に手を出すなって!今じゃ俺まで巻き込まれてるんだぞ、この馬鹿者が!」通話は一方的に切られた。桃奈は、その場に立ち尽くす。頭の中が真っ白になり、息が浅くなる。――次の瞬間。彼女は反射的に、智美へ電話をかけていた。「智美、助けて!お父さんがもうどうにもできないって……!」電話口の智美は、すぐには返事をしなかった。胸の奥で渦巻くのは、恐怖と苛立ち。数秒考えたあと、智美は別のスマホを手に取る。そして、ある番号へ。「……智美です。お願いがあります……」その頃。楓は警察署の会議室で事情聴取を受けていた。研究室の爆発事故。桃奈との関係。いつから揉めていたのか。何がきっかけか。「大学時代の友人でした」楓は淡々と答える。「でも、ある出来事をきっかけに関係が壊れました」必要なことだけを、淡々と。感情は乗せない。供述を終えて会議室を出た、その廊下で――駆け込んできた智美と鉢合わせた。楓の顔を認めた瞬間、智美の目に露骨な憎しみが走る。一歩詰め寄って、吐き捨てた。「冷酷すぎるわ!こんな些細なことで人を刑務所送りにするなんて!」楓は一拍おいて、静かに返す。「些細?あの硫酸が私の顔にかかってても、同じこと言える?」「この女……!」智美の声が裏返る。「あんたのせいで桃奈は――」「私のせい?」楓は薄く笑った。「私がラベル入れ替えろって頼んだ?それとも、強制した?」「調子に乗らないで!」智美の顔が歪む。「大輔は絶対にあんたを本気で愛してない。彼が大事にしてるのは私と、この子だけ!」「この子」その単語が刺さる。胸がちくりと痛む。――でも、楓は顔色一つ変えない。「そう」あえて淡々と。「じゃあ、どうして彼は私と結婚
楓はドア脇に立ち、モニター越しに少し疲れた大輔を見つめていた。離婚の段取りが頭をよぎる……それでも、結局、解錠ボタンを押した。「どうぞ」声は静かで、感情は動かない。大輔は保温容器を抱えて部屋に入り、楓の顔色をそっと確かめながら、彼女の好物ばかりをテーブルに並べた。「傷、どう?まだ痛む?」沈黙を壊したいだけの問い。「大丈夫」楓は短く答え、席に着く。食事中、大輔は何度も話題を振る。でも、そのたび楓の冷えた返しに止められた。やがて大輔が、意を決したように口を開く。「来週は、君の誕生日だ」箸を持つ楓の手が、一瞬だけ止まり――すぐ、何事もなかったように動く。「何がいい?ジュエリー?それとも、前から欲しがってた限定の腕時計?」慎重な優しさを作る声。「旅行でもいい。ずっと行きたいって言ってたろ、海に」その瞬間、楓の胸に冷水が浴びせられた。一年待ち続けたあの旅。そして智美からの電話一本で、無残に消された計画。全部が、一気によみがえる。「何もいらない」楓の声はさらに冷え、箸を置いた。もう食事を続ける気がないのが分かる。その距離に、大輔の胸を敗北感が押しつぶす。間違えたのは分かっている。でも、どう取り戻せばいいのかが分からない。食後、大輔は自分から後片付けをし、リビングで楓の向かいに腰を下ろした。真剣な目で切り出す。「楓、ちゃんと話そう」疲れと必死さが混じる声。「俺が君を傷つけたのは分かってる。どんな罰でも受ける。でも……いつまで罰を与え続けるつもりなんだ?」楓は視線を落とし、長い沈黙のあと――静かに言った。一言一言が、大輔の胸に刺さる。「分からない。たぶん……あなたを愛さなくなったら、もう気にしなくなる」大輔は氷穴に落とされた気分だった。憎まれる方がまだいい。憎しみは、まだ向けられている感情だから。愛が消えるのは、完全な無関心だ。「楓……そんなの、あんまりだ……」声が震える。「まだ、俺たちに希望はあるだろ?」楓は顔を上げる。その瞳に温度はない。「大輔。全部壊したのはあなたでしょ。今さら希望を求めるの?」部屋が、息が詰まるほど静かになる。大輔は何か言おうとして、言葉を失った。そのとき、着信音が静寂を切り裂いた。表示された名は――夏帆。「こんな時間に